第167話 羽生田内閣

1946年2月16日7時15分(日本時間)

 

 「はー、総理なんてやるもんじゃないなぁ」


首相官邸の執務室に戻ってきた羽生田総理大臣は、固まった肩を少しでもほぐそうと肩を回している


 くたびれた顔で、目の前に山積みになっている紙書類にげんなりとした顔をする。

 省庁のペーパーレス化はだいぶ進んだが、この官邸から紙書類が消える日はまだまだ遠そうだった。


今は国会開会中なので、どうしてもこの手の紙書類が復活してしまうのだった。

  その書類の山の上には今朝の新聞各社の朝刊が載っている。


一面に踊っているのは、どこの新聞社も『毛沢東、延安郊外で戦死』のニュースだった。 深夜、朝刊原稿締め切り間際に外国通信社から飛び込んできたこのニュースは、各社の一面記事を差し替えさせるほどのニュースバリューを持っていた。

 諸外国ではベタ記事扱いだったこの記事は、『二度目の世界』が、一度目とは全く違う歴史をたどりつつあることの象徴だった。


羽生田はそのニュースをなんとも複雑な顔で眺めつつ、同じ一面の端にのっている世論調査のグラフを眺める。

 内閣支持率は50パーセント、不支持率25パーセントという数字は、なんとも羽生田らしい凡庸な数字だった。


 桐生前首相の突然の辞意表明とともに決まった、与党保守自由党の総裁選。

 派閥の長として出ざるを得なくなった羽生田は、準備が行き届かなかったにもかかわらずあっさり当選。


 背景には衆議院の任期切れが間近に迫っていたという事情もあったし、前の首相が国民人気の高い桐生で後任はいささかやりにくいというのもあった。

 そんな事情から党内は火中の栗を拾いたがらない者ばかりで、やむなく羽生田が貧乏くじをひかされたという訳だった。


事実上の選挙管理内閣と言われた通り、羽生田は就任直後に内閣総辞職を決断した。

 衆院選は野党が肉薄する厳しい選挙戦となったが、なんとか保守自由党が衆議院の過半数を獲得。かろうじて命脈を保った羽生田は、今も総理大臣の職にある。


「このあとは、13時より報道各社のインタビュー会見が予定されています」


 秘書官の鴨志田英里子が、冷静な声で通達する。

 民間シンクタンクあがりの珍しい経歴の彼女は、いずれ国会議員を目指すと公言する野心家だ。

 ぼやきなど聞いていないという顔で、羽生田の予定をタブレット端末でチェックしている。

 羽生田にしても、反応を期待している訳ではないから、その方が有り難い。


「勘弁してくれないかなあ。ここのところ、散歩する暇もないよ。朝食はここで取るからね」


「そうおっしゃると思って、すでにサンドイッチは用意しています」


鴨志田はそう言って内線電話を手に取ると、厨房に連絡する。


「それは助かるね。持つべきものは、優秀な部下だ」


そう言いながらも、羽生田の目線は山と積まれた紙書類ではなく、自身のタブレット端末に目をやっている。

 厳重に暗号化された首相官邸のファイルサーバーから、目を通すべき資料をピックアップして読み込んでいる。

 資料には今井の注釈が添付されており、要点が把握出来るようにマーカー機能で強調されている箇所もある。


 そこには現在日本が行っている政策や、課題点が浮き彫りにされていた。

 日本は戦前までの内向きな国家政策ではなく、いわば地域覇権国家として振る舞わざるを得なくなっていた。


 アメリカはヨーロッパの過半を獲得しているソヴィエト連邦への対処で忙殺されていたからだ。日本への牽制として独立したフィリピンに海軍基地は置いたものの、アメリカのアジアへの軍事力の展開は限定されたものとなっていた。


 当初、政府は連合国への刺激を避けるために、アジア各国へは関与しない方針を取ろうとした。

 しかし、戦略偵察局がアジア各国への共産主義勢力の浸透工作を警告する秘密報告書、通称「赤色報告書レッド・アラート」を政府に提出。


 すべてが変わった。


『一度目の史実』どおりか、あるいはそれ以上にアジア諸国で共産主義化ドミノが発生すれば、日本が自国製品を輸出する先が無くなってしまう。

 その報告書を元に開かれた国家経済会議NECでも同様の提言がまとめられ、羽生田内閣は当初の政府方針をあっさり切り替えた。


 独立間もないアジア各国へ経済安全保障顧問団を派遣した。


 戦後の混乱により不安定な社会を、経済の立て直しによって安定化させる事が目的だった。同時に、日本を盟主とする環太平洋条約機構PRTOの構築を急いだ。

『一度目の世界』のようにアメリカを同盟国とする事が当面は不可能である以上、インドや東南アジアをはじめとする親日派政権を、日本の同盟国に引き入れる必要があったからだ。


