第78話 国境

新京を出た進藤と前原は、関東軍叛乱の混乱に乗じて新京を脱出し、古くからロシアとの交易で栄えていた満洲里市郊外の茫漠たる草原へと到達していた。

 二人の乗る九四式六輪自動貨車トラックの直立6気筒水冷エンジンは、当時の国産車にしては高い信頼性を発揮して快調に動作していた。綿布製の幌を張った荷台には、潤沢な燃料と関東軍の金庫に眠っていた金塊が搭載されている。

-事前に用意しておいた巧妙な偽造通行証を使っていたとはいえ、新京を出るまで緊張したものだが。

 叛乱による影響は新京周辺に限られていて、草の海は穏やかな凪の中にあった。

「結局、日本はこの満洲を支配した気になってはいても、この草原は誰のものでもないということか」

 思わずそんなつぶやきが漏れたことに、進藤自身が驚いていた。

 悠久の歴史の中で様々な民族、国家が興っては消えていった草原を見ているからこその感傷なのだろうか。

 逃亡者となった自分の身の上を忘れていられたのは、しかしあまり長い時間ではなかった。

 ソビエト連邦との国境線が近づいてきたからだ。

 国境線とはいっても有刺鉄線が張られている訳でもなければ壁があるわけでもない。遊牧民たちは草を追いかけて越境することも多いと聞く。

 しかし、遠くに見えるコブのような小高い丘の頂上には見るからに武骨なコンクリート製の人工物が存在し、その手前の方には掘っ立て小屋のような粗末なつくりながら、白いペンキで塗られた木造の監視所が築かれていた。

 建物の屋根に設置されたポールには、赤地に槌と鎌が描かれたソビエト連邦国旗が翻っている。

 監視所の前には小銃を装備した国境監視兵が二名、直立不動の姿勢で待ち構えていた。

 このトラックの存在は身を隠す場所もない草原地帯のこと、とうに見抜かれているだろう。

 ハンドルを握る進藤の手に思わず汗が滲む。

 スパイとなった日からどんな死に方も覚悟してきた進藤だが、身体は勝手に緊張していることが妙におかしく思えた。

 ソ連兵を刺激せぬようにゆっくりと歩くような速度で監視所へトラックを進める。

 前原はと言えば、いつも通りの何を考えているかわからない仏頂面で黙りこくっている。

 この男の感情をいつも進藤は読みかねていた。

 自分のためならば友人も祖国も簡単に裏切って見せる前原を不気味に思うことはあったが、利害の一致という一点だけは信用できた。

「連絡は来ているだろう。『リシーツァ』だ。モスクワ行きのシベリア鉄道まで行きたい。国境通過の許可を頂きたい」

 発音にはほとんど自信のないロシア語だったが、どうにか通じたらしい。

 小銃を抱えているより鋤や鍬を持っているほうが似合いそうな風体の兵士二人は、朴訥そうな顔を見合わせる。

「上に問い合わせる。少し待て」

 やや年かさの兵士のほうが監視所の建物の中に消えていく。

「さて、ここをすんなり通してくれるかな」

 ハンドルにもたれかかりながら、進藤はロシア人たちの動きを運転席から眺めていた。

 ソ連特有の複雑な官僚機構が、中央からの命令をきちんと遂行するかどうかには大いに不安があった。

「いや、残念ながら貴様はここまでだ」

 胸に金属の硬さを感じた進藤は、腰のホルスターに収められた拳銃を引き抜こうとする。

 しかし、前原は進藤の胸に押し付けた通称でデリンジャーと呼ばれる、ハイスタンダード社製の小型拳銃の引き金をひいた。安全装置がわりに相当重く設定された引き金を引くと、22口径ながら火薬量を増大させたロングライフル弾を発射される。

 威力に劣る小型拳銃とはいえ、装薬量と至近距離から撃つことによって殺傷力は十二分に高められていた。

 22口径弾は皮膚や肉を切り裂きつつ心臓へと正確に到達し、致命的な損傷を与えつつ貫通した。

「何故、こんなところで…」

「いや、ここだからさ。ソ満国境にまで来れば、いくら『リシーツァ』といえど心に隙が生まれる。そう、常に用心深い君らしからぬ油断だった。それに君を始末しろというのが奴らの命令でね」

 淡々と話す前原に、進藤は口もとに血を滲ませながら嗤った。

「なるほど、ベリヤは俺が用済みと判断したのか。確かに俺はやり過ぎた。ソビエト旗を掲げて見せたのは。俺はあんたのような異常者じゃあないんでね。油断もすれば、怒りもする。しかし、あんたもベリヤの犬になっていたとはね」

