第88話 スバス・チャンドラ・ボース

  1943年9月8日 シンガポール要塞跡地


 英国統治時代にはシンガポール要塞として機能していた陣地の一角に、九七式戦車の空冷V型12気筒エンジンが轟音が響いていた。


 10両の九七式戦車は一列縦隊から横列へと隊形を変えると、整列していた歩兵の前で静止した。


 戦車の隊列はお世辞にも揃ったものとは言えなかったが、それでも操縦訓練の成果が出ているものとも言えた。


 九七式戦車は主砲を対戦車戦闘能力向上のための一式四十七ミリ戦車砲に交換した「新砲塔チハ」と、旧式の九七式五センチ七戦車砲を搭載した旧型が混在している。


 停止した戦車のうち、砲塔の一部が赤く塗装されている戦車のハッチが開き、丸眼鏡の奥の瞳から鋭い眼光を放つ男が立ち上がり、高く右手をあげる。戦車の砲塔の上に直立してみせた男の姿に、それまで静かに整列していた兵士たちは口々に「ネタジ万歳!」「インド独立万歳!」と様々な言語で讃える。


「諸君、私に英語で演説することを許して欲しい。我が祖国、インドは多くの言語と多様な民族を擁する国家である。それ故に、英国による分割統治を許してきた。今こそ団結すべき時だ」


「そうだ、今こそ祖国解放の旗のもとへ集え!」


 兵士たちは思い思いに叫び、興奮した面持ちで拳を突き上げる。


 インド国民軍の兵士たちは、そのほとんどがインド独立闘争に参加して投獄されたり、国外へ亡命することになった経験の持ち主だった。


 僅かな数のイギリス人が経済的利益を吸い上げ、その残り滓で苦しい生活を強いられるインド民衆の姿を見てきた人間ばかりだった。


 イギリスのインド支配の過酷さを物語るのは綿製品だろう。


 元々インドは綿花の生産地であり、そこから作られる綿製品は重要な産業であった。しかし、イギリスはインドから安価に綿花を買い上げ、機械織機で作られた安い綿織物をインドへ流入させた。


 インドの綿織職人たちは職を奪われ、インドはイギリスによる経済支配下に置かれる事となった。なお、非暴力抵抗運動を率いたマハトマガンジーも、英国支配への抵抗の象徴として糸車を用いている。


 そんな過酷な支配に耐えかねて、対英抵抗運動に身を投ずる者も多かった。その一方がガンジー率いる非暴力抵抗運動であり、非暴力では独立の実現は難しいとするボース率いる武力抵抗運動を行うインド国民軍であった。


 国家社会主義のナチスドイツや共産主義のソ連、そして日本に取り入ってでも強かに独立を達成しようというのがボースのやり方であった。 


 そのボースの元へ集まる人々は、民族も宗教も様々だった。ターバンを巻いたシーク教徒もいれば、ヒンズー教徒もいる。話す言語も種々雑多ではあるが、ボースという人物へ向ける熱い視線は同じだった。

 

「我が祖国、インドが英国の植民地になってから我々は塗炭の苦しみを味わってきた。経済的に搾取され、鞭うたれ、文化を貶められてきた。その長い屈従と忍耐は今この瞬間をもって終わる。


 今我がインド国民軍は日本軍の協力を得て、歩兵銃や迫撃砲だけでなく、戦車や戦闘機まで保有するに至った。英国軍と正面戦闘が可能な陣容がようやく整ったのだ。


 今や我々は英国軍に追い回されるだけの非力なゲリラではない。英国軍と正面戦闘を戦いうる国軍となった。だが、これから向かう戦場で待ち構えているのは英国人将兵だけではない。英国人に指揮される『インド軍』将兵とも戦わねばならない。


 同じインド人同士が相撃つ姿を見るのは、愛国者として忍びない。しかし。英国支配の頸木を断ち切るために、敢えてその禁を犯そう。ただし、不必要な殺戮も略奪も厳禁する。彼らは敵ではなく、将来の国民でもあるのだから」


