第92話 アラモゴード爆撃試験場
1944年7月16日午前四時 アラモゴード爆撃試験場
実験は、気象予報を受けて2日ほど順延していたが天候の好転を受けて今日8日に実施されることが決まった。
-この日は人類史にずっと刻み込まれる日になるだろう。
計画の責任者であるロバート・オッペンハイマーは、そう確信していた。
彼の中で計画を進める原動力となっていた、「ナチス・ドイツより先に新型爆弾を開発する」という希望はどうやら叶えられそうだった。
ソ連軍はスターリングラードの戦いを境に、対独攻勢を開始していた。
少なくともオッペンハイマーが知らされているわずかな情報によれば、ドイツの新型爆弾開発計画は頓挫しかけているのだという。
しかし、合衆国の新型爆弾の開発計画は潤沢な予算が投入され、ますます進展していった。
これまで開発者の念頭にあったドイツより先に新型爆弾を開発、配備するという開発計画の意義は薄れていた。
今や、この計画が日本を屈服させるためであることは、もはや誰の目にも明らかになりつつあった。
そして迎えたのが今日この日だった。
去年ホワイトハウスから直々に開発を急ぐように厳命された時は憤慨したものだが、ようやくここまで来た。
感慨深げに彼は20メートルもの高さの鉄塔の先端部分に取り付けられた『ガジェット』を見上げた。
最初予定していたサイズよりはるかに大型化した『ガジェット』は、とても航空機に搭載が可能なサイズには見えなかった。
開発計画を急ぐために、小型化の努力は開発の初期段階で断念されていた。
二か月前に行われたTNT火薬による予備爆発実験では問題なかった各種のデータ計測装置も、改めて入念にチェックされ、万全の体制を整えている。
彼がジョン・ダンの詩の一篇から「トリニティ」と名付けた実験は今やそのスタートを待つばかりであった。
「例の賭けは、どう賭けたんです所長」
よれよれの白衣に身を包んだユダヤ人科学者、エドワード・テラーにそう聞かれて、オッペンハイマーは複雑な表情を浮かべる。
「あの不謹慎な賭けか。科学者たるもの、計算をもって予想するべきだよ。大気が発火して地球全体が焼き尽くされるなどありえない。強いて言えば、一番正解に近いのはラービのTNT換算で18キロトンという予想だろう。」
「賭け事というのは多少は不謹慎でないと成立しませんからね。これだけ大変な研究開発なら、多少の遊びくらいは大目に見ることも必要かと」
オッペンハイマーはテラーの言葉に、同意も否定もせずに顔を反らす。
やっていることに賛同はできないが、そうした遊戯でもしていなければ正気が保てないという心理はわかる気がしたからだ。
ラービが計算した18キロトンという強烈な爆発、熱風、放射線、そして周囲を汚染する放射性降下物がどのような破滅的効果をもたらすかは、オッペンハイマーも理解していた。
この新型爆弾が都市の上空で炸裂したとしたら、都市そのものが消滅するだろう。
戦争を終わらせるため、兵士の命を救うため、などともっともらしい言葉が政府発表の文書には踊るだろう。
しかし、つまるところ人類史上類を見ない虐殺を行う兵器であることは疑いない。
使用されるのがドイツか日本かはわからないが、必ず最低でも一発は使われるだろう。
結局のところ、まだ理論上のものでしかない新型兵器の威力は、都市と人の命という生贄をもって目に見える効果が示さなければ、絵に描いた餅でしかないからだ。
一番いいのはこの兵器が実戦投入されるまでに戦争が終わることだ。
だが、それは難しいだろうな、とオッペンハイマーの知性は冷徹な推測をはじき出していた。
ドイツはソ連相手に防戦一方だという。合衆国は艦隊の再建に全力を傾けており、近いうちに日本軍への反攻を始めるだろう。
日本軍が侵攻してくる気配はないというのが新聞報道の大勢だが、アメリカ軍が出てくれば当然反撃するに違いない。
「起爆準備、完了したそうだ」
そう言ってきたのは、いつの間にかそばにいたフォン・ノイマンだった。
少なくとも顔の表面には何の感情も浮かんでおらず、あくまで通常の科学実験を行うとでもいうような顔をしている。
