第96話 ディアボロス
1944年7月26日19時58分(アメリカ東部標準時) ホワイトハウス
ホワイトハウスの大統領執務室に訪れるものは、みな一様に緊張の色を隠せないでいた。
彼らの表情からは、ここ最近荒れ狂うばかりの大統領の機嫌の悪さに巻き込まれたくない、そんな心理がありありと見て取れた。
「ずいぶんとひどい有様ですな、大統領閣下」
執務室の扉を開いたウィリアム・リーヒ大統領付参謀長は、執務室内に充満するアルコールの臭いに顔をしかめる。
顔をしかめつつ、これはそろそろ本格的に禁酒を言い渡すべきかもしれないと思った。
そこはかつて塵一つ許さないほどに徹底的に掃除されていたはずだが、今はそんなことなど信じられないくらいに散らかっている。最高機密のスタンプが押された書類綴りや、空になった酒瓶などで足の踏み場もないほどの状態になっていた。
「閣下。すでに『プロメテウス作戦』の発動準備は、十全に整いました。閣下の署名をもって、この作戦は発動されます」
リーヒは器用に足元に転がっているものを避けながら進み出ると、作戦概要がまとめられた書類を、彼の執務机に差し出す。
ルーズベルトがその書類に気づくまで、10分ほどの時間を要した。
落ちくぼんだ目に生気の感じられない澱んだ光を宿したその男は、口を半開きにしたまま涎さえ垂らしており、およそまともな執務能力があるとも思えなかった。
「大統領閣下、ご裁可をいただきたく」
リーヒがしびれをきらして大声を出すと、車椅子に乗った哀れな老人はようやくのことでまともな思考力を取り戻したらしい。小刻みに痙攣する手で書類を手に取ると、いかにも億劫そうにその書類綴りを数枚めくっただけで机に放り投げる。
「よろしい、これで私の政権も安泰という訳だ、リーヒ君」
リーヒはあえて答えることなく、直立不動の姿勢のままで待機する。
「まったく君は面白みがないな。まあ、そういうところは嫌いじゃない…高級軍人は政治家としての才も必要だがね」
リーヒは唐突に躁状態になったのルーズベルトを呆れた様子を隠そうともせずに見守る。
彼の視線に気づくこともなく、ルーズベルトは机の上にキャップもつけずに転がっていた万年筆を手に取り、乱れた字体で署名を入れた。
「合衆国の未来がかかっている。この作戦が成功すれば私も枕を高くして眠れるというものだ」
ルーズベルトはそう言いながら誰に向けるものとも知らぬ乾いた笑いを漏らす。
「まったく、忌々しい記事を書いてくれるものだ、ブン屋どもめ。」
執務机の一角にうず高く積まれている新聞の束を睨み付けながら、ルーズベルトはコニャックの入ったガラス瓶に手を伸ばそうとする。
「この辺でお止めください、大統領閣下。これ以上のアルコール摂取は執務能力の維持に重大な影響を及ぼしかねません」
「それは脅しかね、リーヒ君」
「そんなことはお分かりのはずですよ」
「…分かった。私の負けだ」
「執務室内のアルコールはすべて撤去させていただく。そして大統領閣下、貴方は専属医の診察を受けるべきです」
ルーズベルトはそれには答えず、震える手で水差しからコップに水を注ぐ。
そして執務机の引き出しを開けて錠剤の入っている薬瓶を手に取ると、数錠の薬を取り出して口に含む。
コップの水をすべて一気に飲み干すと、ようやく手の震えが消えて血色が戻ってくる。
わざとらしく咳払いしたルーズベルトは、机の新聞の中から今日付のワシントンタイムズを手に取り、わざとらしく大開きにする。
新聞の一面には『ルーズベルト大ピンチ、支持率大幅に低下』『共和党支持率上昇。政権奪取なるか?』といった見出しが躍っている。
「国務省局長のアルジャー・ヒス、財務次官補のハリー・ホワイトなどがソ連のスパイである疑惑が濃厚、だと?馬鹿を言うな」
ルーズベルトは両手で力任せに新聞紙を引きちぎると、さらに細かく新聞紙をちぎり始める。
元から赤ら顔だったルーズベルトの顔はさらに真っ赤になっていた。
リーヒは大統領を極力刺激すまいと、冷静な顔で黙って見つめている。
しかし、リーヒとて『ニューヨーク・ヘラルド』という零細地方紙がこんなスクープを報じて見せたことについて驚きを覚えていた。
特にヒスがソ連大使館の外交官から『郵便箱方式』で、文書を受け渡す写真を一面トップで報じているのには度肝を抜かれた思いがしていた。
郵便箱方式とはスパイが使うアナログな秘密連絡の手段である。機密書類の入れられた箱等を植え込みの陰やベンチの下などの決められた見つけにくい場所に潜り込ませておき、ある程度の時間を置いて後で連絡要員が回収する古典的手法である。
単純な方法だが、そう簡単に露見するわけではない。スパイの活動を突き止めるには、膨大な数の人物情報の収集に加え、長期にわたる尾行調査などが必要である。
まして、マンパワーも限られる新聞社ができる芸当とも思えない。その証拠にスパイ活動の現場を押さえた写真などというものが、世に出回った例はほとんどない。
これまで金融や海外ニュースを中心に、芸能人のゴシップも扱う零細地方新聞社、『ニューヨーク・ヘラルド』が、これほど鮮やかな調査報道をやってのけたことは異常というほかない。
