第165話 皇帝即位

「おい、どういうことだ!こんな話聞いてないぞ!」


真新しい満洲帝國まんしゅうていこく軍の禁衛隊近衛少将の階級章をつけた男、唐澤保之からさわやすゆきはこの男には珍しく焦ったような顔で飛び込んで来る。


 禁衛兵が困ったような顔で制止しようと一歩前へ出ようとする。

 自分よりも階級が上であるのと、顔なじみであることからの困惑だろう。


 昼食に取り掛かっていたその部屋の主人が、禁衛兵を片手をあげて制止する。


 彼女は、関東軍叛乱事件において皇帝溥儀が暗殺された事で帝国皇帝となった愛新覚羅溥傑の第一皇女にして次期皇帝、愛新覚羅美生であった。


 溥傑は共産主義者たちに兄が暗殺され、自分自身も殺されかけたことに衝撃を受けて政治的立場をほぼ放棄している。日々離宮の部屋にこもりきりになり、皇宮にもほとんど姿を見せていない。


 前皇帝溥儀の直系皇族は、溥傑以外すべて皇宮襲撃時に皇帝と運命を共にしており、皇位継承者は彼女しか残っていない。


 つまり、彼女が事実上この帝國のトップなのだった。


「なんのことかしら。それよりお昼でも一緒にどうかしら、我が夫」


「あのなあ。それよりこれについて説明を…」


「説明は不要だと思うけど。そこに書いてある通りよ。あなたは私の夫になるの。保之皇配殿下」


保之が手に持っていたのは美生の皇帝即位式と、唐澤少将との結婚を告げる号外だった。


 ご丁寧に微細なイラストで伝統的な満洲民族衣装による即位式が書かれたそれは、市内中に新聞各社の号としてバラまかれている。


そもそも、保之がこのニュースを知ったのはよく通っている満洲料理店の店内に流

れていたラジオのニュースだった。


 すでに満洲国中にこのニュースは知れ渡っていると思っていいだろう。


 用意が間に合わなかったのか保之の写真までは号外に載っていなかったが、写真が出回るのも時間の問題だろう。


 市中の飯屋でゆっくり食事も出来なくなりそうだった。


「俺は日本人だぞ?」


へそを曲げたような顔で、彼は女官のひいた椅子にどっかりと腰掛ける。

 まずは腹ごしらえをしつつ、話を聞くことにしたのだった。

 美生はそれを見て、艶然と微笑みかける。


-まったく、女は怖いな。これが、つい先日まで主義者どもの銃口におびえていた小娘かよ。


内心そう呆れつつも、保之は彼女が急速に成長しつつあるさまを好意的に見ていた。


 自分が助けた相手が快活にしているさまを見るのも、案外わるくないと思っている。

 それをごまかすように、女官から奪い取るように水餃子の入った皿を受け取って箸をつける。


 市中の料理店のような態度であったが、美生はとがめることはなかった。


「あら、あなたは満洲の旅券をもっていたと思うけど?そうでなければ仮にも禁衛隊になど入れるわけはないでしょうし」


「…血筋の問題だ」


 憮然とした顔でそういうなり、保之は水餃子をかきこむ。

 さっきは驚きのあまり、ろくに箸をつけずに飛び出してきたから思ったより腹が減っている。


「それなら問題ないわね。私としては、今後日本とは友好国、いえ同盟国として頼りにしていくつもりなの。昭和の日本が始めた事とはいえ、最後まで責任を取っていただくわ。私が日本人と結婚するのは、日本の国民にこの満洲帝国への親近感を感じてもらう手段となるの」


