第137話 break out

「今すぐに大統領を移動させるんだ!討論会が終わってから、一時間以上経過しているんだぞ」


アルジャー・ヒスは焦燥感を露わにしながら、SPたちに食ってかかる。


「そう言われましても。我々としてもこの大学の敷地内から移動したいのはやまやまですが、移動経路の安全が確保されない中での移動は危険です」


 身長2メートルを超える大柄のSPが見下したような視線を向ける。

 大学ではフットボールにでも興じていたのだろうと思わせる、筋肉の鎧を身にまとったその男にヒスは気圧されるような思いがした。


「専門家に口を出すなとでも言うのだろう。わかっているさ、そんなことは。だが、ここにとどまることが最善手とはとても思えない。ここは臨機応変に動くべきだ」


――ええい、忌々しい。貴様なんぞ、この大統領側近の俺に口を出していい立場じゃないんだぞ。

 怒鳴りたくなる気持ちを必死にこらえながらも、ヒスは反論しようとした。


「その辺でやめておきたまえ、ヒス君。すでにFBIには現場に応援を寄越すように指示してある」


 いかにも民主党のエスタブリッシュメント支配階級という外見の眼鏡をかけた男だった。いや、彼が大学出ではないことは知っていたが、ヒスから見れば嫌みなエリートにしか見えなかった。


 ヒス自身もロースクール出身の弁護士あがりだからそれなりのエリートではあるのだが、彼の育ちの良さそうな顔だちは妙に嫉妬心を煽られるものがあった。

 ヒスは内心の苛立ちを腹の中にしまい込み、笑顔さえ浮かべて彼に応じる。


「副大統領候補、そういうことであれば仕方ありませんな。ただ、一刻も早い移動が肝心と私が言っていたことはお忘れなきよう」


「警備の応援が到着すれば考えよう」


 もっともらしくうなずいて見せたこの男はハリー・S・トルーマン。民主党副大統領候補に指名された男であり、またルーズベルトが任期途中で倒れた後に政権を担い、日本への反応兵器攻撃指示書にサインするはずの男である。 

 ヒスは当然そんな事は知るはずもなかった。


 しかし、仮にルーズベルトが当選した後に高齢の大統領になにかあれば、この男が自動的に大統領執務室オーバルオフィスの主となるのだ。

 楯突くと後が怖いことくらいは分かる。


だが、ヒスとしても後にはひけなかった。事が露見すれば、自分たちが積み上げてきた計画そのものが水泡に帰すのだから。


 ヒスはとりあえず大統領の移動を諦めると、なにか次善の策がないかと講堂を見渡す。

 しかし、彼が期待しているような事態の打開につながるものは存在しない。

 それどころか、客席には半数程度の観客が残っており、記者席には手持ちぶさたの記者たちが所在なげに座っている。


 何か事がおきたなら、目撃者が多すぎる。おそらくは、全米中に知られてしまうことになるだろう。 そうなれば、この選挙で民主党、いやアメリカ共産党が勝利することは困難となる。


くそっ、記者どもがいるのが最悪だ。写真でも撮られた日には新聞に掲載され、致命傷となりかねない。焦れば焦るほどに思考が空回りする。


 そうだ、思えばこの討論会そのものが罠だったのだ。確かにフィッシュ候補に肉薄されているとはいえ、討論会の申し出を一蹴するという手もあった。


 戦時中の現職大統領という立場ならば、その言い訳は十分に通用したはずなのに!

 思えば、それに強硬に反対したのはこの副大統領候補様だ。


「負ける要素がないからこそ、勝ち方が重要だ」ともっともらしいことを言って。


 ひょっとして、この男は何か感づいているのか?


