第93話 ラジオ討論会
1944年7月20日 オハイオ州 セバランスホール
共和党の予備選挙は最終盤までもつれにもつれた。事前の下馬評では圧倒的有利とされていたトーマス・デューイが、最初は地区選挙すら突破することが難しいとされていたハミルトン・フィッシュの猛追を受けたのである。
決選投票で共和党予備選挙を勝ち抜いたのは、対日戦争早期集結を唱えたフィッシュ候補であった。
フィッシュ候補の予備選挙当選は全米各地で驚きをもって報じられた。40代の若くエネルギッシュな候補として人々の目に写るトマスと比べても、フィッシュの恵まれた容姿はひけを取らなかった。
しかし、
しかし、『イオウジマ海戦』の敗北が公然の秘密になっていることや、この一年間実質的に日本軍との戦争が散発的な戦闘を除いて事実上の休戦状態である『奇妙な平和』の影響が、思わぬ世論の厭戦気分を復活させていた。
もちろん「
「戦死者の遺族には悪いが、手ごわい日本軍と戦うことで生まれる膨大な犠牲と引き換えにしてまで得られるものは何かあるのか」というのが、戦争から縁遠い合衆国市民の偽らざる心境であった。
その影響がどこまであったかは判然としないが、決選投票でフィッシュが共和党の予備選挙を僅差で勝ち抜いたことで、誰もがそのような世論の存在を意識せざるを得なくなっていた。
共和党候補となったフィッシュは精力的に全米各地を移動しながら支持を訴えつつ、現職大統領にむけて「ラジオ討論会」の開催を呼びかけた。
その討論会が行われることになったのは、
合衆国の元首を選ぶ直接選挙、大統領選では民主党と共和党の両候補が自らの基盤である州の支持層を固めつつ、このオハイオ州のように両党の支持者が拮抗している州を押さえることが重要とされる。
ちなみに西海岸や北東部などの民主党の伝統的基盤州を「
この討論会は共和党側が呼びかけて実現したものではあるが、新聞各社は老獪な演説で知られる現職のルーズベルト大統領が有利であると書きたてていた。
実際、ルーズベルト大統領は『
この討論会はオハイオ州内のラジオ局で生中継され、他の州でも
ラジオ局のスタッフは最新式の中継、録音機材を入念にチェックし、放送に備えていた。すべての準備が整ったのは放送開始予定時刻より十分遅れで、しびれをきらした聴衆が隣のものと話す声のトーンがだいぶ大きくなってきたところで、司会者がようやく討論会の開始を告げた。
討論会の最初の方は、民主党候補で現職大統領という強みを生かし、ルーズベルトがよどみのない口調で経済政策を語り、聴衆の支持を集めた。フィッシュも新しい経済政策をいくつか提示したが、前の共和党政権でフーヴァー大統領が経済政策を失敗した記憶が新しい聴衆の支持を得られたとは言い難かった。
「大統領閣下、あなたはこの戦争で合衆国は何を得るかお示しいただきたい」
「ハミルトン君、それは愚かな質問だ。日本という邪悪なファシズム国家を打倒し、アジアの安定を取り戻すことこそ、合衆国の国益である」
「しかし、彼らは既に中立国を通じて講和交渉を何度も催促しているという新聞報道もある。これは事実ですか、閣下?」
「高度に政治的な問題につき、お答えできかねる」
「それではある新聞社が入手した日本側の講和交渉に関する文書をご覧いただきたい。この文書によれば、日本側は戦争で生じた合衆国の損害への謝罪と賠償、戦争で占領した地域からの撤退の用意があるという。今こそ、日本との講和交渉に応じるべきだ」
「それが本物である証拠はあるまい。謀略文書である可能性もある。日本をこのままにしておくことは将来に禍根を残すことになる。それに日本の無条件降伏は国際会議で宣言したいわば国際公約である」
「それでは対日戦争をどこまで続けられるおつもりか。昨年の作戦で我が海軍は膨大な犠牲を払ったという報道もあるが」
「詳しくは機密にてお答えできないが、日本軍へ壊滅的打撃を与えて降伏に追い込むことは十分に可能である。我が軍の将兵と私はそう確信している」
自信たっぷりに言い切るルーズベルト大統領の顔に、フィッシュは内心たじろぐような圧迫感を感じた。
ルーズベルトの顔には、本物の政治家だけがもつ覚悟と凄みがあった。
「…よしんばそれが事実だとしましょう。しかし、我が軍の犠牲はゼロとはいかない。外交交渉で我が国の若者が戦場で命を落とさないで済む道を探すべきだ」
「よろしいハミルトン君。この議論はどこまで行っても平行線のようだ。次の議論に映ってよいだろうか?」
余裕たっぷりの態度でルーズベルト大統領は司会者に次の討論テーマへの移行を促す。
司会者は緊張で汗だくになった額を拭うと、手元の紙資料を慌ててめくる。
「それではここからは両党候補者それぞれが自由に討論するテーマを提出して議論していただきます。まずは共和党のハミルトン・フィッシュ候補からお願いします」
「それでは私はここで驚くべき発表を行いたい。本日付けのニューヨーク・ヘラルド紙をお持ちの方はおられるだろうか」
そう言われて、聴衆の誰もが戸惑った顔で周囲を見渡す。
広大な合衆国全土に販売網を持つ新聞社などこの時代のアメリカには存在しておらず、とてもメジャーとはいえないタブロイド紙まがいのマイナー新聞を持っているほうがおかしいからだ。
遠く離れたこのオハイオ州でこの時間に、ニューヨークの朝刊を持っているものなどそうはいない。
「よろしい。それでは内容をかいつまんで説明させていただこう。おそらく、明日の新聞ではこのオハイオの新聞にも載るだろうから、それで確認してもらいたい」
そんな出だしではじまったフィッシュ候補の提示した討論テーマは、集まっていた聴衆を驚愕させ、そしてルーズベルト大統領の顔面を蒼白にさせるには十分な内容だった。この時点でこの選挙戦中の一コマにしか過ぎないこの討論会が、合衆国の、ひいては世界の運命すら左右するものであったことに、この時点で気づいているものは一人もいなかった。
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