第125話 晴れた空から突然に

「我は死神なり、世界の破壊者なり」

                ―古代インド聖典『バガヴァッド・ギーター』


 ロスアラモス研究所は、その日もさほど変わることのない朝を迎えていた。

 まだ研究所の始業時間まで一時間近くあるため、多くの研究員たちは出勤していない。

 所長のオッペンハイマーだけは所長専用のオフィスに出勤し、朝のコーヒーを楽しんでいた。

 所員たちに邪魔されることのないこの貴重なひと時を、オッペンハイマーは愛していた。

 マンハッタン計画を主導するこのフラー・ロッジは、メサと呼ばれる高台の中でも比較的眺めの良い場所に位置している。

 このロスアラモスは標高2200メートルという高地にあるため、空気は澄んでおり都会の猥雑さとは無縁な土地だ。

 そんないつもと変わらぬ日々が今日も続くと、研究所の誰もが信じていた。

 オッペンハイマーのデスクの上には、新聞が山積みになっている。

 そのどれもが、新型兵器がこの戦争を合衆国の勝利に終わらせるだろう、ということを報じていた。

「呑気なものだ。誰もがもう戦争が終わった気分でいる」

 そう独り言を呟きながら、何度も読んだ新聞の一面記事を読み返す。

 確かにオッペンハイマーは反応兵器を、「戦争を終わらせるための兵器」として開発したつもりだった。使用せずともただ存在だけで畏怖されて戦争を起こす兵器、それこそが彼の理想とする反応兵器だった。

 しかし、反応兵器は不十分な性能で実戦投入された。それに加え、低能な新聞記者や政治家たちは反応兵器を「威力の大きな爆弾」程度にしか認識していなかった。

 多くの人間がこんな認識では、反応兵器をパイ投げのパイのように投げつけあう戦争すら起こり得るような気がした。 

―あれがどんな物か、分かっていないのか。爆風は全ての物をなぎ倒し、将来にわたって放射能をまき散らす。従来の戦争を無意味な物にする究極の兵器なんだぞ。

 だが、現実には彼の苦悩を理解する者は少なかった 

 それどころか本来戦後まで極秘とされる事も想定された反応兵器は、今やこの国の救世主として崇め奉られている。

 このロスアラモス研究所は最高機密であるため、マスコミが押し寄せる事などありえない。

だが、戦後はどうだろうか。私生活まで嗅ぎ回られ面白おかしく書き立てられるのではないか。

 そんな事を考えていると、憂鬱になってくる。

「やあ、英雄。その功績の割には酷い顔だな」

 ノックに答える暇もなくドアを開けたのは、ニールス・ボーアだった。

「君までそんなことを言うのか。私が英雄だと、冗談じゃない」

「オッピー、世間はいずれ君をそう言うだろう。もっとも、戦後に機密指定が解除されてからの事だろうけどね」

 ボーアは、彼が大学で教鞭をとっていたころ生徒から呼ばれていたニックネームで呼びかける。彼にこのニックネームの事を話した覚えはないが、どこかで話した事もあったのかもしれない。

「さあ、どうだろうな。戦後なんて随分遠くに思えるがね」

 彼にしては珍しく興奮しているボーアに、どう相手をしていいものかとオッペンハイマーは戸惑いつつ答える。。

「終わるさ。攻撃が成功したことで、この反応兵器への予算はさらに上乗せされるだろう。日本軍もそうなれば降伏せざるを得ない。ヒトラーだって、次は自分だと戦々恐々だ」

 ボーアの予想は楽観的に過ぎると思えた。

 反応兵器の威力はもはや世界各国の知るところとなった。

おそらくはソ連やドイツ、そして日本もこの新型兵器の開発に血道をあげるだろう。

 とはいえ、戦争の最中に巨額の経費と優秀な研究者、そして必要な物資を揃えることは至難の業だろう。戦争が終わるまでに反応兵器を完成させる国は合衆国だけ、のはずだ。

「戦争が終わる、か。果たして戦後の世界はどうなっているのだろうな」

 オッペンハイマーは、まだ見ぬ戦後の世界を想像しようとしたが果たせなかった。

 たった数年前には当たり前だった戦争のない世界は、どこか遠い異世界のように思えた。

その取り留めのない思考を遮ったのは、けたたましいサイレンの音だった。

「何事だ。侵入者でもあったのか」

「いや、オッピー。これは空襲警報だ」

「バカな、空襲だと?」

 とても信じられないといった顔で椅子から立ち上がり、窓の外へ視線を向ける。

 少なくとも、彼の視線には日本軍の戦闘機と思しき飛行物体は確認できない。

「誤報じゃあないのか、あるいは訓練かも」

呑気な口調のボーアに苛立ちながらも。オッペンハイマーはどこかで誤報であると思っていた。

 なにしろ、このニューメキシコ州は西海岸から遠く離れている。

 オッペンハイマーは最新の航空機に精通しているわけではなかったが、日本の軍用機が防空レーダーを掻い潜り、本土奥深くまで到達するなどおよそ不可能であることくらい分かる。

それに、そんな長大な航続距離を持つ軍用機がいるなら、まずは西海岸の工業地帯が標的になるはず。

だがしかし、サイレンの音は鳴りやまない。

 オッペンハイマーの不安をかきたてるその音は、鳴りやむどころかますます

強くなる。

 遠くから急にガラスが砕け散る音が響き、二人は顔を見合わせる。

 その次の瞬間、二人がいる部屋の窓ガラスも粉々に砕け、室内に熱風が吹き込む。

 急に室内の温度が急上昇し、同時に机の上の紙資料がバサバサと音を立てる。

ーこれは…室内の気圧が急激に変化しているのか。

 命の危機に瀕しているにも関わらず、オッペンハイマーは科学者としての興味からかどこか他人事のように状況を観察していた。

 ふとボーアに目をやれば、目の前で派手な音をたてて昏倒していた。

 オッペンハイマー自身の意識が失われるのも、それからわずか一分にも満たない時間に過ぎなかった。

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