 ヒスの中でそんな疑問が浮かんだが、すぐに自分で打ち消す。我々の情報隠蔽は完璧だ、この男が何か知っている可能性などない。


 だが、必ずいる。この弱点を曝け出さざるを得ない時間を狙って、罠を仕掛けてきた連中が。


 無論、証拠など何一つないが、そうに決まっている。

 彼は血走った目で講堂の中のありとあらゆる人間に疑いの目を向けた。

 どいつもこいつも怪しい、怪しすぎる。


 そんな狂気じみた行動をしながらも、ヒスは頭の中のどこか冷めた部分でこの場では何も出来ないこともわかりきっていた。


――この場をなんとか切り抜けられたなら、この男の背後を徹底的に洗ってやる。

 そう決意した時だった。

 

 ヒスが恐れていた変化が、誰にも明らかに分かる形になろうとしていた。


 いつの間にかルーズベルト大統領の顔は赤黒く変色していた。

 彼の手足はまるで酷寒の大地にいるかのように、大きくけいれんの発作を起こしていた。


「やめろ!私の首を絞めるのをやめろ、この悪魔め。私からミゲルを奪い去ったのはお前だろう。悪魔よ、去れ!」


 目の前に何が見えているのか、大きく手を振って何かから逃れようと半狂乱になっている大統領に、その場の誰もが呆気に取られている。


「何をしている!フラッシュを炊け、撮りまくれ。大スクープだぞ!」


 その場にいた記者の誰かが叫んだ。

 その声に弾かれるように、硬直していた記者たちは職業意識を瞬時に取り戻す。

 フラッシュバルブの予備を取り出し、ピント合わせをする時間さえもどかしく大統領の狂態を激写する。


 眩いフラッシュの光を浴びながら、ヒスはへなへなと崩れ落ちる。

 ざわめきはさらに大きくなり、誰も彼もが好き勝手にさえずり始めていた。


「おい、まだ録音用のレコード盤シェラックはあったな。今すぐ録音するんだ。こいつは貴重な録音になるぞ」


 脱力していたヒスの心は、マグマのように沸騰し始めていた。


――おそらくは、どんな言い訳をしても通るまい。討論会場までの遅延と、先ほどの爆発事故による混乱で生じた時間的空白により『パペット』が活動限界を迎えてしまったのだ。


 ともあれ、既に『大統領』の健康状態に問題があることは明らかになってしまった。国家元首と最高権力者を兼ねるという合衆国大統領の特性上、平時でさえ健康問題は致命的である。


 選挙が終わったあとでならばともかく、このタイミングでの暴露は致命的だった。


 クソっ、『オリジナル』の健康状態さえまともならばこんな事にはならなかった。

ヒスは立ち上がると、煮え滾った怒りにまかせて足音を大きく響かせながら、大統領の方へ歩いて行く。


 そのとき、大統領の側近もSPでさえも、大統領の異常な行動に呆気にとられてヒスの行動を止められなかった。

 ヒスは大統領の胸ぐらを掴むと、大声で喚き立てる。


「ああ、もうおしまいだ。飲んだくれの能なし役者め。誰が拾ってやったと思っている」


 一方、大統領は目の前の状況をまるで理解してはいない様子で、ただひたすら訳の分からないことを呟いている。


 その口元にはだらしなくよだれが垂れており、目の焦点はまるで合っていなかった。意味の分からない言葉をわめきながら、ぶつぶつとこの場にいない誰かへ語りかけている。


「なんとか言ったらどうなんだ、この人形め。貴様なぞ、大統領でもなんでもない。ただの道化だ」


 大統領を殴りつけようとしたヒスを、流石にまずいと我に返ったSPたちが羽交い締めにする。


「ええい、やめろ、離せっ!貴様らは阿呆だ、すべて茶番劇なのに御大層な事だ!」


 ヒスが取り押さえられて連行されていくのを呆然と見守りながら、トルーマン副大統領候補は唖然としていたが、急に真顔になってスタッフに命ずる。。


「早急に医師を呼びたまえ。大統領閣下はすぐに医師の診断と治療、おそらくは入院がが必要だ。残念なことではあるが」


 トルーマンは側近たちにそう命じると、諦観めいた表情を浮かべつつ椅子に腰を下ろす。


 この場ですべきことはもはや何もなく、早々にインタビューを求めてくる報道陣に、あいまいな笑顔で答えはじめた。


 トルーマンの返答はおよそ選挙中のものとは思えない、歯切れの悪いものばかりだった。端的に言えば、それはこの場を最小限の犠牲で切り抜け、四年後の選挙に影響のないように努めているようにしか思えないものだった。


 ルーズベルトが四選で大統領に選ばれる未来はありそうにもないことは、もはや誰の目にも明らかだった。

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