第103話 森下信衛
鋼鉄の艨艟と呼ぶに相応しい巨艦は最大戦速でトラック近海の太平洋を疾駆していた。
太陽はすでにその姿をすべて洋上へあらわしており、南洋特有の射抜くような日差しが降り注いでいる。
日本帝国海軍が切り札として建造した、46センチ三連装主砲三門という前代未聞の巨砲を搭載する戦艦であった。極秘裏に建造されたその巨艦は決戦存在として温存され続け、大戦後期までろくに実戦を経験しなかった艦でもある。
「大和ホテル」に「武蔵御殿」、それが大和型戦艦二隻につけられた不名誉な渾名であった。
建造当初の大艦巨砲主義から、真珠湾攻撃を端緒とする航空母艦の時代へと急速に変化する過渡期に生まれた不幸な戦艦の宿命でもあった。
『武蔵』はトラック増派艦隊の旗艦として、金剛型戦艦『榛名』と軽巡洋艦『矢矧』を率いて、空襲を受けているトラック防衛艦隊のもとへ支援に向かっていた。
陣形は高速を発揮しやすい単縦陣陣形である。
一方、随伴していた『瑞鳳』は艦載機を発艦させたのちに、護衛の駆逐艦『秋月』を伴って、後方へと退避しているはずだ。
武蔵は単縦陣のまん中に位置しており、先を行く榛名の艦尾が、この『武蔵』の防空指揮所からはよく見える。
武蔵の防空指揮所は、絶壁の岩山を思わせる艦橋構造物の天辺にある。
露天の籠型構造物に周囲を監視するための双眼鏡が各方向へ取り付けられている。
大型艦らしい威容を誇る大和型戦艦の中では、一番簡素な構造物とも言える。
その防空指揮所で帝国海軍の第三種軍装に大佐の階級章をつけた男は、武蔵の防空指揮所で野性的な笑いを浮かべていた。
この戦艦『武蔵』艦長を務める森下信衛大佐だった。
時震後に前任者が統合参謀本部付となったあと、転属で武蔵の艦長になった人物だった。
「敵艦載機の空襲が予想されます。せめて艦橋に降りてください」
そう言ったのは銀縁の眼鏡をかけ、ひと際背の高い体に海上自衛隊時代の制服を着ている少佐だった。
国防軍と名を変えても戦時中であるため新制服などは採用されていないため、階級章や徽章だけを変える形になっている。
彼、垂水公一は国防海軍少佐は事実上の目付役、あるいはソ連時代の政治士官のような役回りだった。
基本的に『武蔵』をはじめとする旧帝国海軍艦艇は元々配置されていた帝国軍人がそのまま配置されているからだ。近代化改修を受けているとはいえ、基本的には時震前と基本的には同じで運用は旧海軍の人間に頼る他ない。
垂水のような立場の平成人は技術士官などのかたちでこの『武蔵』に数百名が乗り込んでいる。満洲で痛い目にあった日本政府は、そうした保険をかけたいのだろう。
「まあ、そう言うな。敵の艦載機の動きを見るにはここが一番なのさ。電探だけではどうにも分からんことが多過ぎる」
「指揮官が露天指揮所にいてどうします。他の人間に任せればいい」
垂水は艦を預かる指揮官が、無防備な露天の指揮所に居る意味が分からなかった。
「…なあ、垂水少佐。君は俺の前の歴史での運命を知っているんだろう?君は勉強家だからな」
はぐらかされた垂水は顔をしかめる。
この75年前の武人に何を言っても無駄なことは短い付き合いでも分かっているが、納得できないものはあった。
「上官になる人間のことくらい調べます。大佐殿も、いくらでも調べられたでしょう。なにしろ、貴方は少しでも戦史に興味がある人間にとっては有名人だ」
「それはそうなんだが、まああまり気が進まなくてね。自分の墓碑を見るようなものからな」
「あなたは『前の歴史』では戦艦大和の艦長としてレイテ海戦においてシブヤン海の戦いを戦い抜きました。操艦の名人として、米軍が航空優勢を握る中でも大和を生還させることに成功した。」
「シブヤン海ということは、フィリッピンか。負け戦だな」
