第163話 平和の配当
「我々は今、大きな政治的果実を手中にした。それは日本の首都を灰にすることなく、平和を実現したという果実である。
言うまでも無いことだがこの太平洋から機雷が取り除かれ安全な海となること、自由に民間航空機が往来すること。この『平和の配当』を享受出来ることこそ、まさに合衆国、ひいては世界の利益であるからだ」
そこで息を切り、バーク元帥は聴衆を見渡す。
「この中には日本をもっと徹底的に破壊し、政府を瓦解させるまで戦うべきであったと考えていたものもいるだろう。私はそれを間違いであると考えている。
真珠湾攻撃の対価は、既に2発の熱核反応兵器によってあがなわれている。
あの強力無比な攻撃による惨禍を再びこの地上に再現することを正当化することは、もはや誰にも出来ない。
日本が東京宣言の受諾を決意し、連合国各国がそれを承認した今。
我々が銃を置き、怨恨や復讐は引き出しにしまい込むべき時がやってきたということだ。諸君、我々がもたらした勝利と平和に、惜しみない拍手を!」
バーク元帥はそう言い切ると、両手を挙げて観衆の興奮にこたえた。
外交官たちも、歴史的な演説に惜しみない拍手を送る。
彼は拍手とともに自席へ戻り、すぐに瞑目した。
腹の中身は煮えくり返っており暴れ出したい気分だったが、政治的動物たる彼は求められている役目を果たし続けていた。
彼の表情はよくよく見れば固く強ばっていたが、それを気にした人間は誰もいなかった。
すぐに水兵たちによって、調印を行うテーブルと椅子が用意される。
羽生田全権代表と紫香楽議長が用意された椅子に腰掛ける。
「どうぞ、文書をご確認ください」
アメリカ大使が英語で促すと、羽生田は英語と日本語双方で書かれた文書を確認する。
「ようやく、ここまで来ましたな」
そう英語で言ったのは、羽生の向かい側に腰掛けたフーヴァー全権特使であった。
「思えばこの2年間、我が国と貴国はずいぶんと遠回りをしてきましたな」
羽生田の言葉に、フーヴァーは深くうなずく。
「悲しいことに、われわれは時に血を流すことでしか進めない生き物なのです。それは新しき我が合衆国も、貴国のような古き国でも同じでしょう」
「願わくは、貴国との関係が敵対から友情に変わりますことを。かつて『一度目の世界』で、我々はそれを十分に成し遂げました。であるならば、この『二度目の世界』でも実現できない道理はありますまい」
羽生田は外交家にはあるまじき夢想だなと内心で自嘲しながら、笑顔を見せる。
連合国のうち、署名式に参加したのはアメリカ、イギリス、中華民国、オランダ、カナダ、フランス、オーストラリアの主要
カナダ代表が署名欄を間違うというハプニングこそあったものの、調印式自体はスムーズに終わった。
この『降伏文書』に記載され、日本が受諾した東京宣言は、おおまかに述べれば以下のようなものであった。
・日本軍全軍への即時戦闘行為の停止。全指揮官はこの布告に従う
・日本軍と国民による連合国軍に対するすべての敵対的行為の中止。
・日本の国際連盟による信託統治領以外のインド亜大陸、東南アジア、太平洋諸島、中国大陸からの日本軍の引き上げ。
・日本の施政権は、1941年12月以前の領土にのみ及ぶことを確認する。
・台湾、および朝鮮に、民主的選挙及び自治政府準備委員会を設け、適切な時期の民主的選挙による独立国家の形成を行う。
・日本政府と軍は捕虜として抑留している連合軍将兵を即時解放する。また必要な給養を受けさせ、円滑な帰国を実現させる。
・日本および連合国軍の戦争犯罪については、戦後設けられる予定の国際司法裁判所が判断するものとする。
・日本政府は戦争によって生じた人的、物的損害に対する適切な補償を連合国各国に対し行うものとする。
この『降伏文書』に関して、戦後の歴史家の評価は賛否両論であった。
肯定的評価は主に日本側に多かった。
教科書として多く使用される、山河書房の『日本史』では、
『時震によるやむを得ざるアメリカ軍との戦闘を停止させたことの価値は、日本史上特筆すべきことである』
と短く伝えている。
無味乾燥な教科書の中で異彩を放つ文言であった。
とかく保守派から批判されることの多い教科書としては、最大級の評価と言える。
否定的評価は、主にアメリカの民主党系シンクタンクが唱えている。
「真珠湾攻撃から始まったこの戦争の決着を、このような妥協の産物としてしまったのは後に大きな禍根を残した。たしかにこの後にはじまる、共産主義者たちとの第三次世界大戦において、日本との協力は不可欠のものではあった。
しかし、その後の日米冷戦という恐ろしい時代を作り出したのは、あきらかにこの誤った偽物の『降伏文書調印式』であった」
と厳しい批判的論調で記しているのは、民主党系シンクタンク、ミラーズ研究所のカレン・D・イアハート博士が著したベストセラー、『日米冷戦の
ともあれ、この日本の『降伏』によって、ひとときの平和がアジア地域にもたらされたのは確かな事であった。
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