第57話 翻るは錦の御旗

 1942年12月21日13時25分

 

「はあ、ついてねぇ。どうして俺たちは本土に帰れずにこんなところで『店』を開いてんだ」


 そうぼやくはしから、満州の荒野を吹き渡る乾燥した風が砂埃をあげて襲い掛かってくる。

 思わず外套の襟を立てて震え上がっている姿を知らぬふりを決め込んでくれる、よくできた先任軍曹が有難い。


 長嶺ながみね鉄蔵てつぞう少尉はそうぼやきながらも、自ら折り畳み式のスコップで塹壕の拡張に余念がなかった。堀りはじめたばかりの塹壕はまだ腰のあたりまでしか深さがなく、とても砲弾を避けるには心もとない。


 ノモンハンの戦いを経験している長嶺は、徐州会戦などの国民党軍との戦闘で、身を隠せる野戦陣地がいかに有難いものかを経験で知っていた。


 長嶺率いる第三軽機関銃小隊が配置されているのは屯家司と呼ばれる新京市郊外であった。


 その一帯の中でも、周りを見渡すのが容易な小高い丘であった。元々人家もあまり無い街はずれだが、不穏な雰囲気を感じ取ったのか、軍人以外の姿は見えない。


 あの日、新京駅で奇妙な参謀に声をかけられてから、長嶺の運命の歯車は狂っ

た。彼の所属する35歩兵連隊の連隊長は、突如那覇への移動を取りやめた。


 新師団へ編成という話は立ち消えになり、ついには新京市街での演習に加わる羽目になった。


 そして今日は夜中の3時に叩き起こされて、この陣地へと配置された。

 あげく、知らされたのは連隊が事実上のクーデター計画に参加させられているという事実だった。


 35連隊の任務は他の部隊と共同で郊外へ陣地を作り、予想される鎮圧部隊に備えることだ。ようは叛乱軍主力が新京市街の主要な政府機関、満州国軍、関東軍司令部などの重要な拠点を制圧するまで、余計な横やりを入れさせるなということだ。 


――蹶起けっきだと?冗談じゃない。俺は皇道派の跳ね上がりガキどもじゃない。


 そう内心でぼやいてみたものの、周りは蹶起に参加する部隊ばかり。


 連隊長も事前に抱き込まれていたらしく、連隊ごと叛乱軍へと加わることをつい数時間前に知らされたばかりだ。


 以前から連隊長が武功とは無縁の軍務で不満をため込んでいたことを知っていた長嶺は、さもありなんと諦観めいた顔で肩をすくめるほかなかった。 


 叛乱計画はよほど周到に根回しされていたらしく、今さら長嶺一人が楯突いたところで袋叩きに遭うのがオチに思えた。


「先任か。どうだ、兵たちの様子は」


 長嶺は背後から近づいてきた足音だけで、音の主を言い当てる。

 同時に突き立てたスコップが大きな石に当たり、しびれる感覚に顔をしかめる。


「さすがに動揺しています。戦時中に皇軍相撃つ事態になりかねませんからな」


 軍曹の呆れたような顔に、長嶺は爪で頬をかく。虫に刺されでもしたのか、やたらと痒かった。 

――ちくしょう、俺はこういう時ばかり虫に刺されやがる。前世でよほど虫に恨みでもかったかな。


「そうか。まあ、そうだよな」


「兵にやらせておけばいい作業はせんでください。示しがつきません。それで、どうします」


 軍曹はスコップを横からひょいと奪い取る。

 彼の咎めるような視線に、長嶺は意識的にとぼけた顔をする。


「どうもしないさ。どちらにも角が立たない程度に、適度にやる気のある『フリ』をする」


「そういわれましても…限度がありますよ」


「サボるのは俺の得意だ。まあ兵にはくれぐれも早まるな、と言っておけ。」


「わかりました」


 先任下士官が敬礼したところで、塹壕に飛び込んできたのは少年のような顔立ちの二等兵だった。 


「敬礼がなっとらん!」


「塹壕の中では、敬礼は海軍式でいい。報告を」


 怒鳴り声をあげる軍曹を、長嶺が肩を軽く叩いて宥める。


「はっ!奇妙な部隊がこちらへ向かっているのを確認しました。」


「敵の規模は?奇妙とはどういうことだ」


「小型のトラックがざっと100台以上。それに加えて、上空に小型の飛行機のようなものが数十機であります」


「武装は」


「それが…武装らしきものが見当たらないのであります」


「確かに奇妙だな。よし、司令部壕へ移動して確認する。高いところから確認したい。ここの指揮は一時的に軍曹に預ける。貴様は自分の持ち場へ戻れ。『くれぐれも勝手な発砲は禁じる』と伝えよ」


