第127話 ダラスのバーで


 テキサス州北部の都市、ダラス。

 『一度目の歴史』では、ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された街として記憶されることになる都市である。

 しかし今は合衆国南部の大都市として、そして戦争景気に沸く航空産業の街として知られることが多い。

 そのダラスのダウンタウンには今日も工場労働者ブルーワーカーたちが、一日の仕事の疲れを癒やす憩いを求めて繰り出していた。

 その喧騒からやや外れた、ダウンタウンの中でも明かりの少ない侘しいエリアに、そのバーはあった。

 うっかりすると見落としそうな路地を入ったところにある3階建ての古い廃墟のようなビルの脇に地下へ降りる.

 降りた先には木製の傷だらけのドアがあり、その蝶番がギシギシ音を立てるドアを開けるとそのバーがある。

 バーの名前を示す看板はどこにもないが、そんなことを気にする客はいなそうに見える。

 店内は僅かな数の白熱灯が灯っているだけで、薄暗がりというに相応しい雰囲気だった。

 よほど近づかなければ、他の客の顔を判別するのすら困難に思えた。

 店内はカウンター席のみで、その席ですら数人が腰掛けているに過ぎなかった。

 およそ会話を楽しもうという類の客人はいない。

 誰もが黙りこくったままグラスを傾けるか、葉巻や煙草をくゆらせているか、そんな客層だった。

 店内には使い古されたレコードプレーヤーが、時折ノイズが混じる野暮ったい音で、歌手の名前すら定かではないバラードが流れていた。

 カウンターの奥でグラスを磨いているバーテンダーの男は、額に傷のあるがっしりとした体格の男だった。

 彫りの深い顔立ちはよく見れば整った顔立ちだが、陰鬱な印象を与える落ち窪んだ目がすべてを台無しにしている。

 金属が軋む音を立てて、バーのドアが開く。

 入ってきたのはくたびれたトレンチコートを羽織った、背の高い初老の男だった。

 年輪が刻まれた顔とグレーの瞳からは、感情を読み取ることが難しい。

 鳥打帽を取ると、くすんだブラウンの髪が顔を出す。

「なにか強い酒を頼む」

 男のしゃがれた声に、カウンター席に座っていた男たちの何人かが、声の主へ顔を向ける。

 しかし、すぐに興味を失い目の前のグラスに視線を戻す。

 バーテンダーは無言で頷くと、素早くカクテルシェーカーに素材を注ぎ、シェイクし始める。

 小気味の良い音が、甘ったるいバラードと混ざり合う。

「エクストラ・ドライ・マティーニ」

 バーテンダーは短くそう言うと、カクテルグラスを滑らせて来た。

 男は特に文句も言わずにそれを受け取ると、舐めるように味を確かめる。

 辛口に仕上げたカクテルが喉を焼くような感覚を味わいながら、僅かなため息を漏らす。

 そうした男の様子を密かに伺っていた男たちは、他の客と代わり映えしない様子に興味を失う。

 少しだけざわついていた雰囲気も凪に戻る。

 その様子を見越していたかのように男は懐から一枚の古ぼけたモノクローム写真を取り出してカウンターに置く。

 「この男を知っているか」

  その写真を視界の端に入れた途端、バーテンダーはグラスを取り落とす。

  ガラスの割れる音が響き、細かい破片が間接照明を反射して煌めきながら床へ落ちる。「その写真をどこで手に入れた?」

「聞いているのはこちらだ。この男を…」

 そのセリフを言い終える前にバーテンダーは、狭いカウンターの中を走り抜けて奥の通用口のドアを蹴り開ける。 

 その行動に呆気に取られている客たちをしり目に、男はカウンターに両手をついたかと思うと、体操選手の鞍馬のような動きで軽々と飛び越える。 

 バーテンダーが抜けていった通用口には明かりなどない暗闇だったが、男は躊躇する様子もなく奥へと進む。

 一瞬真っ暗闇かと思えたが、よく見ればわずかな明かりが上の方から漏れている。

 急な登り階段があり、その上は位置関係からしてビルの裏口へと通じているのだろう。

