第56話 司令部占拠
1942年12月20日 満州国標準時 7時35分
その日も外見から「御城」と呼ばれることの多い関東軍司令部は満州国の真の支配者が誰であるかを示すかのように、その日も厳めしい威容を見せていた。
司令部へ関東軍総司令官が出勤したのは、いつも通りの朝7時であった。
禿頭とやや垂れ下がった双眸が印象的な顔立ちのその大将の名は梅津美治郎といった。梅津は、二二六事件後の陸軍内の綱紀粛正に努めた経緯で昭和天皇からの信頼も厚い人物であった。
事件を契機とした陸軍の対ソ戦準備を唱える荒木貞夫大将をはじめとした『皇道派』が失脚したあと、対シナ戦準備を唱えた『統制派』が実権を握った。梅津は一応統制派に属する人物ではあったが、元々どの派閥とも距離を置く人物でもあった。
かつて陸軍中央の命令に従わず満州事変を引き起こした関東軍の重石として、司令官に据える人物としてこれ以上の人物はいないだろう。
梅津は総司令官執務室に入ると、椅子に座ると習慣になってい会議に用いる書類の整理を始めた。紙がこすれあうわずかな音や、達磨ストーブの上に置かれた薬缶が立てる音が響く、朝の静寂に包まれたこの時間を梅津は好んでいた。
その静寂を破る、馬蹄が街路を叩く音や軍刀のたてる金属音、兵士に命令する将校の野太い声が急速に近づいてきた。この時間にしてはあまりに騒がしい屋外が気になり、梅津は怪訝な顔をする
「ちょっとそこの窓を開けてくれないか」
梅津は熱いほうじ茶を淹れてきた兵士に声をかける。
茶碗を執務机に置いた兵士は敬礼すると小走りに窓へ駆け寄り、擦り硝子のはまった窓に手をかける。満州の冬の冷気が、暖められた室内へ突風となって入ってくる。
梅津は椅子から立ち上がると、寒さでぶり返した腰の痛みに顔をしかめながら外の風景を覗き込む。
目を細めて窓の外を見つめた梅津は、次の瞬間呆気に取られていた。
見慣れた外套に身を包んだ兵士たちが銃口を水平に向け、司令部を取り囲むように布陣している。街路に向けて土嚢を積み、機関銃を据え付けるといった陣地構築を始めている兵士たちまでいた。
「何事だ。演習をするとは聞いているが、市街戦を想定した演習までするとは聞いておらんぞ」
梅津は理解に苦しむ目前の光景を見つめながら、最悪の可能性に思いいたっていた。
「まさか、シナと英米と戦争をしているこの時勢に馬鹿な真似を」
その時、けたたましい足音に梅津は廊下へと通じる上部に擦り硝子のはまったドアの方に視線を移す。不鮮明な硝子越しに大人数の影を認めた梅津は思わず執務机の一番上の引き出しに入っているドイツ製の拳銃の事を思い出す。 が、それを取り出している余裕もなくドアが開けられる。
「これは総司令官閣下。勤務熱心でいらっしゃる。忠君愛国の誉れ高い大将閣下らしい」
ドアを開けて中へと入って来たのは、見覚えのある梅津と同じ禿頭の眼鏡をかけた男だった。その男は一見した限りは丸腰だったが、彼の率いる数人の兵士は屋内であることを考慮してか、南部拳銃や軍刀で武装している。
「辻参謀、貴様こんなところで何をしている。確か貴様は南方へ転任となったと記憶しているが」
「軍人としての私はソロモンで死にました。今の私は大日本帝國の新生という崇高な理念に目覚めた者、その首魁とでも言うべきでしょうかね」
辻はそう言うと、地獄の底から這い出てきたか亡者のように嗤って見せた。
「何を莫迦な事を。貴様、皇軍に向けて弓を引くか。痴れ者め」
「何とでも言うがいい。だが、既に本土から帝国陸海軍は消滅し、誤った未来から出現した未来の日本人が支配する土地となった。その過ちを正すために、我々は蹶起したのです」
辻の狂気に満ちた目に見られていると、梅津はこちらの精神まで汚染されるような不快な気分に襲われていた。
「さて、梅津大将閣下。こちらとしても手荒な真似はしたくない。とりあえず椅子にでも腰をかけてお待ちください。ああ、一応兵士に身体検査をさせますが、無礼な真似はさせませんので」