 朦朧としながらも、進藤はこの世すべてへの怒りを思い出していた。

 ソ連の犬になったのも、別に共産主義者の語る理想を信じた訳ではなかった。

 共産主義も資本主義も、権力が腐るのは似たようなものだろうと思っていた。

 ただただ、祖国とこの世界そのものへの復讐のために利用できるものは利用してやったまでだ。

「確かに俺は異常者かもしれん。今貴様を殺すのも、長田を殺すのも、名も知れぬ兵を殺すのにも、世間が言う罪悪感などというものは感じない。お前を監視する任務もこなせた。ソ連とやらでも、俺は楽しくやれるだろうさ」 

 次の瞬間、進藤の拳銃と前原が隠し持っていた小型ナイフが交錯した。

 先に相手に届いたのは、前原のナイフの方だった。拳銃を持っていた利き腕を、小さいが鋭利なナイフが深く切り裂いていた。

 それが、進藤の最後の力を振り絞った攻撃だったらしい。

 既に出血量が致死量に達していた進藤の心臓は、既に鼓動を止めていた。

 ソ連の有能なスパイ、『リシーツァ』のあまりにあっけない最後だった。


「イワノフ二等兵曹、そしてトカチェフ上等兵。もう一度確認したい。確かに、その男は『リシーツァ』と名乗ったのだな」

 鷹のような眼光が特徴的なカリーニン兵曹長は粗末な木製の執務机に向かったまま、腕組みしながら答えた。詰め所の周囲で警戒に当たっていた二等兵曹と上等兵がもたらした報告は、カリーニンを悩ませるには十分なものだった。 

 このソ連軍国境警備隊の詰め所には兵曹長を含めてわずか4名の人員しか配置されていない。本来ならありえない人員構成だが、ドイツ軍との戦争が激化している今、極東のソ連軍はギリギリまで人員や装備をスターリングラードをはじめとする東ヨーロッパなどに移動させている。

 満洲国との国境警備に割かれる人員はとうに限界を超えて減らされ続けている。 

「確かにそうです、兵曹長殿」

―老けて見られる顔をしてはいるがイワノフ二等兵曹はまだ二十代前半だったな。

 そばかすが目立つ顔を見ながらカリーニンは思う。

「先日、上から降りてきた命令では『リシーツァ』というスパイの射殺。そして、マエハラという男をモスクワに護送せよとのことだ。その割にはそいつらの写真一つ無いがな」

 おそらくはソビエト連邦が誇る複雑な官僚機構が、ウォッカのせいで動脈硬化でも起こしているのだろう。

 まったく忌々しいことだ。

「それで、貴様はどう判断した。本物だと思うか?」

 カリーニンの意図が分からず、イワノフは戸惑うばかりだった。

「はあ。モスクワが判断することかと」

 イワノフにしてみれば、伏魔殿というほかないクレムリン宮殿など雲の上の世界にしか思えなかった。

「そのモスクワが問題なのだ。我々がその『リシーツァ』に関わって得になることは何もない。いや、むしろ厄介事の種になるだろう」

「お言葉ですが、兵曹長。彼らが本物だった場合、我々は命令の遂行を怠った反逆者ということにありますが」

「青いな、二等兵曹。貴様は大粛清を知らないのだろう。即決裁判での銃殺刑など日常だった時代をな」

「はあ、しかし…」

「貴様も覚悟を決めろ。もし本物だった場合、口封じに我々がスパイとして処刑されかねない。逆に偽物だった場合もサボタージュで裁かれかねない。どちらにせよ、我々の運命はろくなものにはならん」

「しかし、やはりモスクワの命令は絶対であります。兵曹長殿のおっしゃることはサボタージュにしか思えません!」

 若者らしい正義感に溢れた瞳で語るイワノフに、カリーニンは哀れみの表情で答えた。

「残念だよ、君を抗命罪で処分せねばならないとは」

 カリーニンは殺気を気取らせない自然な動作で拳銃を抜き、ほとんど狙いもつけずに立て続けに二発撃った。トカレフの通称のほうがよく知られているTT-33拳銃は正確に動作し、7.62ミリ弾を銃口から射出する。

