第132話 オーウェン・ラティモア
1944年10月23日17時45分(現地時間) フロリダ州マイアミ
「ルーズベルト大統領、ハワイが海上封鎖された件についてコメントを!」
「ロサンゼルス-ハワイ航路が無期限休止とのことですが、理由は?」
殺到する取材陣は、メモを片手に質問をしたり、あるいは特徴的な音を立てるフラッシュバルブを炊きながらカメラのシャッターを切る。
マイアミの地元有力者とのパーティー会場の前に陣取り、待ち伏せていた彼らの目は一様にギラついていた。
この奇妙な戦争の行方、ひいては世界の命運を左右する選挙の取材なのだから無理もない。彼らはなんとしても大統領のコメントを取り、あるいは精力的に選挙に臨む姿をフィルムに収めようと躍起になっていた。
しかし、大統領の側にはいつにも増して数の多い屈強なシークレット・サービスたちが周りを固めている。
また広報担当や側近たちが、取材陣と大統領との間を遮るように動いていた。
「ノーコメント、ノーコメント。質問は受け付けない」
大声で怒鳴る側近の一人に、若い記者が食ってかかる。
しかし、そんな様子を尻目に、ルーズベルトは無言で取材陣の前を通り過ぎる。
そして、パーティー会場のホテルの車止めに横付けされた大統領専用車の前で立ち止まる。
横から音もなく進み出た大統領側近のアルジャー・ヒスは、うやうやしくドアを開ける。
ルーズベルトは側近にねぎらいの声をかけると、あとは無言で乗り込む。怒号が飛び交うホテル前を一瞥することもなかった。
大統領専用車の中は外側からの想像以上にゆったりとしたつくりになっていた。
『サンシャイン・スペシャル』と名付けられた、その特別仕様のリンカーンV12は、まさに移動する大統領執務室として製造された車両であった。
サイレンや走行灯、無線通信機に加え、暗殺を防ぐ装備として追加された装甲板ドアに防弾ガラス、耐弾タイヤ、短機関銃をしまう武器収納スペースまで備えている。
さらに、先日の共和党候補暗殺未遂事件のせいで、警備はさらに厳重なものとなっていた。前後を装甲を有する警備車両が固め、短機関銃装備の警官が乗り込んでいる。
専用車の座席についてすぐにルーズベルトは荒い息を吐くと、ネクタイを震える手で引き抜く。ヒスは、うやうやしくネクタイを受け取り、それを丁寧に折り畳むと、アタッシュケースに収納する。
「あの失礼なブン屋どもめ…」
震える手で顎をさすりながら、ルーズベルトはシルクのベルベットを思わせる触り心地の座席の背もたれに背中を預ける。
その姿は大統領というよりは、長年病んでいる哀れな老人にしか見えなかった。
「
ヒスの言葉を鼻を鳴らして聞き流すと、ルーズベルトは吠えるように言葉を吐き出す。
「
興奮した様子でそう吐き捨てたルーズベルトは、深々と呼吸をして息を整える。
「ただの水ですが、飲めば少し落ち着くでしょう」
そう言ってヒスが差し出したのは、軍用とおぼしき金属製の水筒だった。
「君、酒は無いのかね」
「あいにく、ドクターからの指示でして」
「忌々しい話だ。この選挙戦が終わったら、浴びるほど飲んでやる」
ルーズベルトは乱暴に水筒をひったくる。
蓋をあけるのももどかしい様子で、開けたそばから直接口をつけて飲み始める。
水を飲み終える、荒い息をつく。
まるで吹雪が吹きすさぶ山の中にでもいるように身体を震わせる。
その震えは次第に大きくなり、水筒を持つ手もけいれんを押さえ切れなくなり、水筒を取り落とす。水筒から流れ出た水が、床に敷かれている赤い絨毯を濡らす。
「ミゲル…後生だ。父さんをおいていかないでくれ。神よこの子を護りたまえ」
既にルーズベルトの目は、ヒスやほかの側近たちの事を見てはいなかった。
ただ、今この場にはいない者、そして過去の情景だけを見ているように見えた。
ヒスは冷酷な視線でそれを眺めつつ、大統領と向かい合わせになっている座席の白衣の男へ目配せをする。白衣の男は、その革製の鞄の中から金属製のケースを取り出し、中に入っていた注射器を取り出す。
慣れた手つきでケースの中に同梱されていたガラス瓶へ注射器の針を差し込み、シリンジを引き抜いて薬液を吸い込ませる。そして、大統領の右手を取ると、けいれんの影響を受けないように注意しつつ静脈の位置を確かめて注射する。
「お休みになりました」
「結構。ナッシュビルまでお休みいただこう」
ヒスは満足げに言うと、スーツ姿の男はにこりともせずに注射器のケースを鞄へ戻した。
「発作の感覚が狭まっているな」
大統領が車に乗り込んでからはじめてそう口を開いたのは、額の禿げ上がった中年の男だった。品の良いフロックコートに身を包み、車内であるというのに皮の手袋を外さない。
当たり前のように大統領専用車に乗り込む男の名前はオーエン・ラティモア。
中国および満州の専門家とされ、アメリカの対アジア政策に多大な影響を与えてきた
IPRは当初、キリスト教団体であるYMCAが中心となり、ロックフェラー財団が後援する国際サロンとでもいうべき牧歌的な組織だった。
日本や英国、中国などの太平洋諸国までもメンバーとして参加し、新渡戸稲造や松岡洋右といった日本側の参加者も数多かった。
しかし、ラティモアをはじめとする(戦後ソ連のスパイだったという事実が発覚する)メンバーの加入がすべてを変えた。ソ連の意向を受けて、米国を日本との無用な戦争に引きずり込む
