第129話 秘密協定

 ストックホルム大学の敷地の裏手にある、古いアパルトメントの一室。

 セントラルヒーティングでしっかりと暖められた屋内は、意外なほどに暖かい。

 古い黒檀のテーブルの上には、いくつかの薄型有機ELディスプレイが展開されている。

 紙のように薄く「巻き取る」ことのできる有機ELディスプレイだ。

 いくつかの企業がこのディスプレイをコンセプトモデルとしては製品化しているのだが、市販はされていない。

 可搬性を重視してこの作戦へ導入された装備である。

 そのディスプレイには、一見しただけでは素人目には判断のつかない地図やグラフがいくつも表示されている。ベランダには観葉植物で巧妙に偽装されたパラボラアンテナが設置されており、衛星回線を通してネット環境が整えられている。

「ようこそ、小野寺大佐。我々の『大本営』へ」

 呆気に取られている小野寺大佐へ、慇懃に一礼して見せるのは外務省の一等書記官、新村榮太郎である。

 形こそ慇懃だが、いつも通りの不敵な笑いが浮かんでいる。

「これは…驚いたな。どんな技術なのか、想像もつかない」

 小野寺の瞳には少年のような好奇心が浮かんでいた。

「大佐殿、技術に関する説明は後にさせてください。まずは欧州情勢に関する情報を確認します」

 新村に任せると、また余計なことを言いかねないとでも思ったのか、海軍武官の吉永が口を開く。

 特段文句を言うこともなく、新村はニヤニヤしているだけだ。

 小野寺はすすめられたソファーに腰掛ける。

 使い込まれたスプリングが抗議の声のように音を立てる。

「一番の問題はドイツです」

 吉永は端末を操作して、ディスプレイに欧州の地図を表示させる。

「最初のきっかけは、日本によるドイツへの同盟破棄通告でした」

「私も戦時中の同盟破棄とは驚愕したが…これを見て納得がいったよ。これが『平成』の世の日本、その証拠の一端という訳だ」

 ちなみに、小野寺を『平成日本』へ抱きこもうと提案したのは新村である。もちろん吉永は反対したが、新村は意志を曲げずに吉永を説得した。

 その吉永にしたところで、小野寺の持つ人脈、特にポーランドやエストニア、ハンガリー、フィンランドといった各国軍の情報将校たちへのパイプはあまりに魅力的だった。

 かの国々はソ連によって苦杯を舐めさせられてきた国々である。小野寺は彼らへ深い人間関係を構築し有益な情報交換を行っており、結果優れた対ソ連情報網となっていた。

 吉永もその事実を無視することはできなかった。

 「後世の日本とはいえ、祖国には違いない。私がやることは変わらない」

 小野寺の言葉に吉永は内心ほっと胸をなで下ろす。

 理性的な人物であるという評価には目を通していたが、平成日本という突飛な存在を理解してもらうには骨が折れるだろうと予感していたからだ。

「ご理解いただき有り難くあります、大佐殿」

「『殿』は結構。陸式のやり方を押し通すつもりはない」

 小野寺はそう言うと、制帽を脱いでみせる。

 肩肘を張らずに話そうという合図のようだった。 

「では説明を続けます、大佐。北アフリカ戦線は現在、膠着状態です」

  吉永の操作により、液晶画面に北アフリカの地図が表示される。

 ドイツ軍の攻勢を示す赤い矢印がエジプト方面からチュニジア方面へと伸びていく。

「アメリカが『壁』建設と大西洋派遣艦隊引き上げを行ったことで、護衛艦艇が慢性的に不足。ドイツ軍潜水艦による通商破壊で英軍の兵站は一時崩壊寸前でした」

「英国人らしい粘り強さともいえるが、この状態でよくも戦線を維持できたものだ」

 小野寺も北アフリカ戦線は間接的には把握していたが、こうやって地図で示されると英国軍の置かれた状況の過酷さがわかる。北アフリカはその多くが砂漠地帯でただでさえデリケートな戦車などの車両は、交換部品や燃料、食料や水等の補給物資を多く消耗する。

 移動に適した場所も回廊状の狭い場所しかなく、輸送も海上輸送に頼るほかない。海路からの補給が絶えれば、戦闘力を失い、戦う前に敗北しかねないのだ。

「ソ連軍の東ヨーロッパ侵攻によってドイツ軍の補給が滞り、現在は英国が持ち直してはいます。双方ともに、反転攻勢に足る戦力はありません。その状態を見越して、我々が持ちかけたのが日英秘密協定です」

「秘密協定だと?アメリカに露見すればただでは済まないだろうに」

 小野寺は驚愕とも呆れともつかない表情を浮かべ、欧米人のように肩をすくめる。

「チャーチル政権が退陣したことがダメ押しになりました。対日強硬派の勢力が一気に減退したことで、我々の工作はずいぶんと楽になりました」

 チャーチル政権は8月末に、インド失陥の責任をとる形で退陣に追い込まれていた。戦時中故に後継指名を行ったうえでほとんどの閣僚が留任する中での退陣であり、院政と捉える向きもあったが。

