第81話 荻外荘会談

 荻外荘公園は杉並区荻窪にある旧近衛文麿邸を公園として整備した施設である。

 大東亜戦争開戦前夜の重要な政策決定がなされたのも、この荻外荘である。

 近衛文麿首相から対米戦について海軍の情勢判断を問われた際に、「やれと言われれば初め半年や1年は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ」と有名なセリフで応じたのはこの荻外荘であった。

 菅生明穂が待っていたのはこの荻外荘の書斎であった。終戦後に戦犯指定を受けた近衛文麿が出頭指定日未明に青酸カリによる服毒自決を遂げたという因縁のある場所である。

 その過去を知っているせいか、綺麗に掃除の行き届いた和風建築の書斎には、何かが淀んでいるような奇妙な感覚があった。

 三月の初めにしては気温が高く、障子を開け放っていてもさほど寒くは感じない。

 おそらく近衛邸だった時代から備え付けであっただろう木製のテーブルにノートパソコンを広げ、アイデアをメモしていく。見る人が見ればプロ作家の仕事風景なのだが、悲しいかな幼児体型が災いして小学生が覚えたばかりのブラインドダッチで宿題を片付けているようにしか見えない。

 服装ばかりは彼女の通う女子高の制服だから、人によっては女子高生に見えなくもないだろうが。

 そんな彼女の仕事を妨げたのは、ヘリコプターのローター音だった。

 ずんぐりとした特徴的な機体は「スーパーピューマ」の愛称で知られる陸上自衛隊の特別輸送機「EC225」であった。各国首相などの国賓級VIP輸送に用いられることで知られる輸送機である。

 公園内に特設されたヘリパッドに降りたスーパーピューマの乗客が、書斎の縁側から見える位置へ姿を見せたのはそれから十数分後のことだった。

「これはこれは首相閣下。随分と遅いお着きだ」

 ノートパソコンを畳むと、相変わらず年齢不相応の余裕を見せつつ立ち上がる。

 何人ものSPが周囲を固めるなか姿を見せたのはこの日本で今一番多忙な人物、桐生正尚首相であった。

「申し訳ない。会議が長引いてね」

 桐生は息子よりも年下の少女に丁寧に頭を下げて見せる。

 これほど年齢の違う相手に対しても、偉ぶらずに接することのできるのは彼の持って生まれた性格であろう。「問題ない。ああ、首相閣下は時間がないのだろう?このまま縁側で話そうじゃないか」

 縁側の先に腰を下ろした明穂は、隣を指さしながら不敵な笑みを見せる。

「ご配慮痛みいる。それでは、縁側で話すとしよう」

 SPに手で合図を送りながら、桐生首相は縁側の縁に腰を下ろす。

 いつの間にか、背後から黒服のSPの一人が淹れた緑茶をお盆に乗せて滑らせてくる。

 桐生は目の前の小学生にしか見えない女子高生作家に初めて接して、奇妙な感覚を抱いていた。

 40歳以上離れた年齢の少女とはとても思えない。若く見えるが実は齢数百歳の魔女とでも言われたほうがまだ納得できる。

 自衛隊、政界と数多くの人間と接してきた桐生が初めて会うタイプの人間だった。

「わざわざ呼び立てて申し訳ない。明穂君がまとめたレポートはどれも興味深いものだった。それで、一度話をしてみたかったのですよ」

「なに、作家業が開店休業中なのでね。暇つぶしに作った素人の手慰みさ。さて、首相閣下がここにおられるということは、アメリカ軍は硫黄島でよほどの手傷を負ったと見える。その割に華々しい報道がないのは、国民が浮足立つのを恐れて、ということかな」

 硫黄島海戦の新聞やテレビで一応報じられてはいたものの、官房長官の定例会見で『アメリカ軍による硫黄島上陸作戦に対し、反撃して撃退した』以上のことは触れられていなかった。マスコミは散々食い下がったが、これまで政府も国防軍も詳細については調査中、と木で鼻を括ったような返答しかしていない。

 そのように戦況があいまいにしか伝えられていないのは、国民が対米戦争を楽観的に捉えてしまうのを防ぐためであった。大きな戦果に幻惑され、講和の機会を逸した『一度目』の轍を防ぐためには、抑制的に戦果を伝えるしかないというのが政府の方針であった。

 今のところは早期の講和条約締結という桐生政権の方針が支持されてはいる。しかし、世論はすぐに風向きが変わる。今は原油不足や食料の一部配給制への移行など、暗い話題がマスコミをにぎわせており、明るい話題に飛びつきたい心理が作用してどう転ぶか分かったものではない、というのが政府の分析であった。

