第169話 密談
1948年(令和2年)10月8日
「峯山君、次の総裁選出てよ。僕はやめるからさ」
急に首相官邸の執務室に呼び出された峯山は、急にそう切り出されて絶句した。
明日の日程を話すような、緊張感のない口ぶりであった。
峯山は執務室の応接セットのソファーから思わず立ち上がってしまう。
「ちょっと待ってくださいよ。総裁任期もまだ1年残っていますし、支持率だって低迷していますが、まだ危険水域じゃない」
峯山は、羽生田内閣の三年間ずっと外務大臣をつとめていた。
羽生田派の次期派閥領袖候補とも目されており、総理の座に近い人物ではある。峯山自身もそれを自覚していた。
いつかは総理総裁にというのは政治家の常、とマスコミのインタビューに答えた事もある。
「まあ、僕もまだ早いとは思うよ。だけど状況が状況でね」
先ほどとは打って変わって、深刻な口ぶりではあった。
『人間万事塞翁が馬』と書かれた扇子をひらひらさせている。羽生田が熱烈なファンである女子高生女流棋士を、女流王位を取った記念として首相官邸に招いた時に贈られたものだ。
ちなみに羽生田自身もアマ三段位を持つ、大の将棋好きである。どう考えても職権乱用だが、将棋連盟からは感謝状が来たらしい。なお、その後最年少竜王との恋仲報道で、ぶらさがり質問で羽生田が感想を求められるオチがついたが。
「もしかして、ソ連ですか」
峯山の顔には憂慮の色があった。
特に昨今は北欧を舞台に、対ソ包囲網の構築に邁進していたところだった。
「ああ、戦略偵察局が報告書を寄越してきた。彼らはやる気だよ。あとで、君にも閲覧してもらうが、ほぼ確定だ」
「焦点はベネルクス三国ですか」
新聞各社が最近連日報道しているのは、峯山も承知していた。
ソ連はネーデルラントとベルギーに、英国と米国が共同で軍事基地を建設していることを非難していた。
その一方で、ソビエト連邦はヨーロッパ各国に共産党政権を樹立し、事実上の衛星国家としていた。ポーランド、チェコスロヴァキア、ドイツ人民共和国をはじめとする欧州各国では、共産党政権による恐怖政治が度々問題化している。
パリ陥落以降レジスタンスに手を焼いていたフランスでも、事実上の
まだ発足してまもないフランス
こうして、ヨーロッパの大半を勢力圏に納めたソ連にとり、ベルギーとネーデルラント、そして英米より中立国のルクセンブルクは、英米が打ち込んだくさびであった。
それを除去したいというのが、ソ連の思惑なのだろう。
「第三次世界大戦、という訳ですか」
「残念ながら、ね。開戦ともなれば、満洲も戦場になる。ひょっとすれば樺太や千島列島も。我が国は満洲帝国に深入りしているからね、救援せざるを得ない。」
「日満議定書の改定は早まったかもしれませんね」
昨年、日本はいわゆる『日満議定書』の改定を行っていた。
名称も『日満安全保障条約』と改名され、これまで通り日本軍の駐留を認めるかわりに満州帝国を対等な独立国家として認める内容であった。また、条約に基づいて日本のエネルギー商社が満洲油田の採掘権を取得、大量の原油を輸入出来るようになった。
この条約によりこれまで満洲帝国の国家承認を行ってこなかった旧連合国も、相次いで国家承認を行い、正式に国際連盟加入も認められていた。
こうした利益とともに、満洲帝国の防衛は、日本の責務として重くのしかかるものとなっていた。
「アジアだけで済みますかね。ヨーロッパへの派兵を迫られるかもしれません」
「どうだろうね。はじまってみないと分からんな」
羽生田はそう言ってかぶりを振る。
「それにしても、どうして今さら。スターリンの健康問題ですか」
「それもあるかもしれない。米国が再び反応兵器を生産するという情報もある。案外、そちらが原因かもしれないね」
「反応兵器戦争になる前に、通常兵器で取れるものは取っておこうという腹ですか。ソ連も反応兵器を開発しているんでしょうに。まったく…」
「人類というのは結局、痛い目にあわないと学ばないという事なのかねぇ」
そう言って茶をすすりながら明後日の方を見て韜晦する羽生田に、峯山は恨み言を言いたくなる。
「ベルギーやオランダが陥落したら、英国本土も危ういかもしれない。米国がどれだけ本気で戦争をやるかにもよりますがね」
「ハミルトン政権は共和党ですからね。派兵を渋る可能性はあります」
峯山はアメリカ政界事情を脳裏に思い浮かべつつこたえる。
「だろうねぇ。元々日本との停戦をうたって当選したからね、フィッシュ大統領は」
「共和党主流派もヨーロッパへの派兵には反対するでしょうね。世論調査もヨーロッパへの介入に消極的な意見が大勢を占めています。対ソ連強硬派もいるにはいますが、まだまだ少数派ですね」
「ソ連は警戒するけれども、なにもすぐに戦争までやることはない。そんなところかな。仕方ないこととはいえ、先の大戦の犠牲が大きすぎたからねぇ。無理もないが、困ったな。我が国は世界の警察官とか柄じゃないんだが」
「さすがに英国本土の陥落はまずいですよ。後への影響が大きすぎる」
「といっても我が国も民主主義国家だからね。すぐに派兵といっても国民世論が納得するとは思えないね」
「そうですよね…どっちにしろ先手は向こうに譲ることになりますね」
「まあ仕方ないさ。真珠湾攻撃のように最初の一発を相手に撃たせるのも戦略ではある。現地の人々にとってはたまったものではないが、ね」
「その一発が反応弾でないことを祈りますよ」
「それは笑えないなあ。さすがにソ連の開発体制では実用化はまだかかると思うけどね」
そう言いながら羽生田は頭をかいた。
あのトラック島と択捉島への反応弾攻撃は、羽生田にとってもトラウマになっている。
「まあ、そうならないように情報収集活動に全力をあげますよ。二度も同じ手は食いません」
峯山はそう力強く言い切ってみせる。
「それは心強いね。じゃあ改めて総裁選よろしくね」
「…分かりました。出ますよ、総裁選。当選出来ると決まった話でもありませんがね」
観念した表情で峯山はお手上げという仕草をしてみせる。
「こういう有事の時は、桐生さんや君のような人物が首相をやるべきなのさ。僕は平時向きの政治家だからね。自然災害ならまだしも、戦争指導なんて無理さ」
昭和の時代から派閥政治にどっぷりとつかり、「遅れてきた党人派」の異名を持つ羽生田は、そう言うと額をぴしゃりと
時震前は首相への野心を度々口に出していたくせに、あっさり政権を
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