森下大佐はくしゃくしゃになった紙箱から煙草を一本取り出すと、火を点けて旨そうに吸う。
「そして坊ノ岬沖海戦では第二艦隊参謀長として再び大和に乗り込み…」
「そこまででいい。やっぱり自分の運命を他人から聞かされるのはぞっとしないな」
たなびく紫煙の行先を眺めながら、森下は気まずそうに笑った。
「…俺たちはまるで浦島太郎だな。いや、幽霊か。あのろくでもない時震とやらで、
垂水は答えずに、水平線の向こうに視線を移す。
彼にも妻子はいた。
-果たしてこの森下という帝国海軍の軍人と同じ立場になった時、自分も戦えるだろうか。
「軍人というものはお会いしたことのない陛下のためでもなく、まして悠久の大義とやらのために死ぬのでもない。
「…分かりません。簡単に死ぬつもりはありませんからね。軍人の務めは生きて任務を果たすこと。簡単に犬死にすることではありませんから」
「君も言うなア。それが平成の軍人という奴か」
「さあ、どうでしょうね。私に言わせれば、昭和の人間は簡単に死ぬと言い過ぎに思えますが」
森下は垂水の真面目くさった顔を見ながら、腹を抱えて笑った。
このたらしめ、と垂水は思う。
本質的にこの男は人を引き付ける天性の陽性さというものを持っているのだった。
「君を見ていると平成の世も日本人というのはさほど変わらンのだなあと思うね。佐世保の街を見ても、街並みは様変わりしていてもやはり日本なんだナ」
「そんなものですか」
「ああ、そんなものだ。だからこそ、根無し草でも戦争をする気になるのかもなア」
垂水は何かを言おうとして、言葉に詰まった。
何のために戦うのか、そんなことは意図的に考えないようにしてきたせいかもしれない。
「なんのために戦争をするか、なんて贅沢なことは生き残ってから考えますよ」
結局、垂水は真面目くさった顔でそう答えるほかなかった。
そんな二人の会話を切り裂くように、ブザーが耳をつんざくような音を立てる。
同時に、伝声管から野太い声が響く。
太陽嵐の影響で一部の通信機が故障していることもあり、代替通信手段の伝声管を使用しているのだった。
電子機器を一切使用していないアナログ機器が役に立つ皮肉な状況だ。
「電探室より達する。対空電探に感あり。敵飛行隊、二時方向より接近中!本艦に対して雷撃を企図するものと思われる」
森下は真顔になると、伝声管に向けて怒鳴るように応答する。
「防空指揮所、艦長より達する。咄嗟対空戦闘用意!」
森下の司令を待たずに、既に眼下では主砲が旋回し始めていた。
対空機銃座にも機銃手や装填手などが弾倉を運ぶ様が見える。
不意に後ろから爆音が轟いてきて振り返ると、見慣れない型のプロペラ機が上空を飛び去って行く。
三十式軽戦闘機と命名されたそれは、航空自衛隊で運用されていたT-7練習機を単座型にして、防弾装甲を付与した戦闘機であった。作戦航空機の不足を補うためと、旧陸海軍のパイロットが容易に機種転換できるように生産されている機体である。
「有難い、瑞鳳が寄越してくれた直掩機か」
「艦長、艦橋へ…」
「ノーサンキュー。私はここで指揮を取るよ。別に精神論というわけじゃあない。敵機の攻撃を確認し、最適な回避運動を指示するには一番効率が良いのさ」
垂水の懇願するような要請をあっさりと笑顔で断ると森下は、指揮所に据え付けてある数台の双眼鏡のうちの一台を覗き始める。
「私は司令塔へ降ります。指揮を継承する人間が最後まで生き残っていないとまずいですからね」
精一杯の嫌味を言い残し、垂水はラッタルを降りて司令塔へと急ぐ。
既に「武蔵」は、敵機の攻撃を幻惑させるためのジグザグ航法――之の字運動を始めていた。
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