 男は呼吸を乱す様子もなく目をこらすと、落ち着いて逃げたバーテンダーの背中を見つけた。

 訓練された動きでさしたる音を立てずに加速し、逃げおおせたと思っていたバーテンダーの進行方向へ回り込む。

「安心しろ、少し話が聞きたいだけだ」

 その言葉に安堵する様子も見せずに、バーテンダーは走り去ろうとする。

 しかし、彼には魔法のようにしか見えない格闘技術で、腕に男の手が触れたと思ったとたんにその場に転がされていた。

「…そう言って私を殺す気だろう。ジョージやアンダーソンみたいに」

 バーテンダー乱れた呼吸を整えることもおぼつかないまま、なんとか逃げようと足を引きずりながら歩きだそうとする。

 とはいっても、地面に転がされたときに足を痛めたのか、男が歩いて追いつける程度の速度でしかない。

「タダで、とは言わない」

 そういうと、男はトレンチコートの内ポケットから取り出したものを男に放り投げる。

 反射的にそれを受け止めたバーテンダーは、重みを感じるドル紙幣の束に驚愕する。

「それは手付金といったところだ。有用な情報があれば、その倍は約束しよう」 

「こんな大金を見せつけても、誰が信用するかよ」

 そう言いながらもバーテンダーは、手の中にあるドル紙幣の束から視線を離せない。

「それでは足りないか、では」

 もう一つの札束を別のポケットから取り出し、これまた放り投げる。

「あんた馬鹿か。俺はこの場で逃げ出してもいいんだぜ」

「ああ、そうだろうね。だが君はそうしない。いやロバート・ギタレスといった方が良いかな?」

「なんであんたが?」

 バーテンダーは、自分の名前を言い当てられた事に驚愕の表情を浮かべる。

「テキサス州フォートワース出身の36歳、若い頃は映画俳優を夢見てハリウッドへ。オーディションに落ち続け、諦めて故郷へ戻ってきた」

「お前は、誰だ。探偵か、いやFBIか」

 バーテンダー、いやロバートは驚いていいのか呆れていいのか分からないといった顔で、地面にへたり込んでしまう。

 おそらく、この場で逃げおおせたとしてもいずれはこの男に捕まるのではないかと思えた。

「君は知らない方がいい」

 男は忠告するにはあまりに平坦な声で答える。

「分かった…降参だ。何でも好きに聞いてくれ。答えるかどうかはあんたの質問次第だ」

「この男、ハワード・ロズウェルについて聞きたい。君の知っていることは何もかも、だ。どんな些細な事でもかまわない」

「たいしたことは知らない。映画製作の現場管理者のようなことをしていた。同郷のよしみで、映画のエキストラや端役を回してもらったことがある。元々は役者志望だったらしいが、コネに恵まれなかったと嘆いていた。

 男はロバートの話す様子をじっと観察しながら、顎で続きを促す。 

「彼には役者の才能はあったのかね?」

「さあどうだろうな。俺が見たところ、そんな風にはとても見えなかったね。もっとも、俺が出会った頃はもう酒浸りのろくでなしだったから、どうだかね」

「そうか、ほかに何か無かったか?」

「…そういえば、最後に出会った時は妙に羽振りがよかったな。役者として使ってもらえそうだとか言っていたが、本当かどうか。ヤバい犯罪に手を染めたんじゃないか。おかげで、奴と親しかった人間が次々に消えた。ギャングにでも消されんだろう。…俺が話せるのはこれくらいだ」

「有難う。非常に参考になった。これは後払いの報酬だ。これは忠告だが、どこか別の街へでも身を隠した方がいい」

「あんたに言われなくてもそのつもりだよ。まったく、因業爺に関わったばかりにひどい目にあっちまった」

 地面に転がった札束を手早く懐にしまうと、バーテンダーは脱兎のごとく走り出す。

 その背中を見送りながら、コートの男は一人ごとのようにつぶやく。

「バンシーよりウルフマンへ。情報提供者IFと接触、対象に関する興味深い情報を得た。これより『巣』へ帰投する」

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