「了解しました」


 二等兵の肩を叩いて送り出すと、長嶺は壕から地上へ上がって丘の頂上を目指す。

 急造の陣地であるため、連絡壕などといった気の利いたものは未完成で、一度地表に出る必要がある。


 五分とかからずに『司令部壕』とは名ばかりの丘の頂上にある塹壕にたどりつき、警備の兵士に敬礼する。

 その場で腹ばいになると、双眼鏡を手に取る。


 双眼鏡の倍率を調整し、ゆっくりと地平線上を舐めるように見ていくと、奇妙な一団を発見する。


「確かに妙だな。あの小型のトラック、白くて目立つ。鎮圧部隊には見えん」


――攻撃するか、様子を見るか…連隊長殿に判断を仰ぐほかないか。


 そう思って長嶺が立ち上がりかけた時だった。

 トラックの群れの荷台に何か陽光を反射する旗のようなものが掲げられるのを肉眼で確認し、慌てて双眼鏡を構える。


「『錦の御旗』だと?あいつら、何を考えている」


 双眼鏡の先にいる小型トラックの群れは、いつの間にか荷台から伸ばした旗竿に、皇室の象徴たる菊の御紋を金糸で刺繍した旗、いわゆる『錦の御旗』を掲げていた。百近い『錦の御旗』がはためくさまは壮観ですらある。

 運転席にあたる場所を見るが、どうしたことか運転手の姿は見当たらない。


「さしずめ、俺たちは幕府軍といったところか」


 歴史に疎い長嶺でも、鳥羽伏見の戦いで薩長連合軍の持ち出した『錦の御旗』を前に、幕府軍が総崩れとなった故事くらいは知っている。この戦いで徳川慶喜が江戸へ逃げかえったことで、明治維新への流れが決定づけられた。