ラフリン・カリー大統領補佐官(彼もソ連のスパイであった)が送り込んだラティモアは、機関誌である「パシフィック・アフェアーズ」の編集長に就任し、日本を『侵略国家』として非難する論調で日米の対立を煽った。表向き中立を装う国際機関が発行した機関誌は、アメリカのアジア・太平洋政策に多大な影響をもたらした。
その工作活動の中でもっとも成功したのは、ハル・ノートを日本政府へ手交するきっかけとなった公電を送ったことであった。その公電は融和的な対日交渉を行っていたコーデル・ハルに対して、当時アメリカが支援していた中華民国総統の蒋介石の発言とされるメッセージだった。蒋介石直筆の親書ではなく、ラティモアが蒋介石が語ったと主張している公電に過ぎないのだが。
「経済制裁や資産凍結解除という対日融和姿勢を取るのならば、中華民国は米国との協力関係を放棄する」という、恫喝めいた『蒋介石のメッセージ』はアメリカの対日交渉に強い影響を与えた。
融和的な対日姿勢は一変し、日本はハル・ノート-実質的な最後通牒と日本側が受け取らざるを得ない条文が書かれた文書を突きつけられたのである。特に中国大陸からの撤兵という条文は致命的だった。
日本が撤兵すれば、軍事的空白地帯となった中国へソ連の進出を招くのは明らかであった。条文には「中国」に満洲国が含まれているのかは不明であったが、少なくとも日本側は満洲国も含んでいると解釈した。
このハル・ノートは、ラティモアの公電がもたらしたものである。
極言すれば、この戦争はこのラティモアという「中国・満州の専門家」とされる貧相な男がもたらしたものなのだ。
「『我々』にとって、危惧すべき事態と考えるがね」
大学教授が学生に口頭試問するような口ぶりでラティモアは言う。
ヒスはラティモアが、どこか状況を楽しんでいるようにも思えた。
「問題ありません、今のところは制御可能です」
「ならば良いのだがね。それにしても、楽な選挙戦だったはずが、面倒な事になったものだ。ウィルキー相手なら楽に勝てただろうに」
「不確定要素は選挙につきものですよ。それに、我々が負ける要素はない。選挙資金はこちらの方が圧倒的に上だ」
ヒスの物言いはどこまでも楽観的に聞こえるが、言っていることは事実だった。大統領選挙には様々な要因が勝敗を左右するが、その最たるものが選挙資金の集まり具合だった。資金が集まれば、スタッフを大規模に動員し広範囲に選挙広報を行う事が出来る。
そして、与党と現職大統領という金看板は未だに絶大な影響力を持っている。世論投票でも、食い下がるフィッシュに一度も逆転を許していないのがその証左だった。
「私も再選は疑いないと思っているよ。だが、選挙のその後が問題なのだ」
「ご心配なく、我々は既に副大統領候補のトルーマンにも工作を開始しております。仮に任期途中に交代となった時も、我々の影響力は維持される」
「結構なことだ。だが、ハワイを封鎖されてはもはやは太平洋で攻勢に出ることはかなわない。残念だが、この戦争はダメだね」
政府の人間が誰しもが薄々感じてはいるものの、公言は憚られる言葉をラティモアはあっさりと口にする。
「まあ、あまりに多くの艦艇と将兵を失ったことは事実ですがね」
ヒスにとっても、その事は認めざるを得ない事実だった。
「残念だよ、日本の国土と君主制を焼き払い、敗戦革命をもって共産主義の種をまく事が出来たなら良かったのだが」
ラティモアは、心底残念そうにかぶりをふる。
ヒスはその様子に内心で戦慄しつつも、いつものように歌劇役者めいた明るい口調で答える。
「とはいえ、国力はこちらが勝っている。まもなくヒトラーの命運も尽きる。時間は我々の味方です」
「もっと残念なのはこの合衆国で、日本との停戦を求める連中が勢力を伸ばしている事だ。日本もアメリカも、もっと派手に殺しあってくれなければ困る。日本の革命はあくまでデザートのようなもの。最大の目標はこのアメリカだよ」
ラティモアは人畜無害な学究の徒といった風貌に、契約を迫る悪魔のような顔を浮かべていた。
ヒスはあまりにあけすけなラティモアの言葉に、思わず意識がないはずのルーズベルトへ顔を向ける。もちろん彼はしっかりと薬が効いており、身じろぎすらしていない。
「戦争が終結すれば膨らみきった戦争特需はあっという間にはじけ、動員が解除されれば復員兵は英雄ではなく失業者となる。革命の火種としては申し分ない」
あまりに妄想が過ぎるとヒスは思ったが、口には出さない。その程度の社会不安で革命が起きるのならば、世界恐慌の時に起きているはずだ。
この男のソ連への忠誠心と日本への異様な敵意はどこから出てくるのだろうか、とヒスは思った。社会主義者のヒスから考えても、この男の異様な妄執は自分と相容れないものを感じさせる。
少年時代を天津で過ごし、二年前まで蒋介石の私的顧問として重慶で過ごした経験が原因なのか。だとしたら、この男はあの大陸で何を見たのだろうか。
「その第一歩として、まずはナッシュヴィルの討論会とやらをゆっくり見物させてもらおう」
ヒスはラティモアの言葉には答えず、既に日が暮れて明かりがともり始めた郊外の風景を眺めている。
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