第140話 パペット

 大統領の病状が判明したのは、1944年4月に入ってからの事だった。

 元々車椅子が欠かせないこともあり医療スタッフは欠かさず健康診断を行っていたが、その兆候は突然に現れた。

 ろれつが回らなくなり、身体の麻痺症状が悪化し、ついには意識混濁に陥った。

 紛れもない脳卒中の症状であった。

 日本軍が合衆国軍に予想を遙かに上回る損害を与え続けたことが、大統領の脳に想像を超える負荷をかけ続けたのではないか。

 それが大統領の側近であるアルジャー・ヒスの推測であった。 

 どちらにせよ、アメリカ合衆国憲法修正第25条に従うならば、副大統領に職務を引き継ぐべき事態だ。

 しかし、大統領の側近グループは、大統領が執務不能の状態に陥ったことを隠蔽することに決めた。それを主導したのは言うまでも無く、ヒス本人であった。

 これには前例があった。

 1919年当時のウッドロー・ウィルソン大統領は脳梗塞の後遺症で、半身不随をはじめとする大統領としての執務が不可能な状態に陥った。

 しかし、主治医とイーディス夫人はそれを隠蔽し、書類決裁を代行する事で事実上大統領権限の代行者となっていた。権限を代行すべき副大統領も職務代行には非積極的で統治の混乱を招いた。

 このような事態を防ぐために現在では憲法25条が修正されてはいるが、戦時中である合衆国の混乱を避けるためという理由で、ヒスは平然とイーディス夫人と同じような事を行った。

 彼にとってみれば大統領選挙を控えたこの状況で、ソヴィエト連邦に好意的な指導者を「失う」訳にはいかなかった。 

 ルーズベルトはアメリカ共産党にとってこの合衆国への影響力工作の要石となっている。対独戦争で消耗したソ連にとって、十分な準備時間なしにアメリカという巨人と敵対する事だけはどうしても避けなければならなかった。

 日本が積極的に対米講話を模索しているという情報はスターリンを恐怖させていた。 もし日米が講話して手を結ぶことになれば、極東とヨーロッパから挟撃されるという悪夢が実現するのではないか。

 激しい戦争を行っていた国家同士がすぐに同盟を結ぶなど考えづらい事ではあるが、臆病なまでに慎重なスターリン独裁者は「あり得るシナリオ」として想定していた。

このシナリオの実現だけは何がどうなろうと阻止せねばならない。

国際共産主義運動コミンテルンの影響下にあるアメリカ共産党は当然、その意を受けて動いていた。

であるからこそ、シナリオを狂わせるルーズベルトの退場は「無かった事」にせねばならないのだった。

 ヒスとホワイトハウスのアメリカ共産党秘密党員たちは、この事態をもとより想定していた。そのため、隠蔽工作はこれまでの工作活動の成果を活用し、順調に行われた。

 一番の問題は大統領選挙を控えていることだった。

 選挙戦序盤は本人が遊説しなくても、大統領としての公務が多忙を極めているという言い訳が通じた。

 しかし、与し易しと見られていた共和党候補筆頭のウェンデル・ウィルキーが急失速し、かわって共和党予備選挙を勝ち抜いたのはハミルトン・フィッシュであった。

 若い上に容姿や出自の良さなど、資質が申し分ない対立候補の出現はヒスら秘密党員たちに焦燥感を抱かせるのに十分だった。

そこで以前から用意されていた「道具」の一つを実際に使用することになったのだった。

「パペット」。

それはアメリカ共産党が秘密裏に探し出した、ハワード・ロズウェルという男につけられたコードネームだった。

 ハワードは元々は舞台俳優くずれの、日雇い仕事でなんとか糊口をしのいでいる男に過ぎなかった。俳優の世界を諦めきれずにハリウッドまで出てきたはいいが、既に年齢を重ねすぎていたハワードに役が回ってくるほど、映画界は甘い世界ではなかった。

しかし、一人の政治家が脚光を浴びると、彼は自分の隠れた「才能」に小躍りするほど喜んだ。

 後に合衆国大統領に就任することになる、フランクリン・ルーズベルトに顔や背格好などの特徴がまるで同一人物かと思えるほど似通っていたのである。

 彼は熱心にルーズベルトの写真を集め、時には講演を聴きに出かけることさえして、その「才能」に磨きをかけた。

 結果、大統領の物まねでわずかな脚光を浴びることになったのだった。

 彼の物まねの凄いところは単に姿形やしぐさを真似るところだけではなく、ルーズベルトが読んだとされる本を片っ端から読み、ルーズベルトのインタビューを暗記し、本物の「政治家」になりきるところだった。この辺は本人の生来の凝り性と明晰な頭脳、そして役者としてのプライドがなせる技であった。

 もっとも、せいぜい歓楽街で芸として披露する、羽振りの良い日銭稼ぎというレベルだったのだが。

 そんな彼がある日を境にぷっつりと姿を消しても、怪しむ人間はいなかった。

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