第107話 回避運動適宜

 敵艦載機の攻撃は明らかに『武蔵』を指向していることは明白だった。


 瑞鳳の艦載機が防空戦闘を行っている最中にも武蔵の艦尾方向から艦載機の群れが迫っていた。


 森下艦長は直立不動の態勢のまま、自前のドイツ製双眼鏡を構えている。


「まったく、アメさんは贅沢な戦をするねェ」


 双眼鏡を小刻みに動かすと、森下は呆れとも賞賛ともつかない声でぼやく。

 そして一瞬で表情を切り替えると、伝声管の蓋を跳ね上げる。


「防空指揮所より艦長から各高射砲、機銃分隊。敵の爆撃機は反跳爆撃を狙う可能性がある。射撃時は投弾直前までよく引き付けて撃て」


 森下はそう言いながら艦橋のはるか下の高射砲や機銃が装填作業をしているのを双眼鏡で確認する。


 対空誘導弾とやらがあてにならない以上、旧来の高射砲や機銃が防空の要となる。


「敵機直上、急降下!対空射撃、撃ちィ方はじめっ!」


 森下が伝声管で告げた内容の復唱がかえってくると同時に、高射砲が射撃を開始する。


 高射砲弾の炸裂音が響きわたるなか、敵の艦載機のかたちがはっきりわかるほどの高度まで迫ってきていた。


「敵雷撃機、方位角一九〇に魚雷投下。雷跡を認む!」


「両舷最大戦速、取り舵一杯!」


 森下の操舵号令からかなりのタイムラグがあってようやく、『武蔵』はゆっくりと艦首を左側へ向けて転舵し始める。


武蔵ほどの巨艦ともなると舵をきってから実際に方向を変えるまで、かなりの時間を要するのだ。


 そうした武蔵の操艦特性を、森下はある種の天才的感性と絶え間ない訓練によって、身体に叩き込んでいた。


 懐中時計を見ながら時間を測りつつ、ここだと思うときに命令を下す。


「もどーせェ、40度ヨーソロー!復唱不要だ」


 雷跡を双眼鏡で追っていた下士官は、艦尾からさほど離れていないところを魚雷の

排気ガスが出す白い泡の線が走り抜けていくのを見て、感嘆のため息を漏らす。


 まさに神業のような操艦で、魚雷を回避してみせた森下の表情はといえば実に飄飄としたものだった。 


 それからの命令はあまりに小刻みな転舵のために、通常ならばまず省略されない命令復唱さえ省くほどだった。


 第二艦橋で戦闘詳報を記録していた予備士官あがりの中尉は、あまりに頻繁に繰り返される転舵についに記録を諦めて『回避運動適宜』と記録したほどであった。

 


 武蔵の近代化改修の一環として、対空機関砲として配置されていたのは、かつて陸上自衛隊で使用されていた35ミリ二連装高射機関砲L90であった。


 爆風避けの防盾と旋回台座が装備されているため、L90とは一見分からない外見になっている。


 レーダーや射撃管制装置などは簡易パッケージ化されて周囲へ配置されている。


 旧式化して倉庫で埃をかぶっていた砲ではあるが、機関砲メーカーとして名高いエリコン社製の機関砲であり性能は申し分ない。


 自動化対空機関砲であるファランクスCIWSが艦橋直下と艦尾に配置されており、防御機銃の必要性は低下していた。しかし、死角を補うための補助的な対空兵器として搭載されていたのである。