「わかった。計測装置が正確に動作するか点検は済んでいるだろうな?」
「問題はない、そう報告を受けている」
「悪いが、再点検だ。今回の実験は失敗することは許されない」
「わかった。慎重を期すべきだろうな」
ノイマンは頷くと、その場を後にする。
それから計測装置の再点検まで、さほどの時間を必要としなかった。
作業にあたっている誰もが、張り詰めるような緊張感をもって動いていたからかもしれない。
最終点検が終了すると、実験要員の全員が16キロ南西方向に離れたベースキャンプへと退避していた。
ほかにも、倍の距離ほど離れてこの実験を視察している人間もいるという話だった。
そこには何人かの軍人もこの実験の視察に訪れており、遮光ガラスのはまった眼鏡を既に装着している者さえいた。
野戦用の折り畳み椅子に腰をかけながら、明るい表情で談笑している者もいる軍人たちとは対照的に、作業している研究員たちは顔が強張っている者もいる。
「気象状況が安定しました。実験に支障はありません」
「わかった。5時30分に起爆する。20分前にになったら、秒読みを開始してくれ。視神経を損傷する可能性があるので、全員遮光眼鏡を装着してくれ」
スイス製の腕時計を見ながら、オッペンハイマーは大きな声で宣言する。
その言葉とともに、軍人たちの顔にも真剣な表情が宿る。
「秒読みを開始します。20分前…」
それぞれ配布された遮光眼鏡を装着して、その時を待つ。
その場の誰もが唾を飲み込むことすら憚られるような緊張がその場に満ちた。
20分という時間は永遠にも近い長さに感じられた。
しかし、時間は着実に進みついに一分を切る。
オッペンハイマーは自分でも気づかないうちに大量の汗をかいており、背中を汗が伝う感覚が煩わしかった。
「5、4、3、2、1、イグニッション!」
遠隔起爆のスイッチが押されると電気信号が敷設されたケーブルを伝わり、爆弾内部の外側に並んだ火薬を爆発させて綿密に計算された衝撃波をプルトニウムに与える。
プルトニウムを一瞬で均等に圧縮させて高密度にすることで得られた莫大なエネルギーは、核分裂反応を超臨界へと至らせる。
衝撃の調整や爆縮レンズと呼ばれる部品の製造には悪魔的天才数学者、フォン・ノイマンの10か月にわたる緻密な計算によって可能となった。
核分裂反応によってもたらされた爆発と閃光は、遮光ガラス越しに見ている者たちにも、恐怖や歓喜といった感情をもたらした。
爆発が発生したのはアメリカ山岳部戦時標準時で5時29分45秒、とオッペンハイマーは白衣の胸ポケットから取り出したメモ帳に記録した。
最初紫に見えた光は緑へと変わり、最後には白一色へと変わった。
爆発からおよそ40秒後に衝撃波がベースキャンプを襲い、テントや折り畳み机を揺さぶる。
発生した核分裂反応によってもたらされたエネルギーはおよそ19キロトン、87・5テラジュールに及ぶ膨大なものだと後に判明する。
その場の誰もが圧倒的な光景に釘付けになり、微動だにできなかった。
オッペンハイマーの胸中には、ヒンドゥー教の詩『ヴァガバッド・ギータ』の一節が浮かんだ。
-『我は死なり。世界を破壊するもの』
「これで俺たちはみんなクソったれだ」
そう言って苦り切った表情をして吐き捨てるようにつぶやいたのは、黙々と作業を行っていたケネス・ベインブリッジだった。
これまで冷静に実験作業をこなしていたケネスの言葉に、オッペンハイマーは驚きと同時に納得もしていた。
-なるほど、彼はどうやらまともだったらしい。
この実験に臨んでそういう人間性を保つことのできる彼をうらやましくさえ思った。
-だとしたら、自分はどうだろうか。おそらくは狂っているのかもしれない。あるいは狂っているのはこの世界の方なのか。
「うまく行った」
オッペンハイマーはそれだけを言うとテレメトリーのデータ計測結果を確認しに行く。
「狂ってやがる」
オーブンのような熱さを感じながら、ケネスはかすかな声でつぶやいた。
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