 錦の御旗とは天皇の軍隊である官軍であることを示す旗であり、それと戦うことは自らが『賊軍』であることを示すと同義であった。


「この陣太鼓の音、まさに官軍の軍楽隊気取りか」


 いつの間にか、連隊の陣地を包み込むように太鼓の音が響いていた。音からしてレコードの音をスピーカーから流しているのだろう。


「錦の御旗の次は、御真影か」


 呆れとも感心ともつかぬ声で言いながら、長嶺は立ち上がる。

 もはやそれは、双眼鏡の必要がないほどの距離に接近していた。


 四つの回転翼で飛行しているらしいその飛行物体は人間が搭乗するような操縦席は見当たらない。それが二機で布のような物体を吊り下げて飛行しているのだった。


 その『布』に印刷されているらしい写真は、見まごうことはあり得ないものだ。長嶺自身も士官学校等で必ず尊崇するよう義務付けられた天皇陛下の御真影であった。


 ふと回りを見渡すと、警備兵も手に持っている歩兵銃を構える素振りすら見せず、口をあんぐりと開けて固まっている。


――まあ無理もない。一部の変わり者をのぞいて日本人は皇室を尊いものと思っている。皇室に対して弓を引くという発想そのものが出てこないのだ。


「あれは撃てないな。謀略だろうが、あれを撃ったら賊軍と言われても仕方ない。」


 長嶺はお手上げといった表情で肩をすくめるほかない。

 誰が考えだしたのかは知らないが、頭が切れる上に大胆なやつもいたものだ。


「長嶺少尉、あれはどういうことだ。」


 いつの間に塹壕を出たのか、連隊長が顔を出していた。髭だらけの達磨めいた顔だが、士官学校の身長規定を賄賂で誤魔化したと噂のあるほど低い背丈が特徴であった。


「これは連隊長殿。見た通り、怪しい車両と飛行機が接近しております。錦の御旗と御真影を掲げておりますが」


「なんだと…」


 連隊長はもはや双眼鏡などいらない距離にまで接近してきていたトラックと小型飛行機の群れを見て絶句する。


「警告して止まらないようなら、撃ちますか。『上』からの命令では、新京市へ接近するものは、たとえどんな相手でも阻止せよということでしたが」


「待て待て待てっ!菊の御紋や御真影を撃てるか、馬鹿者っ!たとえ謀略だろうが、そんな不敬なことが出来るか!」


 連隊長は口から泡を吹きそうな勢いで長嶺の軍服の裾を引っつかみ、暑苦しい顔を近づけて怒鳴る。


――なんと覚悟のない。大本営に弓を引くということは、統帥の大権を持つ陛下に弓引くことと同義だろうに。逆賊、謀反人、そう言われても平気の平左という顔をしてみせろよ。


 長嶺のあからさまなあきれ顔にも気づかず、連隊長は捨て台詞のように叫んだ。


「俺一人の判断では何もできん。上へ問い合わせるっ!くれぐれも余計なことはするなよ!」


 連隊長は突き飛ばすように長嶺の軍服を放すと、塹壕の中へと戻っていく。

 おそらくは『叛乱軍』の司令部へ無線通信で問い合わせるのだろう。叛乱軍はどこでどう都合をつけたのか、各部隊へ無線通信機を配備していた。


 壕に入っていってからほどなくして、壕内のやりとりが聞こえてくる。

 塹壕とはいっても、間に合わせのものなので密閉度が低いのだろう。

 くわえて、連隊長の銅鑼声がやたらと響くのもある。 


「無線通信、つながりません!妨害電波が発せられている可能性があります」


「ええい、肝心な時に。役立たずめ。もういい、伝令を走らせる!それから、誰か大声であのトラックの群れを大声で制止しろ。従わないようなら撃つと脅していいっ!」


 そんな混乱した大声が聞こえてくるのを、長嶺は肩をすくめてみせるよりほかない。

 長嶺はすべてが馬鹿らしくなり、煙草を取り出して火を点ける。


 陣地をぐるりと見渡していると、兵士たちが混乱し右往左往しているのが見えた。それでもどこか暢気そうにも見えるのは差し迫った危険が感じられないせいだろうか。


 その瞬間、視界の上方に奇妙なものが目に入る。


「空挺降下、だと?」


 空を覆っているように錯覚するほどの数の落下傘が、いつの間にか空中にばら撒かれていた。

 双眼鏡の視界に入った落下傘の傘の部分には旭日旗と菊の御紋が、見間違えようもないほど鮮やかに染め抜かれている。


 呆気にとられたせいで、くわえていたはずの煙草が地面へ落ちる。


 それに対しての対空砲火の音も、迎撃する戦闘機の姿はどこをどう探しても見当たらない。それもそのはず、叛乱に加わった関東軍の部隊の多くが歩兵中心の部隊で、航空隊の多くは中立を決め込んでいた。


 噂によれば「ソ連や国民党軍に備える必要がある」との一点張りで突っぱねてきたという。 


 対空火器も似たようなもので、多くが南方に送られてしまった。残りの多くもソ連軍に備えて国境近くに配備されているらしい。


 遠くの高射砲陣地でその数少ない八八式7.5センチ野戦高射砲を操作する兵士が慌ててハンドルを回し、仰角をあげようとしている。しかし旭日旗のついた落下傘を撃つのはためらわれたのか、いつまで経っても射撃を開始しようとしなかった。


「前方をトラックや小型飛行機で撹乱しておいて、本命の戦力を敵の後方へ送り込む。見事な後方への戦力投射だな」


 長嶺は煙草をゆっくりと吹かしながら、覚悟を決めた。


――連隊長殿の思惑なんぞ知ったことか。ありとあらゆる手段を使ってサボタージュしてやる。同じ日本人同士で撃ち合ってたまるか。それに軽装備とはいえ、練度が高いに決まっている敵の空挺部隊と戦うのはぞっとしない。


 長嶺は彼にしては珍しく足早に陣地を駆け抜け、自分の小隊の元へ一刻も早く戻ろうとしていた。

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