第90話 デリー解放

1943年11月25日 インド首都 デリー

 

 インド国民軍によるデリー入城は、一発の銃弾も放たれることなく実現した。

 先の戦闘で多大な損害を負っていた英国軍は首都での市街戦での損耗を恐れて首都デリーを放棄して撤退し、首都に残されたわずかな英印軍インド人将兵は戦うことなく国民軍に投降していた。

 その象徴として真っ先に行われたのはムガル帝国時代の赤いレッドフォートと呼ばれる城塞群のラホール門と呼ばれる西側の正門に掲げられていた英国旗ユニオンジャックがひきずり降ろされ、かわりにインド国民軍の旗が掲揚される。

「英国旗は傷一つつけるな。丁重に保管して、いずれ英国へ返還する。戦争をしている相手の国旗ではあるが、我がインドが文明国たることを見せてやらねばならん」

 ボースは毅然とした態度で兵士に命ずると、下ろされた巨大な英国旗は兵士たちによって丁寧に折り畳まれる。兵士たちにはその命令に文句を言う者はいなかった。

「やっとここまで来ましたね、ネタジ」

 ボースに尊称で話しかけたのは、これまで苦楽を共にしてきた少佐だった。これまでの戦いで左手の第一関節から先を喪っているが、頼もしい部下の一人だった。

「だが、問題はここからだ。首都への入城こそ成し遂げたが、イスラマバードを拠点とした英印軍は健在だ」

 ボースは銃を掲げながら首都を示威行進する国民軍の兵たちを見守りながら、厳しい表情を崩さない。

 それとは対照的に兵士たちの顔は満面の笑みが溢れている。英国軍が放棄した首都を制圧したことで、

「今ここに日本軍はいないが、彼らの航空支援と制海権の確保がなければここまでの進撃は不可能だった。それは認めねばならない。これから、日本がこれまでのように友好的に接してくれるかどうかはわからない。英国にとってかわり、支配者としてふるまうかもしれない」

「考えすぎと思いたいですな。支配を行うなら、入城の手柄を我々に渡すことはしないでしょう」

「確かに首都入場の写真に日本の旗が翻っていれば、日本の存在感を意識させるには十分なはず。形だけの兵力も送ってこないというのは、その余裕がないか、あるいは馬鹿なのかどちらかだろうな」

 ボースはこの場にはいない日本人のことを考えながら腕組みする。

 新生インドはまだ歩き始めたばかりの赤子のようなものだ。

 国民議会の設置に憲法の制定、行政組織の整備とやらねばならないことが多過ぎる。

 当面は経済面でも軍事面でも、日本の援助がなければ立ち行かないだろう。彼らの唱える国際連盟に変わる国際機関の準備組織という触れ込みの環太平洋条約機構とやらに参加し、取るものは取りつつ自立の機会をうかがうしかない。

「忙しくなるぞ。当面は英国軍の残存勢力を国内から追い出し、国内の反国民軍派を懐柔することが課題になるだろう。だが、今日だけは浮かれ騒ごう」

 ボースは自身は休むつもりなど毛頭ないといった表情のまま、こちらに手を振る笑顔の兵士達に手を掲げて応じた。

 

 同日同時刻 ロンドン地下防空壕内首相執務室

 

「チャーチル卿、デリーが…デリーが陥落しました」

 空軍からの連絡将校が告げた凶報は、仮眠から起きたばかりの英国首相チャーチルを驚愕させるには十分だった。「なんだと?」

 地下防空壕内の臨時首相執務室の安っぽいスチール製の机の上に、火を点けたばかりの葉巻が転がる。

 無造作に広げられていた書類の山に火がつきそうになったのを、チャーチルは呆然とした表情のまま握りしめた拳で叩き消す。

「馬鹿なことを言うな。インドにどれだけの戦力を張り付けていたと思っている。ゲリラに毛の生えたような『国民軍』とやらに、我が軍が破れたというのか」

「問題は日本軍です。日本軍の爆撃によって補給物資のほとんどが吹き飛ばされました。偽装もほとんど役にたたず、物資の集積地だけを精密に攻撃されて前線では食料や弾薬が不足し、戦う前に撤退を強いられた部隊もあったとか」

