第87話 テスト艦『アルゴノート』
1943年8月6日 ノーフォーク軍港近海
この大戦において、アメリカ海軍の主力潜水艦はガトー級潜水艦であった。当時の潜水艦としては良好な性能を誇り、数多く建造された潜水艦であった。時震以前の太平洋においては、通商破壊戦-つまり敵国の
日本の
ともあれ、時震が起きて以降の世界ではアメリカ海軍潜水艦は唐突に連絡を絶つケースが右肩あがりで増え続けていた。特に日本本土近海への侵入を試みる潜水艦は、ほぼ例外なく消息を絶った。
いかな勇敢な潜水艦乗りを多く擁するアメリカ海軍といえど、一時期は本気で出撃禁止命令が検討された程であった。
反面、海軍情報部が様々な情報を分析した結果、日本軍の『新型潜水艦』は驚くべき能力を持っていることが明らかとなりつつあった。これまでの伊号潜水艦とは異なり、アメリカ海軍が保有するどのソナーでも探知がほぼ不可能という事実である。
海軍上層部はこの二つの事実を重く見て、新型兵器の開発に乗り出しつつある。
その一方が、このノーフォーク軍港からさほど離れていない海域でテストされている新型潜水艦であった。
そのテストの様子を洋上で見守る役割が、フレッチャー級
戦闘艦橋の真下にあるこの
そのソナールームと名づけられたエリアでは、鉄の臭いとカビ臭さが混じり合ったような匂いが漂い、機械が発する熱で独特の居心地の悪さを誇る。ラドフォードが曳航しているパッシブソナー、つまり水中の音を拾う機械につながるヘッドホンに耳をそばだてている若いソナーマンの顔は真剣そのものだった。
「深度およそ120に感あり。目標の新型潜水艦のエンジン音と思われます」
カーテンを慎重に開けて入ってきた艦長に、ソナーマンは片手をあげて報告する。
「よく見つけたな。基地に戻ったらビールを奢ってやろう。アクティブソナーの
「了解、ピンガーを発信します」
ソナーマンは別のヘッドホンを頭にかけると、
いわゆるトーチライトソナーと呼ばれるシステムだ。一度に一つの目標しか処理できないものの、アメリカ海軍の最新鋭システムであった。
ソナーマンはその反射波をヘッドホンで注意深く聞き取る。ソナーマンが反射波をたしかに捉えたと同時に、ソナーの筐体の回転灯が回り、目標までの距離がパンチングされた記録紙を吐き出す。
艦長は記録紙を確認すると、会心の笑みを浮かべる。
「貴様の耳が正しかったようだ。今度もこちらの勝ちということで良さそうだ」
ソナーマンは艦長の嬉しそうな顔に水を差していいものか、という表情を浮かべる。
「喜んでいいものでしょうか。日本軍の潜水艦は、我々のソナーに探知できないと聞きます」
「だから、新鋭艦まで繰り出している訳だ。なに、優秀なソナーマンの存在を喜ぶのまで上層部も禁じてはいまい」
艦長はことさらに笑顔を強調しつつ、ソナーマンの肩を叩く。
「どのみち、新兵器の開発は一朝一夕で出来る訳じゃない。どうせ、今日で終わりではないんだ。我々はゲームのつもりで気楽に付き合えばいい」
その言葉は、自分だけでなく長時間新型潜水艦のテストとやらにつきあわされている乗組員へ向けて、リラックスを促すものだろう。
ソナーマンは艦長の心遣いに感謝しつつ、まだ見ぬ敵軍の潜水艦の脅威を感じていた。
今探知した味方の潜水艦は、それなりに静粛性を向上させてソナーに見つからないように工夫しているはずだ。 それを上回る、ほとんど探知されない潜水艦というのは一体全体どんな魔法なのだろうか。
正式な艦番号が割り振られていない潜水艦『アルゴノート』は最新鋭のテンチ級潜水艦の一隻として建造されていた艦を改修したテスト艦である。一部の艤装は先送りされているため戦闘には耐えないが、今回のテストには問題がないと見做されていた。
テスト内容は静粛性や水中運動性能、長時間電池航走など厳しい状況を想定した内容だった。
乗組員の誰もがこの異例づくめのテスト艦を不安視していたが、同時にプロの軍人としてこの試験航海を完遂せんとする高い士気を維持していた。
そうした乗組員の一人のソナーマンは、ピンガーを感知した途端慌ててヘッドホンから耳を離す。
