第128話 共和党候補演説集会

10月5日  オハイオ州クリーブランド


 最初は盛り上がらないと見られていた大統領選挙は、今や空前の熱狂で新大陸全土を巻き込む巨大な祭りへと変化していた。

 毎週のように行われる世論調査の結果に、両党の支持者が一喜一憂するさまはいかに民主主義国家とはいえいささか過剰に思えるほどだった。

 これだけ議論が伯仲している要因を新聞各社は、ソ連スパイ疑惑を第一に挙げていた。

 今はともに戦う同志とはいえ、一度はドイツと結んでポーランドを掠め取った事実を忘れていない合衆国民は少なくはなかった。

 その共産主義者たちのスパイが国内で暗躍するという想像は、善良な合衆国市民に警戒感を抱かせるには十分だった。

 当面は利害が一致しているにしても、戦後はどうだろうか。

 そういう論調の新聞も、特に共和党寄りの新聞に多かった。

 最新の世論調査では共和党支持が優勢のクリーブランドでも、ルーズベルト政権批判の論調は広く支持されている。

「諸君、今日の朝刊には目を通されただろうか」

 フィッシュ候補は共和党のシンボル、赤いゾウのマークやフィッシュの名前が書かれた手製のプラカードを掲げた支持者たちの前で演説を行った。

「カティンの森!」

共産主義者コミュニストの戦争犯罪!」

 思い思いの表現で観衆が応じる。

「そう、ソビエト連邦政府による『カティンの森事件』に関する報道だ。私も正直なところ驚くと同時に…ある意味納得している」

 今朝の朝刊で保守系メディアが一斉に報じたのは、ソ連のNKVDが行ったポーランド人虐殺事件だった。

 ルーズベルト大統領がジョージ・ハワード・アール元ブルガリア大使の極秘レポート、そしてソ連内務人民委員部NKVDの極秘記録写真と称する遺体写真の数々。

 一説には二十五万人とも言われる人々がソ連の秘密警察によって虐殺されたという事実は、、多くの善良な合衆国市民に義憤を抱かせるのに十分だった。

 この報道に際してソ連大使館は、「まるで事件が起きるのをあらかじめ知っていたかのようだ。そうでなければ、これほどの詳細な写真を撮れるわけがない」と反論して見せた。

どちらにせよ、現職大統領のソ連寄りの姿勢に対する攻撃材料としては十分すぎた。

そうした現状に対して、民主党は新型爆弾による圧倒的な戦果を全面に押し出し、戦争に非協力的な共和党の態度を糾弾していた。

「なぜなら、共産主義は我々合衆国建国の理念と最も相容れないイデオロギーだからだ。個人の自由を著しく制限し、あまつさえその思想を輸出する。これは我が国にとって必ず将来の脅威となるだろう。枢軸国との戦争が勝利したとして、今度はソ連との戦争が待っていた、という事になりかねない」

 そこで話を切ると、フィッシュ候補は群衆が静まるのを待った。

「諸君、私とてパールハーバーへの奇襲攻撃を忘れた訳ではない。確かに我々は復讐を誓った。だが、真珠湾で犠牲となったのは我が軍の将兵、そして我が軍の誤射によってなくなった少数の市民、それだけだ。翻って我が大統領が行った復讐はどうか。無辜の市民をも巻き込む大量虐殺ではないか」

「国際法は民間人の虐殺を禁じているのは諸君も知っての通りである。公表されている新型爆弾の威力が真実とすれば、非戦闘員が死傷した可能性は極めて高い。

 戦場で過失により非戦闘員が巻き込まれるということは、残念なことだがありえない話ではない。しかし、非戦闘員を巻き込むことを前提の兵器を使用することなど明確な戦時国際法の違反である。今あらためて諸君に問う!汚れた勝利か、名誉ある停戦か!」

静まり返った会場内に、誰ともなく息を飲む音が響く。

 鬼気迫るフィッシュの演説は、歴史上の名演説として長くスピーチライターたちの教科書とされることになる。

 しかし、スピーチライター以外の人間にとって、この演説自体は記憶には残らなかった。誰もがフィッシュ候補の演説に夢中になっている最中に、一発の銃声が響き渡ったせいである。

 銃弾を放ったのは、ロイド眼鏡をかけた背の高い白人の男だった。

 誰もが立ち上がって声援を送っていたために、彼の移動は目立ちにくかった。

 警備員が彼に気づいて制止するより前に、男は演壇まであと数十メートルまでという距離まで近づいていた。

 その地点までたどりついた彼は、どこに隠し持っていたのかコルト社製M1917回転式拳銃リボルバーを取り出す。

 使い込まれた様子から見て、軍から民間へ放出されたものに見えた。

 安全装置を手慣れた手順で解除すると、教本通りの両手持ちで初弾を放つ。 

 拳銃の射程としてはギリギリといった距離だったが、男の射撃動作には迷いがなかった。。

 初弾は驚いて身を屈めようとしたフィッシュ候補ではなく、身を挺して警護の任を全うした私服警察官の鎖骨のあたりに命中した。

 「私は無事だ!彼に手当てを頼む!」

 フィッシュはそう叫びながら、危険も顧みず倒れた警察官に駆け寄り傷の具合を確かめようと手を伸ばす。

 一方要人警護にあたっていた警察官たちは、メンツを丸つぶれにしてくれた犯人を逮捕しようと動いた。

 思わず腰の拳銃に手を伸ばした年若い警察官の肩をどやしつけながら、年かさの警官が叫ぶ。

「バカっ、一般人に当たる!拳銃の射撃なんぞ、そうそう当たるものじゃない。生け捕りにしろ!」

 年かさの警官は長年の経験から、拳銃射撃の命中率がいかに低いかを知っていた。

 暗殺において確実性を期待するならばよほど至近距離、手が届くくらいの距離から撃たなければならないだろう。

「すいません、つい…」

 警官たちのそんなやり取りをよそに、男は冷静に二発目を放とうと引き金を引こうとする。

 しかし幸運なことに二発目が放たれることはなかった。

 前後左右から数人がかりで警官たちが取り押さえにかかったからである。

 一人の警官に横合いから警棒で拳銃が叩き落とされたと同時に、ほかの警官がつかみかかった。

 警官にその場で手錠と縄で拘束された男は、周りを過剰なほどの警官に囲まれながら会場外へ引きたてられていく。

 負傷した警官も駆け付けた医師の応急手当を受け、担架で搬送されていく。幸いなことに意識もはっきりとしているようで、彼を称える市民の拍手に視線だけで答えていた。

 この日、集会は結局警備体制の見直しや事件捜査のための現場保存などの理由で中止になった。大統領候補暗殺未遂事件として後世に記憶されるこの事件がどう選挙の行方に影響するか見通せるものはまだ誰もいなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る