第82話 潜入工作

 国防海軍の最新鋭潜水艦らいりゅうは長い航海の目的地、カリフォルニア湾へと到着しようとしていた。

 カリフォルニア湾内はメキシコ合衆国の領海である。日本との外交関係で言えば、親米政権が対日宣戦布告を行っていたが、当然のことながら日本も国際社会もまともに相手にしていなかった。現実的に日本とメキシコ合衆国が戦闘を行う可能性は皆無に等しかったし、宣戦布告そのものが親米姿勢のアピールを狙った国内向けプロパガンダといった側面が強かったからだ。

 もっとも、流石にセルビアモンテネグロのように宣戦布告しておいて、すっかり忘れたままという訳ではなかったが。

「らいりゅう」は「そうりゅう級」特有の高い静粛性能に加え、特殊作戦用のドライデッキシェルター(特殊部隊のダイバーや潜航艇を水中から発進させる設備)を装備。さらに、魚雷などの兵器搭載量を削って高性能リチウムイオン電池を増強するなど、長距離航海を可能とする装備も備えている。

 そんな「らいりゅう」にとって、アメリカ軍の哨戒網を突破することは容易であった。

 メキシコ領海内に入った後は一度も駆逐艦の探信音すら聞いていない。およそ戦争中とは考えられない呑気さであった。

 しかし、それを責めるのは酷というものであろう。まともに考えて、国力の強大なアメリカ相手で手一杯の日本が領海を侵犯するとは到底考えられないからだ。

 もっとも「らいりゅう」の作戦目的地としては理想的な状況と言える。

 対称的にアメリカ西海岸の状況は、偵察衛星によって警戒が厳重であると判明している。 

 マジノ線のような要塞線が構築されつつあり、また海岸地帯の哨戒も州兵を動員して厳重に行う徹底ぶりだという。およそ今回の「作戦」には不向きな状況であった。

 硫黄島海戦の影響は、それほどまでに大きかったのだろう。

  「らいりゅう」の戦闘指揮所は独特の緊張感に包まれていた。

 薄暗い照明の中で、艦長は腕時計を確認する。夜光塗料が塗られたアナログの文字盤は、作戦開始時間5分前を指していた。

 何もかもが予定通りにいっているが、こういう時こそもっとも注意が必要となることを艦長は経験で知っていた。

「ソナーに感なし。予定ポイント海上に障害となる艦艇は見当たりません」

「よし、艦内放送につなげ。作戦行動開始を告げる」

 武骨な黒いマイクを受け取った艦長は、咳払いをしたあと深呼吸をする。

 知らず知らずのうちに陥っていた緊張状態を緩めるためのルーティンをこなした艦長は、マイクへ向けて話し始める。

「艦長より達する。これより潜望鏡深度へ浮上の後、周囲の捜索の後上陸班を出す。偵察衛星によればこの時間帯のメキシコ沿岸警備隊の活動はないものと思われるが、くれぐれも近隣住民に察知されぬよう最大限の注意を払え。最期に上陸班へ、武運を祈る。」

 マイクを定位置に戻した艦長は、既に平常心に戻っていた。

 既に軍人としてのスイッチが入っている彼は、訓練通りの動きが出来るはずだった。


 グレゴリー・G・キムラは、ウェットスーツ姿で闇夜に目をこらしていた。。

 見た目はブラウンの髪にブルーの瞳という白人そのものの外見だが、横田生まれの横田育ちで日本語も堪能。 アメリカ空軍に勤務していた父と、軍属である母の元で育ち、日本の高校、大学に進学。

 日本のサブカルチャー文化にどっぷりとつかった青春時代を過ごした後、日本国籍を取得したという人物であった。

 ファミリーネームがキムラ姓なのは、父が日系五世であるからだ。もっとも、本人の外見にその影響を認めるのは困難ではあるが。

 彼が乗っているのは特殊作戦用の黒一色に塗装されたゴムボートであり、その船上にはこれから上陸したあとの作戦に必要な厳選された装備一式がバックパックに収められて搭載されている。