鳥の手羽先に手を伸ばしながら、美生は笑う。


-まあ、黙っていれば美しい娘ではあるんだがな、と保之は思う。


 だが、彼女はこの国の次期皇帝、いや今この時点でもう実質的に皇帝といっても良いくらいだ。

 あの反乱事件の余波はまだ消えていないが、彼女は着々と権力基盤を強化していた。


少なくとも、表面上はこの国で彼女の権威に楯突くものは見当たらない。


「とにかく、私の皇帝即位と貴方との婚礼は、既にお父様にもお許しを頂いたの。もうここまで来たら引き返せないわ。それとも、あなた想い人でもいるというの?」


「いや、そういう訳ではないが…」


  既に三十路にさしかかっている保之だが、外地赴任の軍人であることをいいことに親戚のもってくる縁談を断りつつづけてきた。

 いつ戦地で死ぬか分からない軍人の身で、所帯を持ちたくなかったからだ。


「まあ、その程度のことは調べてあるけどね。流石にいい人でもいれば、仲を引き裂くのは気が引けるし」

 

 妙なところで良識人だな、と保之は思った。


 そもそも、保之の行動と言えば皇宮内で警護任務しごとにあたるか、近所の酒家居酒屋でくだをまいているか、ごくたまに遊郭へ出かけるか、という三つしかない。

 調べるのは簡単だろう。 


「逆に聞こう。おまえに想い人はいないのか?」


「莫迦ね、貴方は。この私が好かぬ相手と結婚すると思うの?」


 そう言うなり、艶然と微笑んだ美生に保之は一瞬何もかも忘れて見入っていた。 


「女というのは単純なものよ。貴方は私を助けてくれた、それで十分よ」


「仕事だったからな」


「それでもよ。いえ、貴方には逃げる選択肢もあったはず」


「どうかな。あまり買いかぶらない方がいい」


「どうでもいいわ、そんなこと。私が決めたの。誰にも邪魔はさせない。たとえ、貴方でも」


 美生の迫力に気圧されて、思わず保之はたじろぐ。


「だからといって、婚礼は早いだろう」


「あら、あなたの国では十五で結婚出来るのではなくて?」


「そうなんだが。しかし、年がひとまわり以上違うんだぞ」


「日露戦争の英雄、秋山好古閣下は12年下の女性と結婚したそうですね。あなたも軍人なのだから、問題ありません」


 いや、明治の話を出されても困るんだが、と思ったがさすがに反論するのもばかばかしくなり、保之は天を仰いだ。


 この満洲の地で生きていくかぎり、彼女の影響力からは逃れられない。

 いまさら、平成の日本とやらに戻る気もしない。


 それに、どうやらこの美生という娘を俺はまんざら嫌いでもないらしい。

 ここが年貢の納め時と腹をくくるほかないか、と天を仰ぐほかなかった。


「分かった、降参だ。夫でもなんでも好きにしてくれ」


  おおげさに両手を挙げる保之に、美生は安堵のため息を漏らす。


「ただし、礼儀とかは面倒だ。外交の場以外は、好きにやらせてもらう」


「最初からあなたには、その手の事は期待していないわ。ただし、最低限のテーブルマナーくらい覚えてもらいますからね」


そう言って美生は屈託無く笑う。

「いずれ、近いうちに日本側との折衝が必要になる。満洲油田の採掘権と引き換えに、日本軍の駐留と武器供与、軍事費の援助を求める必要があるわ」


「相手はソビエト連邦、か」


 保之は真顔になって、壁に貼られている満洲中心の世界地図に目を向ける。


 元々、日本が満洲を欲したのも対ソ連の緩衝地帯としての役割に期待したからだ。


 逆に言えば満洲の地政学的運命として、北のソ連ロシアと、西の中華民国チャイナが脅威になることは避けがたい。


「西ヨーロッパでフランスが片付けば、今度はこの満洲が標的となりかねない。そして、つい先日まで敵同士だった英国や米国に支援は期待できない。つまるところ、この国の頼りは日本しかない、ということね」


保之は冷静な顔でそう話している彼女の肩が、わずかに震えていることに気づく。

 つい先日、同じ共産主義者に命の危機にあわされたのだ、無理も無いかと思う。


「乗りかかった船だ、毒食らわば皿までとも言うしな」


  保之は笑顔でそう言うと、女官に空いた皿のかわりを要求する。


「毒とは聞き捨てならないわね。まあ綺麗なバラには棘があるというし、ほめ言葉と受け取っておくわ」


 そう言うと、美生は声を出して笑った。

 今度は屈託のない本心からの笑いだった。

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