 そう言ってボースは柔らかな視線で周りを見渡すと、芝居がかった手つきで拳を振りあげる。


「インド万歳、進めデリーへ!」


 兵士たちは拳や小銃を天に突き上げ、口々に快哉を叫んだ。


 その光景を衛星回線で同時刻に目の当たりにしていたのは桐生内閣の面々だった。

 大型液晶モニターに映し出される映像を見ながら、安全保障会議のメンバーは一言も発することが出来ずにいた。


「ある意味、この戦争において日本が立たされた、最大の苦境とも言えるかもしれませんな」


 いつもどおりのうらなり顔の羽生田外務大臣は、空調の利いた室内であるにもかかわらず暑そうに使い古された扇子で顔を扇ぐ。


「無理もありませんな。まさか、チャンドラ・ボースがかつての史実どおりシンガポールへ姿を表そうとは考えもしませんでした」


 能面のように変化の感じられない顔でそう応じたのは猪口戦略偵察局長である。

 本当に想定外だと思っているのかは、その顔からは読み取ることが出来ない。 


「ドイツとの同盟を破棄した時点で、ボースのシンガポール到着の可能性は消えたと判断していました。ドイツ側が対英国外交のカードとして手元に置こうとするでしょうから」


 羽生田の淡々とした言葉は、その場にいる者の多くの内心と一致していた。


「彼を載せたドイツ潜水艦が本国を出発したのは、同盟破棄の直前だった。以降は無線封鎖のために状況把握が出来なかったということだ」


 室井孝蔵官房長官の言葉に、誰ともなくため息が漏れる。


「彼らが装備している戦車などの兵器は、現地の旧陸軍を中心とした部隊の『置き土産』だそうです。現地からの帰還を命じられた部隊が重装備の一部を現地の倉庫に鍵もかけずに『放置』してきたそうで。我々『平成日本』への反発も大きいのでしょうが」


 峯山防衛大臣は肩をすくめながら言う。

 彼の報告によれば満洲のように反乱こそ起きてはいないが、現地の旧軍将兵と国防軍部隊との軋轢は少なからず発生しているという。特にボースたちインド国民軍を旧シンガポール要塞に仮設された宿舎に半ば軟禁状態においていることに対しては、不満が大きい。


「かつて終戦時に同じようなことがあったそうだが…インド国民軍に同調する将兵が多かったということか」


 室井長官は動画を見ながら、ボールペンで資料にメモを取りつつ言う。

 かつてインドネシアなどで終戦時に、独立運動を行う現地住民に同情的な日本軍将兵がひそかに装備を提供することが何度かあったという。


 そうして提供された兵器は、オランダやフランスなどの戦後舞い戻ってきた旧宗主国と戦うための武器となった。


「ボースの到着は仕方なかったとして、問題は情報が本土へ漏れたことです。世論は今、インド独立運動を支援すべきだという方向へ傾きつつある」


 手元の新聞社や通信社の行った世論調査の紙資料を見ながら、羽生田は嘆息する。

 外務省や一部政治家の中には英国との単独講和実現に期待するむきがあり、実際に政府も外務省と協調して秘密裏に中立国で対英和平交渉を進めていた。


 ケンブリッジ大学への留学経験者で英国通を自認する羽生田も対英外交に活路を見出すべきだと主張していた。

 しかし、中立論を唱える新聞社やテレビ局に対抗して、各種インターネットメディアではボース支援の動きが大きくなっており、それが世論調査に影響を与えていた


「英国の態度はあくまで強硬姿勢だというじゃないですか。対英講和成立の目算は立っているのですか」


  峯山防衛大臣の咎めるような口調に、羽生田は渋い顔で応じる。


「中立国を経由して交渉を進めていますが、なかなか厳しい状態です。そもそも、英国にとって我々との講和は利が薄い。仮に講和が成ったとしても、日本を信用してアジアから兵力を引き上げられる保証はない。そのうえ、米国との関係悪化はドイツと対決するうえで致命傷になりかねない。ソ連もいい顔をしないでしょうし」


 羽生田は淡々と率直な分析を述べる。

 外務省官僚のイエスマンとしての悪評が高い羽生田だが、自分の評価を気にすることのない無欲さは彼の持つ美徳であった。


「ボースの支援を行うとすれば、英国のさらなる態度硬化は必然です。ボースの政治亡命受け入れ自体は問題ないとは思いますがね」


「とはいっても、これだけの世論を無視するのも政権にとって厳しい。英国がインド支配を諦めれば、対日強硬派のチャーチル内閣は退陣を迫られる。日本にとっては、むしろそこに突破口を見出すべきでは。インドが独立すれば中東への海上通商路も開ける」


