第62話 混乱

14時10分(現地時間) 


関東軍司令部の会議室の一つは今、叛乱軍――彼らは満州臨時行政府と呼称していた――の司令室になっていた。大きな机をいくつか組み合わせたところに、無線機、謄写版ガリ版印刷機、電話機などの機材がいくつも並んでいる。


 それらの机から少し離れたところに新京市の市街地図が置かれた丸テーブルがあり、地図の上には部隊配置を示す西洋将棋チェスの駒が置かれている。


「無線機は相変わらずつながらないのか。さっきから空電音ばかりではないか」


 長田参謀の苛立ちの露わな声にも、無線通信機に取りついている進藤伊輔は眉一つ動かさずに答える。


「先ほども言いましたが、機材の故障ではありえません。妨害電波が発せられていると判断します」


「妨害電波だと?どこから発信されている。新京周辺に妨害電波の発信源など考えられん」


「部隊への連絡は有線電話で行うほかないと判断します、参謀殿」


 進藤の無表情な顔に悪態の一つも言いたかったが、ぐっと堪える。


「たしか、民間用の電話交換所を接収していたな。それを使う。必要なら野戦用電話線の敷設も検討しなければ…」


 そう言いかけたところへ、伝令の兵士が扉を勢いよく開く。

 耳障りな音に顔をしかめる長田にも構わず、兵士は訓練の賜物である大音声で報告する。


「市内各所の電話線が断線しております。現在復旧を急がせていますが、復旧には相当の時間を要する模様です」


「随分と念の入ったことだ。長田、どうやら敵はこちら側の指揮系統を寸断するつもりだぞ」


「『敵』だと?馬鹿な。本土から鎮圧部隊が派遣されるのに最低でも二週間かかるという貴様の推測は…」


「推測はしょせん推測だ。目の前の現実を認めるほかあるまい。だが、流石にこの早さは予想外だ。こちらはまだ市内各所を制圧しきれていない」


 前原の淡々とした表情に、怒りを隠しきれない長田は握りしめた拳を震わせる。


「何を心配しているのです。天祐は我らにあり、鎮圧部隊など恐れるに足りない。対米戦の最中に本土や朝鮮から動かせる部隊の規模など、たかが知れている」


 そう言って眼鏡の奥の眼光をぎらつかせたのは、辻正信参謀であった。この蹶起が挙行されてから、ますます顔に狂気の色が増したように感じられる。


 長田はうんざりとした顔でその横顔を一瞥する。


 言っていることは狂気が滲んでいるが、一部に正論が混じっているのが始末に負えない。そのうえ、その狂気が若い士官連中に伝染しつつあるのが気にかかる。すれていない若い士官の中には辻のことを英雄視する者までいる始末だ。


「確かに、鎮圧部隊が規模でこちら側を上回っているとは思えない。それに、こちらは完全とは言えないが、市内の要所を抑えている。慌てる必要はあるまい」 


 前原の冷静な声を聞いた長田は、不思議と心が落ち着くのを感じていた。

 そうだ、まだ慌てる必要はない。数的有利があるうえに、鎮圧部隊も障害物だらけの市街戦には手を焼くだろう。


 上海での戦訓を引くまでもなく、市街戦とはすなわち城塞戦のようなもの。

 市民の犠牲をいとわない砲撃で建物ごと耕すような攻撃は、鎮圧側には不可能。そう、物理的にも、政治的にもだ。


「先ほど言っていた有線電話の構築に対して割く部隊を決める。また、予備として置いておいた部隊のいくつかを市街地に入れて、防御線を増やす。市民から不満が出るだろうが、市内制圧の邪魔をされるよりはましだ。詳細はこれから詰めるが、大枠の対策はこんなところだ」


「わかった。こちらは引き続き蹶起に不参加の部隊へ伝令を走らせ、参加の説得を続ける。味方は少しでも多い方がいい」


 前原が頷くのを確認もせずに、長田は既に自分の部下たちに命令の詳細を指示しはじめる。

 この蹶起部隊は事実上前原と長田の両参謀が指揮を務めており、長田が戦闘指揮を、前原がそれ以外の雑事を担当していた。


 この時点で彼らの判断は正しかった。相手が昭和17年の軍隊相手であったならば。しかし、残念ながら彼らの『敵』は、時間も空間も隔絶した場所から訪れた軍隊であった。

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