兵士の一人が、先ほどお茶を持ってきた兵士を拘束して身体検査を始める。
梅津は仕方なく椅子に腰を下ろすと、机の引き出しから煙草の紙箱を取り出す。
まだ何が起きているのかを理性はともかく、感情を抑えきれていないらしい。
煙草を取り出して咥えるという当たり前の動作が、手が震えてどうにもうまくいかなかった。
-今思えばいくつもの予兆を見逃していたような気がする。戦時中に関わらずあまりに大規模な軍事演習、大本営からの度重なる部隊移動命令。だが、ソ連との国境を抱える関東軍の将兵が過激な行動など取るまいとタカをくくっていたのは否定できない…。
堂々巡りする思考を落ち着けるためにも、馴染みのニコチンとタールを一刻も早く吸い込みたかった。
「火をお点けしましょう」
辻はポケットから黒いライターを取り出すと、梅津が咥えた煙草へ火を点ける。
ライターの炎がオイルライターのようなオレンジ色の炎ではなく、ターボライター特有の高温であることを示す青白い炎であることに驚く。
「これも、未来の技術とやらだそうですよ」
「確かに瓦斯のような炎だが…」
梅津は困惑しながら、辻が手元で弄んでいる不可思議なライターを、魔術でも見るかのように見つめる。
「辻参謀殿、ラジオ局の制圧は血を流すことなく無事に終わった。協力者の手配で予定通り、放送の手配も順調だ。このあと正午を目処に緊急放送を開始できる」
状況を打開するための思考を巡らせていた梅津は、ドアから顔を出した人物に驚愕する。
「前原参謀。貴様も、蹶起とやらに参加しているのか」
梅津大将は呻くような声で問う。
「ええ。そういうことになります。すべては本土からの『撤退命令』が原因です。この満州は日本の生命線。ソ連との緩衝地帯を捨てるということは、この満州も朝鮮もソ連にくれてやるということ。それは看過できない。」
「馬鹿な。撤退命令など聞いておらんぞ」
「ああ、それはそうでしょう。私が握り潰しましたからね」
臆面もなくそう言ってのける前原に、梅津は呆気に取られる。
火のついた煙草を口元に運ぶが、味などさっぱりわからなかった。
「前原参謀、分かっているのか。それは重大な軍紀違反だぞ」
「叛乱軍に軍紀を説いてどうなるというのですか。あなたはここで我々の蹶起の行く末を座視していればいい」
梅津の言葉に嘲笑で答えた前原は、後ろで武器を構えている兵士たちへ向き直る。
「梅津大将を拘束しろ。ただし、傷はつけるなよ。自由を奪うのは手錠だけだ」
兵士たちは命令に復唱で答えると、武器を構えたまま梅津を取り囲む。
「大将閣下、拘束させていただきます。抵抗なされませんよう」
兵士の一人に促され、梅津は観念したように両手をあげて見せる。
「ここまで事を露見せずに進めたことは褒めてやろう。だが、この関東軍を、満州をどうするつもりだ。このようなことをすれば、大本営も黙ってはおるまい。皇道派の青年将校どもと同じ運命をたどるだけだぞ」
「ご心配なく。我々はあのような幼稚な集団ではありません。今回の義挙は周到に計画されたものです。」
前原は梅津の言葉をまともに取り合う様子もなく、梅津が拘束されるのを確認するだけだった。
「失礼いたします。満州国皇宮に突入した丙部隊より入電。『ワレ玉ノ確保ニ成功セリ』」
緊張した面持ちで入室してきた通信兵が、手にしている通信綴を読み上げる。
「おお、最優先目標は確保したか」
『辻参謀』は、喜色満面といった面持ちで手を叩いて感情を露わにする。
「やはり天佑は我らにあり。たとえ、心の臓を銃弾に撃たれようと、我が使命は潰えず」
快哉を叫ぶ辻を横目に見ながら、拘束されて身動きの取れない梅津は睨みつける。
-今は虜囚の身分に甘んじるほかない。だが、このクーデターの企みに綻びが見える時が必ず来る。その機会を待つために今は忍従を良しとするほかない。
そんな梅津の決意を知ってか知らずか、辻は狂気を隠そうともせずに高笑いしながら部屋を去っていった。
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