 ボートに乗っているのは上陸支援要員3名と、彼と同様の任務を帯びた工作員が1名。全員ウェットスーツに目出し帽バラクラバといった装備であるため、完全に闇夜に溶け込んでいる。

 支援要員の二人はバラクラバの上に暗視装置を装備しているため、ほとんど表情がうかがえない。

 今夜は計算通り新月の夜であるため、わずかな星明りしか光源がない。工作員を上陸させるには好適な条件であった。

 彼らはお互いの素性はほとんど知らされておらず、作戦上のコードネームしか知らされていない。

 この任務に必要なのはプロフェッショナルとしての経験や技量であるから差し支えはないが、本来はおしゃべり好きのグレゴリーにとっては苦痛だった。

 「らいりゅう」のドライデッキシェルターから発進してかれこれ30分以上が経過していた。

 事前に確認していた地図によれば、あと数分でメキシコ湾の上陸ポイントが視認出来るはずだった。「まずいな、こんな闇夜に船が出ているだと?」

 上陸支援班の班長は、舌打ちをしたいように見えた。当然のことながら、僅かな音も出すことははばかられる状況なのだが。

 『エンジン停止。しばらく様子を見る』

 ハンドサインで他の者に伝えると、全員の動きが止まる。

 既にこちらのエンジン音を聞かれた可能性は、普通に考えて高いだろうとグレゴリーは思った。 

 双眼鏡を借りて覗いてみると、粗末な木造漁船のように見える船の上で何人かの人影が動いている。 

 この闇夜で灯火をともしていないところを見ると、おそらく後ろ暗い用事なのだろう。

―麻薬カルテルか。ハーグ陸戦法規に照らし合わせると、どうなんだろうな。非戦闘要員かと言われると微妙なところだ。

 ジュネーブ条約とも呼ばれる国際法規を思い出しながら、グレゴリーは拳銃の安全装置を解除する。

 同時に彼は拳銃を発砲する機会は来ないだろうな、とも思った。 

 それとほぼ同時に、おそらく拳銃と思われる小火器の発砲音が響いた。

「発砲を確認した。これより奴らを敵国の戦闘要員とみなす」

 生真面目な口調で支援班の班長は、そう宣言すると同時に狙撃銃を構え、暗視装置で昼間のように見える視界の中で蠢く人影を捉える。

「エンジン始動!これより敵船を制圧する。こちらの上陸は徹底的に隠蔽せねばならん。塵一つ現場に残すな」 呼吸を調整しながらゴムボートの揺れを計算し、班長はトリガーを引く。

 初弾は一応命中はしたが、的の大きな胴体中央部を狙ったはずが、上腕部のどこかに命中したらしい。不運な男は、なにかを喚き散らしているように見えた。

 支援要員の他の2人は17式小銃を三点バースト射撃で発砲する。

 慌てふためきながらめったやたらに撃ってくる拳銃弾は、見当違いの水面に着弾して水音を立てるばかりだった。木造船の方には幸いなことに拳銃以上の武器はないらしく、火力そのものも限定的だった。

「素人め。手榴弾投擲!」

 班長は十分に接近したと判断して、手榴弾による制圧を指示する。

 待っていたとばかりにもう一人の班員が、手榴弾を投擲する。

 安全ピンを抜いた手榴弾は綺麗な放物線を描いて、木造船の甲板中央に落ちたと同時に爆発する。

 爆風が木片や肉片を撒き散らし、木造船は半ば崩壊したようになる。

「生存者は確認できない。上陸に障害なしと判断、『荷物』の陸揚げを優先する。処理は後続の隠蔽作業班に任せる」

 グレゴリーは班長の声を聞きながら、目の前に浮かんでいる木造船の積み荷らしき麻袋に視線をやった。

 中に入っていたのはおそらくはただの小麦粉ではないだろう。

 戦時中も変わらない人間の業の深さに心中嘆息しながらも、彼は上陸の準備を始めた。

 国家の命運がかかっている自分の仕事の責任の重さに、逃げ出したい思いを飲み込みながら。

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