「英米の不協和音へつけ込んだ結果ともいうがな」

 と、新村は笑う。

「昨日の友は今日の敵というが…」

 小野寺は大戦劈頭、ソ連とドイツが協調してポーランド侵攻を行ったことを思い出した。

「文書交換も行われず、間接的に交わされた『口約束』、それが日英秘密協定の実態。そして、それを主導したのが我々『スウェーデン終戦工作班』という訳です」

「改めて思うが、外務省と海軍が共同でというのが信じられんな」

 小野寺の言葉に、吉永は苦笑する。

「我々も数年前までは考えられませんでしたよ」

 大日本帝国の外務省と陸海軍といえば、別の国の組織と錯覚するほど連携意識のかけらもないのが通常だった。

 その辺の事情は平成日本とて似たようなものだったが、尖閣紛争と呼ばれる中国との局地戦争がすべてを変えた。官僚制度に大鉈が振るわれた結果新村のような中途採用組が増え、各省庁と自衛隊-国防軍との人事交流も行われるようになった。

 そのため、外務省と武官の関係もこれまでのような縦割りから変化する途上にある。

とはいえ、彼ら『ス工班』の独特な自由過ぎる雰囲気は新村の生み出すところが大きいのだが。

「話を戻します。東部戦線に関しては史実とほぼ同様の推移を示しています。

ソ連赤軍はバグラチオン作戦によりドイツ軍を開戦前の国境付近まで押し戻すことに成功しています」

 吉永が端末を操作すると、東ヨーロッパの地図が表示され、青い矢印がいくつもドイツ方面へ伸びていく。

「問題は西ヨーロッパです。史実では今年6月にオーバーロード作戦、いわゆるノルマンディー上陸作戦が行われていますが、この世界では未だに実施されていません。一番の原因は米国の自国防衛優先の姿勢です。最近、ようやく米海軍はヨーロッパへの艦隊派遣を再開していますが、未だ上陸作戦に十分な数を揃えられていません」

「ドイツにとっては朗報だろうな。ろくに防御体制を整えられていないフランス方面を後回しにして、東部戦線のみに集中できる」

 小野寺はかつてドイツ国内で行っていた情報収集と、亡命情報将校たちからの情報でドイツが『大西洋の壁』と宣伝する防御施設群が張り子の虎であることを察知していた。

 フランスに駐留する兵士も、士気や練度、装備の点で劣っており、その中にはドイツ人以外の民族が大半を占める『東方大隊』と呼ばれる部隊も多かった。史上まれに見る消耗戦として名を残す独ソ戦は、ドイツ軍をそこまで追い込んでいた。

「言うまでもなく、日本としてはあまりよろしくない状況だ。このままでは英米連合軍がドイツ本国に到達する前に、ソ連軍がベルリンを陥落させる確率が高い」

 新村は画面をにらみながら腕組みをして言った。

「一応確認しておくが、ドイツが勝利する可能性は?」

「ほぼ無いと思われます。ドイツ軍の予備兵力は払底しており、ソ連軍を押し戻す余力はありません」

 吉永は画面を操作し、ソ連軍とドイツ軍の戦力比較のデータを表示する。

 推定保有兵力の格差は、圧倒的といえるほどだった。

「ドイツがソ連のみに占領された場合、我々の想定では共産党政権が樹立されてソ連の衛星国化する可能性が高いと思われます。これは終戦工作の観点から考えても、非常に不味い」

 実際の歴史ではドイツは分断国家として東西に分かれる事となったが、それは双方の軍事力がにらみ合った結果である。英米がドイツ国内に入ることができなければ、結果は見えている。

「ソ連は英米がさらに日本との戦争で消耗してくれることを望んでいる。そういうことだね。そのソ連がドイツの科学技術と情報、資金を手にすれば、消耗した国力を伸張させるには十分だ」

 小野寺はソファーのひじ掛けを指でたたきながら、考える目をしている。

「その通りです。一方、我々としてはバランスがどちらに傾き過ぎても困ったことになるでしょう」

 吉永が端末を再び操作すると、今度はドイツ軍とソ連軍が熾烈な戦闘を繰り広げる東ヨーロッパの衛星写真が移る。衛星軌道上からもわかる範囲で、大小様々な車両が入り乱れて展開している。

「先日秘匿通信でもたらされた政府からの指令は、英国との秘密協定を維持し可能ならばさらなる譲歩を引き出すこと。ひいては、大統領選挙後の米国との停戦交渉へ英国の協力を引き出すことです。その方針に基づいて英国側へ情報提供などありとあらゆる手段を提供することを検討する、と」

「英国内では一度は手を引いた米国への不信感が根強い。議会はけして親米的とはいえないからね」

 小野寺は情報工作の中で、英国政界の事情にもある程度通じていた。

 日本人の多くは英米が一枚岩と考えがちだが、成り上がりであるチャーチル元首相が例外的なだけで、伝統的な貴族議員の多くは米国嫌いとでも言うべき拭いがたい不信感を持っている。

もちろん、同盟国であるという現実もあって、英国人らしい諧謔に満ちた表現でしか表明することはないのだが。

 「これから行う対英交渉がいかに重要かという事だな。実にやりがいのある仕事じゃないか」

 そう言って笑う新村はどう見ても外交官というよりは、鎌倉武士団の棟梁のようにしか見えなかった。

 小野寺は異星人を見るような目で、新村を見つめている。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る