「我が軍の防空戦闘機は何をしていた。昼寝でもしていたか」

「残念ながら迎撃に上がった戦闘機のほとんどが撃墜されました。残念ながら我が軍の戦闘機より、日本軍の戦闘機のほうが優秀ですそのうえ国内でも国民軍に協力するものが後を絶たず…制海権の確保は先日報告したとおり、絶望的です。海軍はマダガスカルに残った艦艇の引き上げを検討中とか」

「わかった、わかった…それで、首都の奪回は可能なのか」

 チャーチルは今にも喚きちらしたくなる衝動を押さえながら、連絡将校の蒼白な顔を睨み付ける。

 政敵を震え上がらせてきた老獪な政治家の眼光に射すくめられ、連絡将校は震えを隠そうとするかのように直立不動の姿勢を取る。

「私には即断しかねます、閣下。詳細はこのあとの会議で、情報将校にお尋ねください。ただ、雑駁な私見を述べることが許されるのならば…」

「言いたまえ。参考意見として聞いておきたい」

 チャーチルはわずかに震えている手でシガレットケースから葉巻を取り出すと、専用の鋏で口を切る。

 マッチで火を点け終わるのを待って、連絡将校は口を開いた。

「厳しいかと。現地の諸勢力を糾合して増強されつつある『ゲリラども』の方が、地の利と数では勝ります。そのうえ、日本軍の航空戦力がセイロン島を中心に沿岸地帯に展開していることを考えると…現在残存の陸軍兵力がイスラマバードで再編成中で、航空部隊も増援が向かいつつはあるようですが。とても十分とは…」

「分かった。貴重な意見として聞いておこう。持ち場に戻りたまえ。それから、秘書に伝えてほしい。しばらく、一人にさせてほしいとな」

「了解しました。伝えておきます。それでは失礼いたします」

 連絡将校は定規でも添えているように正確な角度の敬礼を返すと、部屋を出て行く。

 分厚い耐爆扉が閉まるのを見届けると、チャーチルは机にたてかけてあったステッキを取る。

「ふざけるな!英国がどれだけインドがもたらす経済的利益に依存していると思っている!」

 ステッキを振り回すと、ガラス製の水差しが粉々に砕け散る。

「日本陸軍が相手ならともかく、独立派のゲリラに負けただと?どいつもこいつも無能な無駄飯食らいどもが!」

 今度は葉巻の入ったシガレットケースが標的になり、金属製の箱がひしゃげたかと思うと中身の葉巻が躍り出る。

「何のためにアメリカを参戦させたと思っている!奴らを太平洋に釘付けにしておくためだ。それすらできないのか、ヤンキーどもは」

 酷使したステッキは床に叩きつけたと同時に、真ん中からへし折れる。

「クソっ、これで私の政治生命も終わりだ。インドを失っては、いくら戦時といえど…」

 チャーチルはその場にへたり込みながら、あの真珠湾奇襲攻撃の一報を聞いたときのことを思い出していた。 

 アメリカという頼もしい同盟国ウォードッグを戦争へ引きずり出すことに成功したことで、英国の勝利はゆるぎないと思っていた。そして、それからわずか三日後のマレー沖海戦で、東洋艦隊の象徴のような戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズを喪失した。

 その時はショックで呆然としたものだが、今度はショックを通り越して乾いた笑いがこみ上げてくる始末だった。 今度はイギリスのアキレス腱とも言えるインドを喪失しようとしている。議会での追及は免れないだろうし、このまま政権を維持出来る可能性は恐ろしく低かった。

「どうしてこんなことになったのだ?」

 チャーチルは床に散らばった葉巻を拾うと、思わず握りつぶしていた。

 もはやそこにいるのは大英帝国の宰相ではなく、一人の偏屈な老人がいるだけだった。

 

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