第80話 トラック泊地

 トラック諸島が大日本帝国の信託統治領となったのは、第一次世界大戦終結後の国際連盟決議によるものだった。それから数十年、日本人たちは生真面目に国際法を守りつつ、このミクロネシアの島々を統治してきた。


 この諸島の政治的な中心は、日本の現地統治機構である南洋庁の支庁が置かれているトラック島だ。

 一方、軍事の中心とされる施設は同島のトラック泊地。巷間に『東洋のジブラルタル』と謳われる日本海軍の一大根拠地であった。

 時震TQ以降に出された撤退命令により、旧帝国海軍聯合艦隊の艦艇は姿を消して久しい。


 それに代わって、この泊地の新たな主人となったのは現地居留民に「新海軍」と言われるようになった、国防海軍の艦艇であった。


 と言えば聞こえはいいが、その多くは退役して解体を待つばかりであった旧型護衛艦、あるいは時震以降に突貫建造された戦時急造艦、そしてこれまた旧型の潜水艦群である。


 一時期は米軍の上陸作戦が行われる可能性を考慮して艦艇が配置されていなかったトラック島に、艦艇が戻ってきたのは年が変わってからのことであった。

 彼らの任務は米潜水艦による通商破壊作戦を阻止することであった。

 

 パレンバンなどの南方油田地帯と日本列島を結ぶ海上輸送路が遮断されれば、日本の継戦能力の喪失に直結するからだ。


 これまで沿岸海軍ブラウンウォーター・ネイビーであった海上自衛隊は、外洋海軍ブルーウォーター・ネイビーへと生まれ変わることを強制されていた。能力と装備は外洋海軍に準じたものを揃えていたとはいえ、海上輸送路の防衛には艦艇数が圧倒的に不足していた。

 

 そのためには、質はある程度目を瞑って量を増やすことが第一であった。

 

 標的艦として売却される予定であった護衛艦「しらね」が現役復帰することになったのはそのような事情があった。彼女の進水は1978年であるから、ざっと艦齢40年以上のロートルである。

 

 売却する予定でほとんどの艤装は撤去されていたため、レーダーや武装などの再設置やエンジン整備などにおおいに手間取った。そのため、戦力化されたのはごく最近だ。横須賀を出港した時はまだ艦内で工事が行われていたほどであった。 


 『しらね』はいささか旧式の石川島播磨重工業IHI製2胴衝動型蒸気タービン の駆動音を響かせながら、広大な泊地へと進入していく。近寄ってきた数隻のタグボートの一隻の舳先で手旗信号が振られ、それを受け取った『しらね』の甲板作業員がタグラインを下す。


 航海艦橋で湾内を双眼鏡で見渡していた大塔だいとう正晃まさあき艦長は、広大な泊地を見て思わずため息を漏らした。艦長就任とともに中佐に昇進した彼は、本来ならばもうフネを降りていてもおかしくない年齢であった。


 しかし、少なくとも戦争が終わるまでフネから降ろされることはなくなった。細君からはお小言を頂戴することにはなったが、現役を続けられるというのは嬉しかった。これが戦争でなければもっとよかったのだが。


「なんとも理想的な泊地じゃないか。我々がお客さんの横須賀とは、えらい違いだ」


 横須賀港では旧海軍が使用していた一等地を米海軍が使用しており、海面を挟んで向かい側が旧海上自衛隊艦艇のドックとなっていた。海自時代に大塔は自分たちのことを『お客さん』と自虐的に言ったものだ。


「さすがは『東洋のジブラルタル』ですね。航空母艦が航走しながら発着艦訓練が出来たと言われるだけはありますな」


 砲雷長の言葉に大塔は大いに頷いた。

 海軍軍人として広い港湾施設はそれだけで有難いものだ。他の艦艇を気にしながらの入港は何かと気を遣うし、操艦の手間も増える。


 手慣れたタグボートの操艦を見ながら、大塔の気分は良かった。おそらくは旧海軍の軍属か何かだろうが、神経の行き届いたプロの仕事というのはそれだけで晴れやかな気持ちになるものだ。


 指定された停泊場所に『しらね』が無事停泊するまでに要した時間は、大塔の予測よりわずかに早く済んだ。

 

 国防海軍のトラック地方隊司令部は、トラック諸島夏島の旧海軍第四艦隊司令部をそのまま使っていた。対空機関砲やヘリパッドといった施設が追加された以外は、木造モルタルづくりの質素なつくりである。


 案内してくれた警備兵によれば、現在急ピッチで空襲に備えた地下司令部施設の建設が行われているが、基地機能のほとんどは今だ地上にあるのだという。

 大塔艦長は物資補給などの作業を部下に任せて大発動艇に乗り込み夏島へ移動すると、司令部に着任の挨拶へ訪れていた。


「かけたまえ、大塔艦長。どうだね、『しらね』は」


 新たに配布が開始されたばかりの真っ白な防暑服を着たトラック地方隊司令、生方適少将は鷹揚な態度で手を挙げる。彼の見事に禿げ上がった頭には汗が滲んでおり、乾坤一擲と墨痕鮮やかに書かれた扇子をせわしなく動かしている。