「上のソナーマンは、よほど耳が良いと見える。探知された以上、事前の規定通り浮上する。アップトリム15度」
艦長は肩をすくめると、あっさりと浮上を命じる。
「アップトリム15度、浮上します」
戦闘指揮所は安堵とも落胆ともつかない雰囲気に包まれる。
「気を取りなおせ。我々の任務はあくまでデータを取ることだ。試行錯誤は技術開発の常だ」
艦長は伸び放題になっている髭をしごきながら、ごつい顔には似合わぬ柔らかい笑みを浮かべる。
「30分の浮上後はプログラム通り条件を変えて再度潜航。探知テスト2-Cを開始する。浮上の際は、各部署ごとに艦橋に出ての煙草を許す」
艦長の言葉に兵たちの士気が一気に回復した気配が感じられる。
戦闘航海ではほとんど機会のない、新鮮な空気が吸える特権は潜水艦乗りにとって何にも代えがたいものだからだ。
艦長に艦橋へ上る順番が回ってきたのは、それから25分後のことだった。
敬礼する兵どもと入れ替わりにラッタルを上り、艦橋の上へ到達する。
ほんのわずかなスペースに足をかけて立つと、鈍色の雲に覆われた空と青灰色の海が見える。
8月にもかかわらず、今日の天気はなんともはっきりしないものだった。出航前に確認したウェザーリポートによれば少なくとも波が荒れることは無さそうだが、気持ちの良い日差しにはお目にかかれそうにない。
日没まで条件を変えて行われるはずのテストを行うには支障がないはずだが、艦長の気分は晴れなかった。
「艦長、あげられる連中の休憩は終わりました。あとは我々だけであります」
先客の副長が限られたスペースで器用に敬礼しようとするのを片手で止めつつ、艦長はポケットからオイルライターを取り出す。副長が差し出した、矢のマークが書かれた煙草の紙箱から一本煙草を拝借して火を点ける。
オイル塗れの手袋に覆われた左手で手すりを掴みながら、磯臭い潮風にあたる。
敵国の艦船の出没など考えられない海域だからこその贅沢だ。
「どうにも慣れませんな。オイルの香りがしない連中を迎え入れるというのは」
副長の声は潮風にかき消されそうなほど小さいものだったが、艦長は目で同意を返す。
「艦内をうろつくのも邪魔ですが、あれやこれやと質問攻めで困ります」
「この『アルゴノート』はテストベッドだ。我慢するほかないさ。このまま前線で戦えと言われれば上が何を言おうと艦から放り出すが、後方での試験航海ではそうもいかん」
「頭では分かっているのですがね。より優れた潜水艦が出来れば、我々の生存率も上がる。静粛性が上がれば敵の護衛艦に探知される確率も低くなる。そこまでは納得できます」
副長はそこまで言うと、何かを探るような目つきで艦長を見た。
艦長は無言のまま海を見つめている。
「…ですが、どうにも納得がいかんのです。やれ、魚雷の搭載を極限まで削れ、電池を最大限に搭載しろ。一体全体、連中はどんな潜水艦を造るつもりなのですか」
「何から何まで軍機扱いさ。他の連中の前で余計な口を聞くなよ。機密漏洩は厳禁だ」
長く伸びた灰を落としながら、艦長は困ったような笑顔を浮かべる。
艦長とて、奇怪な要求ばかりする軍属の技術者たちには内心困り果てていた。艦長である自分にも許可さえ取らずに艦内をうろつきまわり、艦内の細々とした兵員配置や装備品にまで注文をつける。
これまで艦長が見聞きしたことのある技術者とも、まったく毛色の違う連中だった。
ともあれ、正式な命令書を持ってこられては、協力せざるを得ないのだが。
「しかし、『格納庫』と称する空間を艦中央に作り、我々すら近づけないというのは異常過ぎる。連中は何を考えているのですか」
「少なくとも、今までの延長戦上にある兵器を想定してはいないのだろうな」
艦長は煙草を放り投げると、それ以上の会話は許さないといった顔を副長に向ける。
副長はぎょっとした顔でまじまじと艦長を見つめたが、何かを察した目になり言葉を飲み込む。
「さて、時間だ。そろそろ我々の仕事をしよう。祖国のために」
艦長の言葉に副長は鉄の棒を飲み込んだような顔で、了解とだけ答えて先にラッタルを降りて行った。
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