第110話 BB


「馬鹿な、アンタ正気か。あの環礁の中へ突入しろだと?この潜水艦は小型潜水艇とは訳が違うんだ」


 司令塔で潜望鏡を使ってトラック泊地の様子を環礁の外から伺っていた艦長は、潜望鏡を下した途端無茶な命令を受ける羽目になった。


 それも軍服ではなく、喪服を思わせる黒一色のスーツを着た痩せぎすのドイツ系の男からだ。


 名前は知らされず、暗号名「BB」とだけ呼ばれていた。何の略号かはわからなかったが、口さがない兵士たちは新約聖書に出てくる悪魔、蠅の王ベルゼブブの略だと噂していた。


 死神を思わせるその男の目は、軍人とはまた違う種類の死の匂いがした。


 合衆国大統領と海軍作戦部長のスタンプが押された指令書がなければ、軍服を着ようともしないこの男などとっくに太平洋へ放り込んでいる。


 念のいったことに作戦部長殿直々に電話で念押しをされては、いかな艦のすべてを預かる艦長といえど無碍には扱えなかった。 


「生憎だが艦長、やってもらわなければ困る。これは大統領命令なのだ」


 艦長は自分の職分に土足で踏み込んでくるこの男を殴りつけたい衝動を必死に抑えこんでいた。


 この男の正体はまったく不明だが、艦長は戦略諜報局OSSのエージェントではないかとあたりをつけていた。


 何より確実なのは艦長にこのBBという男に抗うすべがないということだ。


「そのために、何度も浅深度潜航の訓練は行ってきた筈だ」


「お言葉ですがね、訓練と実戦は違う。我々軍人は作戦上必要とあれば、生命の危険は厭わない。だが、作戦目的も秘匿されたまま死地に赴くとなれば士気にかかわる」


 それでも艦長は乗組員の生命を預かる立場から、安易にひく訳にはいかなかった。


「艦長、私は君を拘束することも許されている」


 木で鼻を括ったような返答に、艦長は自分の忍耐の限界に挑む羽目になる。


「了解…した。日本軍の対潜艦艇が出払っているという情報は確かなのだろうな」


 艦長は無理矢理自分自身をねじ伏せ、目の前の黒服の男たちを睨み付ける。

 もし艦長が抵抗したとしても、最悪この艦を好きなようにされるだけに終わりかねない。


「協力を感謝する。それでは予定ポイントまで移動を開始したまえ」


 どこまでも尊大に黒服の男BBは、居丈高に命じた。


 

 そんなやり取りがあったのがついさっきのことだ。


 決死の覚悟で環礁南端部の南水道と日本軍が呼んでいる水道から泊地内部へと侵入したノーチラスは、3ノット程度の微速で泊地中央部へと向かっていた。


 戦場伝説の尾ひれがついた噂で語られていた日本海軍の対潜兵器による攻撃は全く無く、拍子抜けする思いだった。


 下手に回避行動などすれば座礁しかねない浅さの泊地内で爆雷攻撃から逃げ惑う羽目にならなかったのは僥倖だった。。


 大胆にも潜望鏡をあげたまま、ノーチラスは進む。


 ここから先は詳細な偵察情報が無く、情報部からまわってきた怪しげなドイツ植民地時代の古い海図しかない。偵察機の未帰還が相次いだのが、その理由だという。


 命をかけた作戦に航空写真の一枚もないというのはどうなのかとは思ったが、口には出さない。


 日本軍がそれぞれ「月曜島」、「秋島」と呼んでいる島と島の間をすり抜ける。


 そして東へ転舵すると艦隊泊地がある「夏島」へ向かう。


 春島を望む夏島の北側海面、これがノーチラスの目的地である「予定ポイント」だった。


 なぜこれほどまでの危険をおかしてこの敵地へ来なければならなかったのか。

 いよいよそれが明かされるのかと思い、艦長は黒服の男の顔を見つめる。


 だが、黒服の男は微塵も表情を動かさず、暗い瞳を海図に落としたままだった。


「予定ポイントとやらに到達したぞ」


 艦長の射抜くような視線を意に介さず、男は不快なしゃがれ声で問う。


 地獄の底から響いてくる悪魔の声は、おそらくこんな声なのかもしれないなと艦長は思った。


「艦長、周囲に敵の対潜艦艇や航空機はいないのだな」


「潜望鏡による目視で確認した。逆探に反応もない」


「陽動作戦は成功した、ということか。やはり、通信分析の通りこのトラックの戦力は限定されたものらしいな。作戦に支障はない。艦長、封緘命令書を開封する」


―空母機動部隊を動員した大作戦が陽動だと?

 