 空調設備はといえば、天井からぶら下がっている、ゆったりとした速度で空気をかき回す大きな扇風機があるばかりだ。その絵面を見ているだけで暑苦しい。


 よくよく見れば、机の下には水を張った盥が置いてある。水の上にはわずかばかりの氷が浮かんでおり、脚を冷やしているのだろう。

 窓を開け放っておけば、さわやかな南洋の風が入ってくるのが唯一の救いであった。


 司令の執務室ということもあるのだろうが、湾内に停泊する艦艇群や飛行場に離発着する飛行機の姿も見ることのできる見晴らしの良い窓だった。


「よくもまあ再艤装したものだなと思いますよ。まあ旗艦として設計されていただけあって艦内に余裕があるのは有り難いですがね。おかげで快適な航海でした」


「これまでせいぜい海上輸送路シーレーン防衛の研究くらいしかしてこなかった我々が、本格的な海上護衛戦をせねばならんのだ。とにかくフネが足りない。浮いてるものならはしけ船でも使えと言うじゃないか」


 司令は苦笑しながら、表面に水滴がついた麦茶の入ったグラスを口につける。

「それで、この辺のアメリカ軍の活動はどうなのですか」


「水上艦艇の活動は殆どない。静かなものだ。ただ、潜水艦はかえって元気に活動している。史実通りとも言えるがな。おかげで潜水艦隊の連中は忙しい。むろん、我々も暇ではないが」


 司令はタブレット端末を操作して統計データを呼び出し、大塔に見せる。

 水上艦艇や海底に敷設されたソナー群SOSUSが把握した固有のスクリュー音を頼りに把握した米海軍潜水艦の隻数、撃沈数などのデータが棒グラフで示されている。


「把握しました。潜水艦狩りの標的には事欠かないということですな」


「そうだ。今の所タンカーや商船の被害はほとんどなく、反面米海軍潜水艦の喪失トン数は右肩上がり。にもかかわらず連中、まったく元気がいい。隙あらばこちらの哨戒網を食い破ろうとするばかりか、こちらの対潜艦艇を食おうとすらしてくる」


「米海軍の潜水艦というものは、そういうものですからな。リムパックでの彼らもそうでした。戦史叢書の記録から見ても、慎重過ぎて戦機を逃しがちだったこの時代

の日本海軍よりもよほど勇敢でしょう」


 かつてハワイでのリムパック演習で一緒になった連中の顔を思い出す。彼らとは時空の境を異にすることになったが、再び会える時が来るだろうか。


「それにしてもだ、いくらなんでも被害を省みないとは思わんか」


「必死なのでしょう、彼らも。硫黄島で消滅した太平洋艦隊を再建する前にハワイや本土を攻撃されるならば…といったところでしょうか」


「海軍軍人なら、そういう立場はご遠慮こうむりたいものだな」


 生方司令は複雑な顔でかぶりを振った。


「…だが、戦争だからな。彼らが日本の輸送船団を襲撃するのならば、阻止せねばならん。感傷は捨てるしかない」


「わかっていますよ。彼らをこの近海から駆逐してみせます」


 大塔は事もなげに言ってみせるが、内心でそう簡単には割り切れないだろうなとも思う。

 実戦でソナーが探知した目標に、躊躇なく対潜ミサイルを発射する命令を下すことを自分が躊躇するとは思えない。旧自衛隊時代も今も、それについては軍人として訓練されている。

 しかし、多分悪夢に悩まされることにはなるのだろう。


「油断はするな。海上輸送路の安全は国民の生命に直結する重大なものだ。ゆっくり休息させてやりたいところだが、残念ながらそうもいかん」


「問題ありません。予備自衛官あがりの連中も多いですが、訓練で練度は向上しています」


「頼む。詳細なローテーションについては、明朝のブリーフィングで改めて説明する」


「了解です」


「さて、仕事の話はここまでだ。夜には艦での作業もひと段落するだろう。これでも一緒にどうだ。それに、お望みなら芸者がいる料亭もあるぞ」


 生方司令は一転して指で盃を作りあおる真似をしながら、年相応の顔に脂下がった笑みを浮かべる。無論、演技も含まれているのだろう。


 大塔は一瞬思案した。

 少しでも艦にいて任務の準備に万全を期したいところだったが、無碍に断るのも失礼かとも思う。

 昭和の人間としては断りづらい誘いだったし、陸の飯には飢えていた。


「お付き合いさせていただきます。ただ、芸者はいりません。美味い魚が食いたいですね」


「魚か。よし、時間になったら艦に迎えの車をやらせる。とびきり美味いのを馳走してやる」


 大塔の答えに満足したのか、司令は大げさに頷いて見せた。

  

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