その一方で、一度目の世界では「国際連合UN」として機能するはずだった連合国から、ソ連が離脱を宣言した事への対応も迫られた。

 対立するにしても、話し合いの場だけはどこかに確保せねばならないからだ。

 日本は第二次世界大戦の開始によって、休止状態にあった国際連盟に再加入するとともに、『一度目の世界』の国連に準じた機構改革を行った。そのうえ、アメリカ議会へのロビー活動を推し進め、懸案だったアメリカの加盟を実現させた。

 今のところ、この二つの試みはうまくいっている。


「アメリカ国内は、まだ『スパイモグラ狩り』の後遺症が抜けていないようだね」


タブレット端末で戦略偵察局の報告書を読みながら、羽生田はそんなつぶやきを漏らす。


「我が国が秘密裏に第三国経由で流した、ソ連のスパイリストレッドデーターブックは少々薬として効き過ぎました。中間選挙の際にも、候補者が共産主義者でないか、様々な踏み絵があったと聞きます」


 今井秘書官の言葉に羽生田は困った顔になる。

 今読んでいる報告書にも、アメリカ国内で過激化しつつある『赤狩り』にいて触れられている。

 ハミルトン政権は異例な事に、ソ連のスパイ工作に関する一部機密文書を公開していた。 通常であれば、他国のスパイ活動をどれくらい把握しているかは機密事項であるし、あえて泳がせてニセ情報をつかませるというやり方も出来る。

しかし、各国情報機関がすでに知っている情報を機密としておくよりも、対日戦の背景にソ連の影響力工作が影響していたという事実を広めたほうがいいという判断となった。


 これは、日本との戦争が中途半端な状態で『手打ち』となったことに不満を持つ層に、浸透しつつあった。『日本との不要な戦争をすることになったのはソ連のせいだ』というのは、事実を多分に含んでいるだけに始末が悪かった。

「史実より早くソ連の脅威に気づいてもらったのはいいけど、あまりソ連との関係が悪化するとねえ。せっかく平和になったのに、『第三次世界大戦』なんて御免被るね」


 羽生田は報告書を流し読みしながら、憂鬱な予感に頭を抱える。

 仮に第三次世界大戦が勃発しようものなら、日本が巻き込まれることは明らかだった。 日本とソ連は樺太や千島列島で国境線ごしに相対しているし、同盟国の満洲国が攻撃されるのを手をこまねいているわけにもいかないからだ。

 ソ連との間には中立条約が締結されており、有効期限まであと2ヶ月となっていた。


 現在ソ連政府とは条約延長交渉に臨んでいるが、ソ連政府側は未だ回答を保留している。

 史実では紙切れのごとく反故にされたあげくに、満洲や千島、樺太への侵攻を招いた条約であるから、羽生田は気休めでしかないと思っているが。 


 憂鬱な思考を遮ったのは、電話機の電子音だった。


 鴨志田秘書官が受話器を取り、用件を確かめる。


「満洲帝国大使館、馬特命全権大使からお電話です」


「分かった、つないでくれ」


 執務机の電話機を操作し、保留になっている電話をつなぐ。


「これは馬大使。いや、時間は大丈夫です。貴国は我が国の同盟国ではないですか、いつでもかけてきていただいて構いません」


 羽生田は外交モードの顔で、慇懃いんぎんに受け答えをする。

 日本の微妙な外交状況が、それを要求していた。。


 アメリカとは戦時賠償を通じて関係改善をはかっているが、つい先日まで戦争をし

ていた間柄であるから友好関係の構築まではほど遠い。

 英国にしても、旧植民地が次々と独立するに従ってぎくしゃくした状態が続いている。


 例外なのは早々に連合国から離脱したために英本国と対立し、必然的に日本と友好をはからねばならないオーストラリアくらいのものだった。


かつては事実上大日本帝国の支配下であった満洲帝国は、今やむげには扱えない日本の貴重な同盟国なのだった。


 あれやこれやと外交的辞令の交換が続いたあと、いくつかの折衝がなされる。

 鴨志田秘書官はそれを素早く速記し、メモにまとめている。


「…貴国の慶事でありますから、万難排して駆けつけさせていただきますよ。それでは、失礼致します」


 そう言うと、羽生田は相手が見えていないにもかかわらず、うやうやしく頭を下げて電話を切った。


「満洲の皇帝即位式と結婚式をまとめてやる、だってさ。こっちだって新元号制定やら、陛下の御退位やらで忙殺されてるのに、勘弁してよー。陛下がご出席なんてことになったら、胃に穴が開くよ」


 鴨志田は情けない声でそう言うと、いつの間にか鴨志田が執務机の上に置いていたバスケットから、ポテトサラダのサンドイッチを取り出して手をつける。


「ごめん、コーヒー入れ直してくれる?」


「分かりました。ちなみに、あと15分で出発時間です」


 コーヒーカップを受け取りながら、鴨志田は冷たい口調で警告する。


「分かってるって。議事堂行く前に、少しは腹ごしらえしとかないとキツいからね…はあ、忙しくなっちゃうなあ」


そういいながらも、どこか楽しそうに微笑んでいるのがこの羽生田という男の本質なのだった。

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