『ニューヨーク・ヘラルド』自体がスパイのフロント会社なのではないかと疑い、
MISが提出した報告書では、その疑いを裏付けるかのような情報が見受けられた。
スクープの数日前にニューヨーク・ヘラルド社はニューヨーク・トリビューン社との合併を発表している。 それに加えて、スクープを行った記者や関係者の多くに、連絡が取れないものもいるという。
状況証拠は多くあったが、決めつけるには早計。
それが報告書を読んでのリーヒの感想だった。
「一番まずいのは、
内心では、ええまあその通りでしょうねと思っている。
悪名高きハルノートは、日米開戦直前に事実上の最後通牒として日本側へ手渡された、日米開戦を決定づけた文書である。日本側にとって到底のめない条件を連ねる挑発的な内容の文書は、外交機密として国民には知らされてこなかった。
中国大陸の権益放棄や満洲からの軍隊の撤退などに加え、戦争資源の四分の三の売却という項目まで含まれていた。これまで日本が大陸や満洲で積み上げてきた権益を放棄し、かつ戦争に備えた備蓄物資を放棄して無防備な状態になれと言っているに等しい条件だった。
「野蛮な日本人が
ニューヨーク・ヘラルドの記事はまた、日米開戦に大きな影響力を発揮した大統領側近や
なかでもモーゲンソー財務長官のもとで働いていた財務次官ハリー・デクスター・ホワイトはソ連の雪作戦(オペレーション・スノー)なるスパイ計画のもとで、件のハルノートの原案作成に影響を与えることに成功したと書かれていた。
この件について、MISの報告書は「事実である可能性は否定できない」という見解を示していた。直接の証拠こそ挙がっていないものの、ホワイトがソ連の影響下にある疑いは強いというのが結論だった。
「一番気に食わないのは、この新聞の後追い記事を他の新聞社も我先にあることないこと書きまくっていることだ。おかげで、ホワイトハウスの外に出られん」
実際、このスクープを目ざとく見つけた大手の新聞社はあることないことおおいに書き立てており、その売上げも空前の記録を打ち立てているという。
-これもあの硫黄島の大敗北がなければ起きなかったことだろうな。
もしあの硫黄島で勝っていれば新聞はこんな怪しい記事に飛びつかず、零細地方紙の飛ばし記事として片付けられただろう。しかし、あの硫黄島海戦での艦隊壊滅という事実はいくら隠蔽しようともしきれるものではない。
艦艇の乗組員、輸送船に乗っていた海兵隊や陸軍の兵士たち。あまりに多くの艦と将兵を失い過ぎたのだ。 呑気に政府の政治宣伝を信じ込んでいる一部の人間を除き、連邦政府に対しての鬱屈はマグマのように溜まっていたのだろう。その心の隙間へ「政府がソ連のスパイに唆されて日本を戦争に追い込んだ」という『陰謀論』がはまりこんだのだろう。
ましてや、アメリカにおけるソ連の蠢動は紛れもない現実だった。
そして、ソ連という共産主義国家にいち早く国家としての承認を与え、スパイ活動の拠点ともなる大使館を呼び込んだのもこの目の前にいるルーズベルトという男だった。
「もし、この『スクープ報道』が日本の情報工作によるものなら、それは周到に計画されたものでしょうね。今回の彼らはアメリカがけして一枚岩ではなく、様々な利権や思想で動いていることを理解しているものと思えます」
リーヒの言葉に、ルーズベルトの目は何ごとかを考え込む目つきになる。
流石に大統領の前で言葉に出しては言えなかったが、リーヒの分析ではアメリカの対日政策にはおおまかに二つの派に分かれている。合衆国の対アジア政策には強い日本が存在することがアメリカの国益にかなうと考える『ストロング・ジャパン派』と、日本を徹底的に叩きのめして弱くするとともにで中華民国や中国共産党を援助することを唱える『ウィーク・ジャパン派』だった。
前者は共和党候補のハミルトン・フィッシュらのような共和党政治家や保守派に多く、後者は民主党やリベラル派に多い。
対日戦争においてもルーズベルトの無条件降伏にこだわる姿勢と、フィッシュ候補の対日早期講和という姿勢の違いに現れている。
この情報工作のねらいは、まさに『ストロング・ジャパン派』を勢いづけることにつながるだろう。
これまでの日本とは違う、危険な動きだった。
「選挙には必ず勝つ。ホワイトハウスは明け渡さん。そして、アメリカは必ずこの戦争の後に覇権国家となる。これは
いつもの口癖を自分に言い聞かせるように言うと、ルーズベルトは落ちくぼんだ目を暗く輝かせる。
「私は軍人ですから」
さりげなく一線を引いて見せたリーヒのことなど、既に大統領の頭からは消し飛んでいた。
「このプロメテウス作戦は必ず成功する。合衆国大統領の仕事は畢竟、戦争に勝つことだ。他の事など、些末なことに過ぎん」
幽鬼のような表情で国民には見せられない悪魔のような顔で笑った。
リーヒは長い軍人生活の中でもほとんど感じたことのない種類の恐怖を感じていた。
- 我々はとんでもない人物を大統領に戴いているのかもしれない。
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