 峯山は自信たっぷりな顔でそう言い切る。このまま埒が明かない対英交渉を継続するより、インドを独立させて日本の影響下に置く方が手っ取り早いと言いたげだった。


「どちらにせよ、彼らをこのままにはしておけません。インド方面への移動手段を持っていないとはいえ、暴発でもされれば厄介です」


 猪口局長はそう言いながら、意味ありげに羽生田の顔をうかがう。 

 シンガポール到着後、ホテルに留め置かれていたボースは日本への渡航を希望していたが、その扱いはなかなか決まらなかった。


 状況を一変させたのは、シンガポールに潜入取材を成功させたネットニュース記者であった。貨物船に潜り込んで現地に渡航したその記者は、スマートフォン一つでボースの独占取材に成功したその記者は、インタビュー動画を日本の動画投稿サイトへ独占配信した。インタビュー動画の再生数はのべ100万回を超え、その影響力は凄まじかった。


 カリスマ性と躍動感あふれる動画は、海外情報に飢えていた日本国民を大いに動かした。戦況を抑制的にしか伝えてこなかったマスメディアに飽いていた日本国内は、カリスマ性あふれるボースの躍動感を伝える動画に熱狂した。


「英国の搾取に苦しむインドを助けよ!」という声は、日本国内で日増しに大きくなるばかりだった


「民主主義の怖さだな。強力な政権でこそ軟弱外交が可能であると本で読んだことがあるが、まさにその通りだな」


 桐生首相は手元の端末で総務省から上げられてきた資料を閲覧しながら、顔を曇らせる。最近は閣議やNSCではペーパーレス化が進んでおり、官僚がペーパーを配りに来ることも少ない。


「世論調査ではインド独立を支援する人道的介入を望む声が過半数を超えた。通信社や新聞各社で違いはあるが誤差の範囲だろう」


 室井官房長官はそう言いつつ眉間に皺を寄せながら、目頭を指で押さえる。

 これまで桐生内閣は国民の突如巻き込まれた『他人の戦争』を終わらせるため、講和交渉を続けつつ本土防衛のための戦闘を消極的に容認するという態度を支持してきた。


「まさに恐れるべきは勝利、ということでしょう。硫黄島海戦の勝利が、国民を安堵させ『正義』を求める余裕をもたらしてしまった」


 羽生田は事態を憂慮する顔で、インド国民軍の兵士達の映像を見つめる。


「諸君、今我々は選択を迫られている。ボースを支援してインドを独立させチャーチル内閣を退陣に追い込み、対英交渉を有利に進めるか。それとも英国との講和交渉を重視してボースの支援要請を無視するか」


 国会でも連日インドの窮状が取り上げられ、テレビや新聞も最近はインドに同情的な論調が多くなって来ている。その反面、桐生内閣の独立運動への支援に慎重な姿勢は批判の的となっていた。

 インターネットでも保守系のネットメディアはボース支援を訴えている。

 

「首相、インド国民軍を支援してインドを独立させるか。それとも英国との講和交渉を続けるか。決断する必要があります」


 室井長官の提言に、桐生首相は深々とため息をつく。


「わかった。ここが決断の時だろう。この大戦の出口戦略にも大きく影響するインド問題はこれ以上放置できない。インド国民軍を支援する場合のプランを聞かせてくれ、峯山君」

 

 桐生首相はあらためて姿勢を正すと、峯山に説明を促す。

 会議室の隅に控えていた国防軍の制服姿の将校が立ち上がる。


「は。詳細はお手元の端末をご覧ください。統合参謀本部の作戦計画をご説明します…」


 桐生首相は手の指を絡ませながら、将校の説明に聞き入る。

 どちらを選択するにせよ、日本はこれまでのように受け身ではいられなくなる。自ら戦略を立て、望む『戦後』を作りだすために動く必要に迫られる。


 桐生は身震いするような重圧に押しつぶされそうになる感覚を覚えていた。日本人のみならず、台湾や満洲といった国々の国民、その運命を委ねられている重責が、今彼の両肩にのしかかっていた。

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