では本命の作戦とは何なのだ。もしかして、俺たちがやらされている奇妙な泊地侵入こそが…


 心なしか、『BB』の不吉さがさらに増したような気がして、艦長は心の中で十字

を切る。


―おお神よ、私が軍務に邁進し日曜礼拝など出たことがなく、教会に寄付などろくにしたこともない不真面目な信徒であることをお怒りなのですか。


 そんな艦長の心中の呟きなど、『BB』には届かない。


 出港前にこの司令室内の金庫に封印した封緘命令書を取り出すべく、首に紐でぶら下げている鍵を取り出す。


 艦長もため息を漏らすと、自分も鍵を取り出す。


 この金庫は二つの鍵がないと開かない、特殊な構造になっているのだ。


 同時に鍵穴に鍵を差し込むと、重厚な金庫の扉が開く。


 金庫の中身はただ一つ、マニラ封筒一つきりだった。


 『BB』はその封筒を取り出すとペーパーナイフで糊付けされた封筒を切り、中身の書類綴りを取り出す。


 「最高TOP機密SECRET」の赤いスタンプが鮮やかに押されたその書類を広げると、『BB』は素早く黙読する。


 ごく僅かな時間でその書類を読み終えた男は、艦長にその書類を渡す。


「艦長、書類の内容は他言無用だ。もし生き残ったとしても、君たちにはおそらく一生監視の目がつくことになるが」


「何がどうなっているんだ、艦を捨てて逃げろだと?こんなふざけた話があるか!」


「任務を果たすのだ、艦長。君は乗組員の生命を守る義務がある。それから、この任務に私は満足しているよ。奇妙なことを言うようだが、誠に有難う」


「馬鹿な、あんたはそれでいいのか。こんなバカげた任務で…」


「気遣いは無用だ、艦長」


 男は静かにかぶりをふると、穏やかな笑顔を浮かべた。


 この作戦中に男が始めて見せた笑顔だった。


 それはすべてを諦めきった男の顔に見えた。


 艦長は憤怒と悲哀、そして絶望が混ぜこぜになったなんと表現してわからぬ感情を無理やり軍人の仮面の下へ押し込めると、艦内放送用のマイクを手に取る。


「艦長より全乗組員へ告げる。これから30分後に急速浮上。その直後に総員退艦。ゴムボートに移乗して環礁の外へ脱出する。持っていく武装は最低限でよい」


 艦長の命令に不満と驚きのどよめきが起きる。


 最後に艦長は指令室を後にして、自分の「持ち場」へと向かう名前も知らない男の背中を見つめた。

 

 『BB』は既に人気のなくなっている艦内の、本来魚雷発射管室が置かれているエリアにいた。


 既にノーチラスは無浮上した無防備な状態で海面に晒されており、いつ航空機や対潜艦艇の襲撃を受けてもおかしくなかった。


 本来ならば潜水艦の主兵装たる魚雷発射管は綺麗に撤去され、そのかわりに奇妙な機械が据え付けられていた。球体にいくつもの円筒が組み合わさったような形状をしており、何本ものコードがその表面を走っている。


 『BB』はその機械にコードでつながっている制御卓の前に据え付けられている武骨な金属製の椅子に腰を落とす。


 制御卓に鍵を差し込み、ダイヤル式の入力装置で彼の脳内にしか存在しない制御キーを打ち込むと『起爆装置』が作動する。


 ここまでは何度も脳内に刻み込まれたマニュアルを思い出しながら、想定した通りの動作だった。


 あとは時限装置を作動させるスイッチを押せばよい。


 だが、さしもの『BB』にも迷いが生じた。


 このスイッチ一つでいったいどれだけの人命が喪われるのだろうか。


 何度も思い描いていた場面であるにも関わらず、機械のようには押せなかった。


「『BB』、聞こえ…警備艦艇に捕捉さ…なんとか奴らをひきつけて…どこまでやれるか分から…」


 無線から聞こえてきたのは、雑音まじりながらはっきりと退艦していった艦長の声だと分かった。


 重たい無線機をどうやってボートに積み込んだのかはわからないが、自分の任務を支援してくれているのだとは分かった。


 このままでは、この潜水艦ごと拿捕されかねないことは明らかだった。


 頭の中を彼の半生が映画の回想シーンのように駆け巡る。


 ドイツ系移民の二世として生を受けた彼は、少年時代はアルコール依存症の父に殴られてばかりの日々を送っていた。


 ようやくのことで父の暴力の支配から抜け出し、陸軍軍人となり友人の紹介で結婚した。


 息子にも恵まれ、この時代が彼にとっての一番幸福な時代だった。


 その幸福は長くは続かなかった。


 生まれつき身体の弱かった妻は、肺結核で病に倒れ帰らぬ人となった。


 一人息子も交通事故に巻き込まれて亡くなり、彼は再び一人となった。


 そんなときに声をかけてきたのが、軍の情報部だった。


 天涯孤独の身である彼は、さして考えることもなくその誘いに乗った。


 OSSのエージェントになった彼は、かくして名前を失い、ただの『BB』になったのだ。


 不幸ではあるが、合衆国のどこにでも転がっている類の不幸な男だった。

 

今になってみればOSSの上層部の考えはわかる。


 生還の見込みが少ない特殊作戦に投じても惜しくない、そこそこは使えるが取り替えがきき、後腐れがないエージェント。


 すべてに絶望しながらも、最後に辛うじて残った愛国心から軍務そのものまでは捨てられない『装置』。 


それがこの俺という訳だ。


 それが分かっていてなお、『BB』は時限起爆装置のスイッチを迷うことなく押した。


 起爆までの時間は三分後に設定した。


「艦長、君は私が脱出するまでの時間を稼ごうとしてくれているのだろうか。君には嫌われているとばかり思っていたよ」


 『BB』は胸ポケットから擦り切れそうなモノクロ写真を取り出すと、制御卓に置く。


 既に椅子から立ち上がる気はなかった。


 日本軍の兵士がこの潜水艦に乗り込んでくる前に、確実にこの『爆弾』を起爆させるつもりだった。


「エリー、サム。僕は間違いなく地獄に行くだろう。だがもしも…再び会えるのならば…」


 その先を言う前に、制御卓の送った電気信号は起爆装置へ伝達され、『爆弾』の中に配置された火薬の信管を起爆させる。


 その『爆弾』は複雑な設計にも関わらず、設計者の意図通りの威力を発揮する。


 ……そして、地上に太陽が出現した。

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