第72話 愛新覚羅美生

 「これでもくらえっ!」

 自らを奮い立たせるように、唐澤保之からさわやすゆきは声を張り上げながら手榴弾を投擲する。

 こちらを舐め切った行動が目立っていた満洲国軍兵士の軍服を着た男たちは、慌てて爆発から逃れようとする。

 しかし、きっちり3秒数えてから投げた手榴弾は廊下の床に達する前に爆発し、二人の男の上半身に致命傷を与えた。

 ただ一人難を逃れた男は蒼白な顔で背を向けると、あっさりと逃げ出す。

「ようやく逃げてくれたか。まったく同じ軍服同士でやりあうのは気分が悪い」 

 保之は元日本人で長野県出身だったが、身に付ける制服は満洲国軍の軍服だった。

 元々は帝国陸軍の軍人として満洲駐屯部隊に勤務していたが、満洲国軍が発足したのを機に陸軍の除隊と、満洲国軍へ入隊を申請した。何故彼が満洲国軍に身を投ずることになったのか、理由は色々とある。

 満洲の暮らしがことのほか性に合っていたこと、陸軍内で横行する体罰に嫌気がさしたこと等々。 

 ともあれ、射撃の腕に優れた彼を満洲国軍は教官として歓迎し、将校として迎えた。

 若すぎる教官としての日々は、しかし長くは続かなかった。

 とある演習で会った眼鏡の上級将校に、やけに気に入られたのがそのきっかけであった。

 その時はまるで気が付いていなかったが、その男の正体は愛新覚羅溥傑。つまるところ、満洲帝國の皇弟にあたる人物であった。

 だが、今思えばあの時あの男は信頼に足る人物を探す必要に迫られていたのだ。

 それは裏切る可能性のある同じ国の人間では駄目で、利害関係の外にあるお人好しの元日本人こそが最適だと考えていたのだろう。

 スイス人傭兵がヨーロッパ各国で重宝されたようなものだった。

 そして今、彼の所属は禁衛隊ロイヤルガーズ、階級は中校中佐である。

「もう隠れている必要はないですよ。取り敢えずは、ですがね」

 手に馴染んだ三八式歩兵銃に五発の銃弾がセットされた挿弾子クリップと呼ばれる金具を装填する。

 三八式歩兵銃は新型の九九式と比べれば旧式にあたるが、基本的に信頼性が高く素性の良い歩兵銃である。

 満洲国軍に供与されたいわば輸出バージョンであるため、いわゆる菊花紋章は彫られていない。

「本当に大丈夫なんでしょうね?」

 小動物めいた仕草で周囲を警戒しながら、調理倉庫の扉から顔を出したのは旗袍姿の少女だった。

 愛新覚羅美生、それが彼女の名前だった。

 切れ長の大きな瞳に意志の強そうな眉、アジア人離れした高い花に細い唇。基本的には美人と評価してよい少女だろう。黒く長い髪は丁寧に後ろからは八の字に見える独特の満洲族特有の髪型に結い上げられている。

 身体の線が良く出る旗袍を着ていても衣装負けせぬほどくびれた腰など、モデル並みの体型も彼女の魅力である。その恵まれた容姿に反して今の彼女はひどく怯えており、瞳の焦点は生来の小心な性格を反映してあっちへ行ったりこっちへ行ったり忙しい。

「こう言っては何ですがね、姫殿下。私はこれでもプロフェッショナルなのですよ。勝手に顔を出さないで、部屋に入ってください。今の貴方は隠れているのが仕事です」

 保之は彼女を追い立てるように調理倉庫の中へと入る。彼女が倉庫の奥に移動したのを確認すると、倉庫の扉の前に酒瓶の入った木箱を置いてバリケードがわりにする。

 その調理倉庫は殊の外広く、天井から燻製肉がぶら下がっていたり、ありとあらゆる食材が棚にきっちり整理整頓されて置かれている。

「ごめんなさい、保之のことは信頼しているわ。勿論ね」

 彼女は落ち着かない様子で、寒さにかじかんだ手に息を吹きかける。

「私は何もしないまま、何者でもないまま死にたくない。私の死を悼んでくれる人なんて誰もいない…」

 彼女の悲痛な叫ぶような弱弱しい声を、保之はただ聞いていた。

 思えば彼女も不幸な少女だった。 

 愛新覚羅の家にさえ生まれなければ、彼女も平凡な少女として人並みの幸福がありえたのかもしれない。

 だが、彼女の家は清帝国を打ち建てた愛新覚羅の一族の末裔であり、満洲帝國皇帝の弟の娘であった。

 それも溥傑と折り合いが悪く、ごく短期間の結婚生活に終わった結婚相手、唐石霞との娘であった。加えて最後まで溥傑は彼女の不義密通を疑い続けた。

 それでもさすがに生まれた美生を皇帝の一族として遇しないわけにはいかず、この皇宮にずっと留め置いていた。

 溥傑自身は哈爾濱の満洲国軍将校として勤務しているため、美生と顔を合わせる機会はほとんど無かった。

 いつの間にか彼女には「忘れ去られた皇女」という無残な二つ名が定着していた。16歳の多感な少女にとってあまりに過酷な状況であることは間違いなかった。

 表向きの役職は満洲国軍近衛兵のまま、実質的には側近兼護衛役を仰せつかっている唐澤はそんな彼女の境遇を理解し、心底から同情していた。不器用な彼がそれを表情や言葉には出すことは、ほとんど無かったが。。

「信頼していただけるのは何よりです。ですが殿下、私たちが今最悪の状況にあることには変わりありません。敵の正体も規模も不明、加えて味方にも裏切り者がいることは明白です」

「どこまでも冷静なのね。本当に頼もしい」

 皮肉めいた笑みを浮かべながらも、視線は疑うような色がある。

「信頼していただけて何より。私はプロフェッショナルの軍人です」

「どうせお父様は、私にここで死んでもらったほうがいいと考えているでしょうね。男子でもない、離縁した妻の子供なんて」

 どこまでも武骨で実直な返答を返す保之の言葉が面白くないのか、美生は言葉を荒げて言った。

「滅多なことを言うものではありません。御父上は貴方を護るために、私を遣わしたのですから。それは私にとっての侮辱でもある」「ごめんなさい、言い過ぎたわ。私、どうかしているみたい」

「命の遣り取りになれていない者にはよくあることです、姫殿下。気にしていません」

 歩兵銃と拳銃の残弾数を数えながら保之は抑揚のない言葉で答える。

 普段から襲撃者に備えていたことが幸いし、歩兵銃や手榴弾を持ち出すことに成功したのは幸いだった。

 リボルバーのコルト拳銃と合わせれば、それなりに戦える装備と言えるだろう。

「問題はこのまま宮殿内に残っていてはジリ貧だということです。姫殿下、この宮殿に緊急脱出用の隠し通路のようなものはありませんか」

「もしあるとして、私が教えてもらえると思う?」

 そう、自嘲的に笑って見せる彼女の顔が痛々しくて見ていられなかった。

「でも、怪しいと思えるところはあるわ。地下のワインセラー。あそこは置かれている物にくらべて空間が広すぎるの。」

「わかりました。では、多少の危険はあってもそのワインセラーを調べてみましょう。このままここにいるよりは生き残れる確率があがります」

 保之の言葉に、美生は無理しているのが見え見えのひきつった笑みを浮かべた。

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