第58話 患者

「患者の状態は?」

 五月達平軍医は手術衣姿でゴム手袋を装着しながら、衛生兵に質問する。


「近距離から銃弾を受けたにしては奇跡的に内臓の損傷は少ないです。ただ、血管の損傷による出血量が危険域に達しています」


「そうか。すぐに手術が必要だな」

「バイタル低下!」


 医療機器の駆動音が響き、脈拍を示す計器の数値が刻々と変化していく。


「軍医、本当に手術を行うんですか」


 衛生兵の質問に、手術医姿の軍医は心底不思議そうな顔で応じる。


「ああ、そうだが。患者を助けるのに、理由が必要かね」


「しかし、この男はあの辻正信ですよ」


「俺は医者だからな。相手が悪魔だろうが、独裁者だろうが、目の前の患者に最善を尽くすのが医者の流儀だ」

 五月の言葉に、それ以上反論する者はいなかった。

 手術は5時間以上に及び、患者の容体は予断を許さなかった。

 

―ここは、どこだ。

 辻の意識が戻ったのは、壁もカーテンもなにもかも白一色の部屋だった。

 内装から察するに病院かなにかの一室らしい。

 自分の身体に目をやると胸もとのあたりは包帯だらけで、右腕には点滴の針が刺さっている。

 身じろぎしようとすると、身体に痛みが走る。

―本土の病院なのか。

 さして根拠があるわけでもなかったが、辻はそう結論づけた。

「俺は、助かった」

 ようやく喉の奥から絞り出したかすれた声ではあったが、声に出してみるとその実感がわいてくる。

「あの男に撃たれたときは死を覚悟したが、不思議なものだな。今はただ、うまい飯が食べたい」

 生への欲求が復活していることにおかしみを覚える。

 誰かを呼べないかと思ったが、

 蚊の鳴くような声しか出ないのでは無理そうだった。

 そんなもどかしい思いを抱えているところへ、扉を隔てた廊下から声が聞こえてきた。

「おい、ここの病室、辻正信が入っているんだってよ」

「辻正信って誰だっけ」

「ほら、あのかわぐちかいじの漫画に出てきた坊主頭の軍人がいたじゃないか。あいつだよ」

「あー、あの漫画に出てきたおっさんか。懐かしい。」

「ノモンハンやガダルカナルで散々兵士を無駄に死なせた自称『作戦のカミサマ』って話だな。」

「それで最後はどうなったんだ?戦後も生き残ったのか」

「戦後までのうのうと生き延びたばかりか、GHQの戦犯追求をうまくかわして、果ては国会議員まで上り詰めたって話だ」

「兵士の遺族にはたまらん話だな。それで、こっちの歴史ではどうなるのかね」

「さあな。軍医が話していたのを聞いたが命が助かっただけでも奇跡って話だからな」

「このまま意識が戻らないほうが平和でいいかもな」

「違いない。面倒ごとはゴメンだからな」

 二人の嘲笑う声が響きわたるのを、辻は耳を塞ぐことも出来ずに聞いているほかなかった。

―貴様らに何が分かる。この俗物どもめ。

 辻は自分の情けない状況に唇を噛みながら、悔し涙を流すほかなかった。

 

2-国防陸軍憲兵隊捜査ファイル


※特定秘密4号指定(秘密区分乙-2号)につき特定秘密閲覧資格Σ5以上の者のみ閲覧が許可される。

※この書類及び電子化されたデータファイルおよび複写の部外持ち出し等が確認された場合、特定秘密保護法の処罰の対象となる。

 ※特定秘密指定解除予定:2082年4月1日

 

事件番号: N-202256739

事件名 :那覇国防陸軍病院旧帝国陸軍軍人(要監視対象者)脱走事件

事件の概要:

 ソロモン諸島帝国陸軍兵士救出作戦において、現地での発砲事件(事件番号  N-203244589)での被害者、辻正信(以下対象者と記載)は国防海軍ヘリ航空母艦『かが』に収容され、緊急手術を受けた。

 ※対象者に関する時震以前の歴史における経歴は添付した別紙を参照のこと。

 手術は成功したが、危篤状態が長く続いた。意識を取り戻したのは10月2日。

 軍医の診断では、意識を取り戻したことさえ奇跡的で、回復には数年を要するというものだった。しかし、目覚めてからの回復力は異常なほどで、看護師の証言によれば急激に体調を取り戻していたという。事件発生当日も、対象者は病院食を三食とも完食しており、健康状態は極めて良好な状態に回復していた。

 警備責任者(※当日の警備体制については後述する)の証言によれば、「対象者の体調が回復傾向にあるとはいえ、松葉杖なしでの歩行は困難という軍医の診断から脱走のおそれはないと判断していた」という。ただし、躁鬱傾向にあるという精神判定結果から、自殺あるいは他者へ危害を加える可能性を考慮して、病室からは尖ったものや金属製品を極力排除していた。

 なお、脱走当日まで対象者と接触したものはごくわずかである。具体的には診断を行った軍医、警備担当者数名、精神科医である(具体的な接触者リストについては別紙参照)。特に旧帝国陸軍軍人の接触は避けるように事前通達があったこともあり、警備側も留意していた模様。

 ただし、対象者は頻繁に病室の外へ出たがり、精神の健康を保つために警備の監視つきで病院中庭での散歩を認めていた。その際に警備担当者の目を盗んでなんらかの接触が行われた可能性は否定できない。なお、病院内には同じ旧帝国陸軍軍人の入院患者も多く収容されていた。

 事件発生は推定で22時から0時までの2時間と思われる。

 対象者は病室のシーツ等を利用して作成したロープで4階の病室の窓から地上へと降り、さらに何らかの手段で病院の塀を乗り越えて脱走を図った模様。

 事件の発覚は午前3時に警備担当者の巡回時に病室を点検した時に発覚。那覇憲兵隊は警察当局と連携して県内各所に検問を敷いたが、対象者の発見には至らなかった。

 沖縄県内各所捜索の結果から、対象者が県内に潜伏している可能性は極めて低い。推測ではあるが、日本の警察や国防軍憲兵隊の捜査が及ばない旧帝国陸軍が駐屯している地域、朝鮮半島や中国大陸、あるいは『満州国』へと移動する可能性がきわめて高い。

 憲兵隊としては引き続き県内各所の捜索を実施しつつ、警察や外務省、政府と連携して対象者の確保に全力を尽くしたい。

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