 ファランクスの電子機器が故障中のため、L90の出番となったのだ。


 やはり最後に頼りになるのは訳の分からない電子機器などではなく、人間が操作する兵器だと分隊長は思っていた。


 最後まで自動化された対空兵器の導入に抵抗した彼は、内心でそれ見たことかと思っていた。


 砲弾の補給の関係で砲自体は変わったが、大口径化に文句はない。


「ええか、電探射撃装置は死んでいるが光学照準に問題はない。ギリギリまで辛抱して引きつけろ。くれぐれも勝手な発砲は禁ずる」


 海軍で長年飯を食ってきたという顔をしている分隊長の命令に、まだ少年のようなあどけない顔の水兵は頷き返す。


「しかし給弾方式は変わらないですね。相も変わらずの装弾子クリップ式ですか」


 弾薬箱の中に収められている35ミリ砲弾を見ながら、水兵がつぶやく。


「まあ、扱いやすくて困ることはあるまいよ」


 以前『武蔵』に搭載されていた九六式二十五粍高角機銃も同じ給弾方式であった。


「敵爆撃機8時方向。急降下爆撃を企図するものと認む」


 分隊長は冷静にこちらへ腹を向けて急降下してくる敵爆撃機を睨み付けている。


「電探射撃が期待できん以上、光学照準で対処するほかない。当然、命中率は落ちるだろう。だからくれぐれも焦るなよ」


 今にも米軍機が爆弾を投下してくるのではないかと錯覚するが、よくよく見ればまだ距離は遠い。


 指先が汗でじっとりと湿ってくる。


「敵機直上、急降下!対空射撃、撃ちィ方はじめっ!」


 伝声管からと思しき声が響くとともに、分隊長は携えていた指揮棒を振りかざす。


 水兵が慌てて射撃管制装置の引き金を引くと、35ミリ機関砲が乾いた音で吠えた。


 一分間に五五〇発もの砲弾を発射できる性能の機関砲は、カタログスペック通りの成果を示した。


 爆弾投下寸前の一番脆弱な態勢にあった先頭のSB2C『ヘルダイバー』の機体を、ジュラルミンと肉片の混合物に変化させる。

 

新型機関砲のあまりの威力に、水兵が一瞬呆気にとられる。


分隊長はすかさず頭を小突くと、耳元で大声で怒鳴る。


「弾幕止めるな、そのまま撃てッ。砲弾の補給も急げッ」


 号令に少年のような顔の水兵が弾かれたように弾薬箱を持ちに走る。


 L90機関砲は弾薬の続く限り、弾幕を張り続ける。


 その弾幕の中を後続の米軍機は急降下爆撃を試みる。


 味方機が次々と機関砲弾に屠られるなか、ただ一機の米軍機だけが爆弾の投下に成功したらしい。


 引き金をひきながらもどこか他人事のように水兵は引き金を引き続けている。


 2000ポンド爆弾は自由落下しながら、みるみるうちに大きくなる。


―そういえば、以前爆弾が落ちてくるときは楕円形に見えるならば安心だ。真円に見えるならば気をつけろと聞いたことがある。あれはどうも危険な…


 引き金を引いているせいか、不思議と恐怖感は感じない。


 スローモーションのように落ちていく爆弾を見ながらも、身体は動かなかった。


 強烈な衝撃と爆風を感じた次の瞬間には、水兵の身体は宙に浮いていた。


 硬い木製の甲板に叩きつけられ、同時に上から滝のように海水が降り注ぐ。


「至近弾だ、応急作業班急げ!」


 誰かが大声で怒鳴っている声に、痛みで飛びかけた意識が戻る。


 周囲は酷い有様だった。


 海水と誰かの血液でぐちゃぐちゃになっており、排莢された薬莢や肉片があちこちに散らばっている。


 さっきまで取りついていたL90はといえば、これはほとんど損傷を受けていなかった。


 海水まみれになってはいたが、射撃そのものは可能ではないかと思った。


 どうやら、さきほどの爆弾は命中こそしなかったものの、舷側からわずかな距離で炸裂したらしい。


―命中はせずとも海水と衝撃波で機銃座が酷いことになった訳か。


 そういえば分隊長はと周囲を見渡す。


 分隊長は武蔵の分厚い装甲板に叩きつけられたのか、ありえない方向へ首が折れて倒れていた。


 さきほどまで生きていた人間がもう息をしていない現実に思うことがないわけではないが、感情は封印する。


 変わり果てた故郷とはいえ、彼はまだ若く人並みの幸せを味わう人生を送りたいのだった。


「分隊長にかわり指揮を執ります」


 彼は海軍式の敬礼を事務的に済ますと、何事もなかったようにL90の状態を調べる。


 試射とばかりに、残っていた弾薬で射撃する。


「高角機銃問題なし、対空戦闘を続行する」


 弾薬箱を届けに来た水兵に目礼すると、彼は再び空をにらんだ。

 

 

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