第89話 ハミルトン・フィッシュ3世

1943年11月15日  ニューヨーク オリエンタルホテル・マンハッタン


「それでは皆様に御挨拶いただきましょう。我が共和党の大統領候補予備選挙に立候補されましたニューヨーク26区選出下院議員、ハミルトン・フィッシュ3世です!」

盛大な拍手と報道陣のフラッシュに囲まれて壇上に上がったのは、ややいかついものの整った顔立ちで、地味なデザインではあるが仕立てのよさそうな燕尾服に身を包んだ男だった。ニューヨーク州の政治家一族に生まれ、自身もそれを意識して育った男であり、不干渉主義者、あるいは反共主義者として知られる彼は、また英国に最も嫌われたアメリカの政治家といっても良いかもしれない。

 あるいは無名戦士の墓として知られる、アーリントン国立墓地を創始した男としての方が有名かもしれない。 親ソ連派であり、ヨーロッパやアジアへ介入するべきだとするルーズベルト大統領F・D・Rの好敵手として、独特の存在感を持つ男だった。

 年齢的には50代に入っているのだが、実年齢よりも10歳は若く見えるほど覇気に満ちている風貌だった。「諸君、今アメリカはドイツがヨーロッパで戦争を始めた当初のように『奇妙な平和』を享受している。ヨーロッパではヒトラードイツはスターリンとの戦いに忙殺され、太平洋では日本軍が一切の侵攻を停止したことで、兵士たちは南洋のバカンスを楽しんでいるという」

 フィッシュは言葉を切ると、ゆっくりと聴衆を見渡す。自信にあふれている印象を与えるべく計算された動きだった。

 聴衆は主にこのニューヨークに住んでいるアッパーミドルクラス以上の、根っからの共和党支持者ばかりだった。この共和党支援者向けのパーティで、今日初めて来年行われる大統領候補の予備選挙の立候補することを表明したフィッシュは、ここで強く現職大統領としての強力な名声を背景に選挙戦を有利に進めてくるであろうルーズベルトに対抗しうる人物であることをアピールしなければならなかった。

「連邦政府は依然として公式には認めてはいないが、昨年のイオウジマでの戦いで我が合衆国軍は無残な敗北を演じたことは公然の秘密であることは疑いない。敗北自体を責めるつもりはない。合衆国軍人が勝利に向けた努力を怠るとは思えないからだ。しかし、それから一年近くが過ぎたあとも、我が軍は反攻作戦を実施している様子はない。受けた損害が膨大過ぎるものだったからだろう」

 再び言葉を切ると、フィッシュはゆっくりと呼吸をしながら意味ありげに片手をあげる。

「ここでもう一つ、公然の秘密を言おう。日本は我々に対して講和交渉を一貫して継続している。ただ、今の政権はあくまで無条件降伏にこだわり、日本側と交渉のテーブルにつこうともしていない。

 私は皆さんに問いたい。我々がこの戦争で得られるものは何だろうか。確かに真珠湾への奇襲攻撃による被害、そしてイオウジマの海戦での損害は大きい。日本側はきっちりと賠償をさせるべきだ。

 だが、それは…」

 言葉を切るとフィッシュは聴衆の顔の一人一人を確認するかのように周りを見渡す。 

「このままイオウジマのような膨大な犠牲を払いながらトーキョーのインペリアルパレスに星条旗を立てるまで、続けるべき正義の戦争なのだろうか?この『奇妙な平和』こそ、講和条件の交渉をするべき時であると、私は確信する。テーブルを蹴って立つのは、条件交渉をしてからでも遅くはない。

 このパーティの中には、親族や友人を喪った人もいるだろう。復讐を叫ぶのは簡単だ。しかし、ながら『汝の敵を愛せよ』という言葉もある。赦しがなければ、凄惨な戦争を終わらせることはできない。諸君、今こそ戦争屋を政権から引きずりおろす時だ」

 盛大な拍手に見送られながら壇上を降りるフィッシュに、惜しみない拍手が送られた。


「いい演説だった」

演説会のあとの立食形式のパーティで支援者に囲まれての歓談が一段落ついたところで、壁際に設けられた椅子で休んでいるところへ話しかけてきたのはフーヴァー前大統領だった。

ワイングラスを片手に持ってはいるが、顔にアルコールの影響は微塵も見られなかった。

「有り難うございます。大統領経験者にそう言っていただけると、自身になりますよ。」

「君に期待している人は多い。この戦争を早く終わらせるためにも、君が勝ってくれなければ困る」

「全力を尽くします…ですが」

「現職の大統領に挑むのはしんどいかね」

「それはそうでしょう。ですが、それより問題は世論です。この場にいる支援者は愛国者であると同時に、戦争に嫌気がさしている人間が多い。しかし…」

「他の州ではリメンバーイオウジマと叫べば、頭が真っ白になる人間は多い。そして、愛する人や家族を失った人間は、容易に復讐を誓う。選挙では理屈よりも感情で票が動くものだ」

「そうでしょうね。ですが、なんとしてもこの選挙で勝たなければ。フーヴァー閣下、私はあなたに感謝している。もし、あの恥ずべき最後通牒のことを教えていただかなければ、私は他の候補と同じように日本の打倒を叫んでいたことでしょう」

「私はあくまで未確認の情報を提供したに過ぎん。それも出処の怪しい情報を、な」

 あの日にもたらされた『未来からの訪問者』を自称する日本のスパイに出会ってから、フーヴァーは様々な伝手を使って、情報の裏を取っていた。現職の大統領ではなく共和党の要職からも退いているフーヴァーにとってそれは容易なことではなかった。

 そうして得た情報をもとに、フーヴァーはこの戦争を終わらせることのできる大統領候補を立てることを決断した。経済政策の失敗によって大恐慌を乗り切れず汚点を残した自分ではなく、不利な状況を恐れることのない候補を探して動いた。

 その中でようやくたどり着いたのが、このハミルトン・フィッシュ三世という男だった。

「確かにそれはそのとおりでしょう。だが、あの情報が真実だとすればあらゆる『おかしなこと』の辻褄が合うことも確かです。どちらにせよ、合衆国にとっての国益はイオウジマの悲劇が再び繰り返されることを避けることにある。これだけは疑いようがありません」

「その通りだ。だが、あまりにその被害の大きさを認識していないものが多すぎる。新聞もラジオも、勇ましい戦果を発表するばかりだ」

「あいにく、我がステイツは広すぎる。政府の発表を鵜呑みにしている者も多いでしょう」

「親族が戦地にいるのでもなければ、戦争の行方よりもレッドソックスの成績の方が気になる人間の方が多数派だろうさ。だからこそ、我々はこの選挙で問わなければならん。何がこのステイツの利益なのかを。戦争というゲームにはるチップとしては、人命はいささか高価すぎるのではないかとね。レートが高すぎればなおのこと、ゲームを降りる選択肢を提示せねばならん」

「軍需産業や新聞はいい顔をせんでしょうな。我々の敵は民主党ばかりでは無さそうです」

「まずは共和党の候補を下さねばな。当面の敵は史実通りならば大統領候補になる、トーマス・デューイだ。我々の力はあまりに小さいが、合衆国の未来を拓くためには今起つしかない。何もかもが手遅れになる前に」

「苦しい戦いになりますね」

「ああ。来年の本選挙まで、休みなく走り続ける戦いだ」

 フーヴァーはワイングラスを高く掲げる。

 フィッシュは自分のグラスをそれに軽く打ち付けると、残っていたワインを一気に飲みほした。

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