「すまんな若いの。だが、私にも妻と娘がいるのだ」

 呆けた顔のまま崩れ落ちたイワノフ青年の目を閉じてやりながら、カリーニンは深い皺の刻まれた顔を歪めていた。

「死体はどうしますか?」

 気心の知れた軍曹は淡々とした顔でそれだけを聞いた。

「日本人を始末したあと、その死体と一緒に日本側の適当なところに葬ろう」

「分かりました。それで、こいつの家族には?」

「越境を試みた日本人スパイと交戦しての名誉の戦死、ということになる。私が手紙を書こう」

「それを聞いて安心しました。では、その日本人を始末しに行きますか」

 軍曹は小銃に実弾を装填し、動作を確認した。

 上等兵は複雑な顔をしていたが、カリーニンに文句を言うつもりはないようだった。

 カリーニンはその様子に満足し、部屋の片隅に設けられている銃架から自分の小銃を取ると、弾丸を装填する。

「さて、それではその日本人を殺しに行こう」

 まるで狩りをしに行くような気軽さで、カリーニン兵曹長は扉を開けた。

 

 くわえていた煙草がいつの間にか大半が燃え落ちて、唇をやけどしそうになる。

 前原はその煙草をトラックの運転席の床に無造作に落とし、軍靴で踏み躙る。

 『極光』の箱に指を入れたが既に紙巻煙草が尽きていることを悟った前原は、舌打ちをして運転席の床を蹴った。

 それと同時に、監視所の粗末な扉が開いて中から三人の兵士が顔を出す。

 ロシア語で何かを話しながら、こちらに手招きをするような身振りをしてみせる。

 前原のロシア語知識では意味が不明瞭なところも多かったが、どうやらトラックから降りろと言っているらしい。

 このままトラックを降りずにシベリア鉄道まで移動したかったが、どうやらロシア人たちはそれを許さないようだった。

 間違いで拘束され拷問を受けてはたまらないと思ったが、前原は渋々トラックを降りようとする。

 運転席から降りようとした瞬間、銃弾が前原の頭を掠めた。

「クソッ、何を考えているこの露助どもめっ!」

 前原はそう叫びながら、運転席の方へ戻ろうとする。

 ソ連兵のはなった小銃弾が肩に命中し、皮膚や筋肉を削ぎ落す。

 痛みに呻きながらも運転席に戻った前原は痛みをこらえながら運転席側の扉を開け、

 運転席でこと切れている進藤の遺体を車外に蹴り落とそうとする。

 思ったより重い遺体を車外に放り出すのに、ことのほか時間を要した。

 その最中にはソ連兵は小銃をトラックに向けて放っているが、射撃の腕がたいしたことはないせいかろくに当たらなかった。

 前原は凝固した血が張り付いている運転席に座ると、エンジンを始動させる。

 咳き込むような音がしてなかなか始動しないエンジンに苛立つ前原は、拳でハンドルを叩く。

 ようやくのことで力強いエンジン音を立て始めたトラックを急発進させた前原は、こちらへ向けて小銃弾を放ってくるロシア人にむき出しの歯で威嚇するような顔をする。

 アクセルペダルを踏みこむと、ソ連兵のいる方向へトラックの車体を向ける。

「小癪な。挽き肉にしてやる」

 急加速したトラックに慌てたソ連兵が逃げ惑うが、かまわず加速して車体を突っ込ませる。

 金属のひしゃげる音と肉の押しつぶされる滑った音が合わさったなんとも言えない嫌な音が響いてくるが、前原は血に飢えた獣のような顔に野卑な笑みを浮かべるばかりだった。

「ようやく素直になったじゃないか。あんたの本質はそれだよ」

 死んだはずの進藤が耳元でそう囁いた気がした。

 

「油断した。それに、我々の射撃は酷いものだとは思っていたが、まさかここまでとはな」」

 見るも無残に轢き殺された軍曹の死体を見ながら十字を切り、敬虔なロシア正教徒であるカリーニンは神に彼の魂が安らかなることを願った。

「だが、奴は逃がさない」

 カリーニンは逃走を図りつつある日本軍のトラックに向けて照準を合わせた。

 かつて受けた教練を思い出し、呼吸を整える。

 照準の向こうにイワノフ伍長の顔が浮かび、恨めしい顔をこちらに向けている。

「ああ、確かに俺はいずれ地獄に落ちるだろう。分かっているよ、二等兵曹」

 自分の呼吸の音に集中しながら、引き金に手をかける。

「だが、今日ではない。娘の結婚式でも見届けてから笑って地獄に落ちるさ」

 兵曹長は引き金を引いた。

 小銃弾は今度は狙い違わず、トラックの車輪に命中してゴムタイヤをズタズタに引き裂いた。

 骨董品のモシンナガン小銃は信頼性を証明するかのように、精巧に動作した。

 ボルトアクションで排莢と次弾装填すると、再び7.62ミリ弾を銃口から発射する。

 日本軍のトラックの燃料タンクに引火し、トラックが炎上するまでにあと6発の弾丸を要した。

 

 この日のカリーニンの記した日誌には「本日も国境付近に異常なし」と、前日と変わらない文言だけが記された。


満洲帝國編 完

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