「それを私が言う訳にはいきませんよ。ただ、非常に興味深い論評だと申し上げておきます」

「なるほど…まあ道理ではあるな」

 明穂はそう言いながらも、まんざらでもない顔で胸を反らして見せる。

「さて、あれを読んだのなら、私がこの萩外荘を会見の場所に選んだ理由もお分かりということだな」

「日米戦争の開戦に近衛文麿公が深く関与している、確かそういうことでしたね」

「簡単に言えばそうだ。日本とアメリカの間の戦争の火種は近衛内閣で用意されたといっても過言ではない」

「東条英機内閣はむしろその尻拭いをさせられたに過ぎないというのが貴女の指摘でした」

 大学の講義を聞いているような気分になりながら、桐生は湯呑から熱い茶をすする。

「重要なのはその政策を立案したのが近衛内閣のブレーンである昭和研究会であり、そのメンバーに多くのソ連のスパイやその協力者が多く含まれていることだ。これは、ルーズベルト政権も同様だ。日本への最後通牒であるハルノートを作成したハリー・デクスター・ホワイトはソ連の協力者であったことが明らかとなっている。日米の政策決定に関与できるスパイがいたというのは明白な事実だ」

「日本とアメリカは、背後からソ連に操られて戦争をさせられた。そう語るアメリカの将校に出会った記憶は多々あります」

 桐生はかつて海上自衛隊幹部として派遣されたアメリカで、そんな歴史観を語るアメリカ軍人にあったことがある。その軍人個人が特殊という訳ではなく、アメリカ軍の中で広く伝わる認識であるらしいことが当時の桐生にとっては驚きだった。

「この事実が明らかになったのは、ヴェノナ文書ファイルと呼ばれる膨大な米ソ間の有線暗号通信を解読した文書群が公開されたのが大きい。ロシアのエリツィン政権が公開したソ連側の機密文書と照らし合わせても、この通信記録が紛れもない事実であることは明らかだった」

 短い足をぶらつかせながら、大学教授のように語る彼女の横顔は年相応の少女には見えなかった。

 このような『コミンテルン工作史観』とでも呼ぶべき歴史観はアメリカの保守派研究者の中で、リベラル派の妨害を受けつつ細々と行われてきたという。ヴェノナ文書の発見まで、傍証はあるものの客観的な『証拠』が無かった『|インテリジェンス・ヒストリー』は近年急速に研究が進みつつある。

 桐生も保守派言論人とのネット動画番組での討論でそのことは知ってはいたが、研究資料や書籍に当たる暇もなく詳細は把握していなかった。 

「まあ所詮、この程度のことは一部保守派言論人が散々指摘してきたところなのだが。問題はここからだよ。幸い時震で日本側のコミンテルンのスパイのほとんどは消え去った。だが、アメリカの政策決定の場には未だスパイが蠢いている。彼らは日本との停戦交渉を必ず阻止しようと動いてくるだろう」

「それについてはノーコメントとさせていただきますよ。オフレコの場とはいえ、外交交渉に関する事項ですから」

 桐生はそうやんわりと釘を刺しながらも、先を続けて欲しいと目で促す。

「いいだろう、それではここからは私の独り言だ。首相閣下、もし本当に和平交渉をしたいのならばソ連を、コミンテルンを敵とするべきだ。矛盾しているようだがそれしかない。平和のために手を握ることが無理ならば、共通の敵を打倒するためにやむを得ず協力するしかない。」

「ソ連は現時点では、一応中立国なのですが」

 桐生は明穂の畳み掛けるような語調に、思わず苦笑する。

 討論番組には慣れている桐生だが、時折気圧されるような感覚すら覚える。

 一瞬息を大きく吐くと、明穂は悪魔的な笑みを浮かべてこう続けた。

「なに、この世界でも敵国となる。遅いか早いかの違いだよ。世界は物語を求めている。そして、物語には悪役ヴィランが必要だ。なに、まったくの嘘という訳でもない。彼ら共産主義者コミンテルンの殺した人数は一億人、という説もある。放置しておけば、この二度目の世界でも、それだけの人間が虐殺される。日米が手を結ぶための悪役としてこれ以上の敵役はおるまいよ」

 明穂は厨二病患者のような芝居がかった手付きで大仰に手を広げると、口元をさらに大きく歪める。

「ただ、そうするなら心することだ、彼らの手は長い。なにしろソヴィエト連邦が滅びたあとも、我が国では意気盛んな連中がいるくらいだからな。」

「…ユニークだな、君は。とてもではないが、高校生とは思えない。私の息子が君くらいの年の時は、年がら年中野球のことしか考えていなかったよ」

 呆れているとも感心しているともつかない顔で息を吐くと、桐生は湯呑の冷めてしまった緑茶を飲み干す。

「当たり前だ、私は小説家だぞ。我らは、例えれば神の御業のごとく世界を構築するプロフェッショナルなのだからな。」

 何を当然のことを聞いているのだ、という顔でこちらを見る明穂に桐生は苦笑を返すしかなかった。

「総理、そろそろ移動のお時間です」

 SPの言葉に桐生はゆっくりと立ち上がる。

「有意義な時間だった。そろそろ、私は失礼するよ」

「慌ただしいことだな、総理閣下」

 桐生はただ苦笑だけを返すと、彼女に背を向けて歩きだした。

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