第54話 暗闘

「このホテルの中にスパイが潜入しているという情報があった。隠し立てしようなら、何が起きても文句は言えんぞ」


 中尉の階級章をつけた憲兵が居丈高に言い放つと、左手で腰のサーベルをわざとらしくカチャカチャ言わせる。その後ろから無言の圧力を加えているのは、直立不動の姿勢で待機している、白地に赤で「憲兵」と染め抜かれた軍服の男たちだった。


 憲兵と言えば軍隊内の不正行為を取り締まるだけではなく、防諜――スパイの取り締まり――もその任務である。難癖をつけられようものなら、拷問を含めた厳しい取り調べの対象になりかねない。


 関わり合いになりたくないとばかりに、ロビーに居合わせた客の誰もが目を合わせないように必死だった。


「わたくしが当ヤマトホテルの支配人でございます。当ホテルは満鉄肝いりのホテル、お国のためとあれば協力は惜しみませんが…」


 困惑しているロビーの受付係の従業員の後ろから、初老の日本人男性が顔を出す。


 さりげなく、私に任せおきなさいとでもいうように受付係の従業員たちの肩をポンと叩く。二人の受付係は支配人を尊敬のまなざしで見ながら、後ろへ下がる。


「すべての部屋を点検させてもらう。宿泊客の名簿を出せ。それに従って部屋を一つずつ改める」


「それは無茶です。このホテルは他国の方も宿泊されておられます。事と場合によっては国際問題に発展するかもしれません」


 やんわりと諭すように言う支配人の言葉は、憲兵中尉には逆効果だった。

 自分のことを馬鹿にしているかのように感じたのか、中尉は抜刀しかねないと思わせる怒気を帯びた顔になる。


「スパイを放置しろというのか、貴様は」


「そのようなことは…しかし、お客様の中には同盟国のドイツのお客様もいたかと。私どもはもし何かありましたら皆様のお立場にも悪影響があるかと」


「くっ…分かった。だが、こちらもスパイを逃す訳にもいかん」


「もし、よろしいのであれば私が部屋の調査に同行いたします。予め私がお客様に丁寧に調査の趣旨を説明しますので、皆様方もどうか手荒な真似は慎んでいただければと」


「分かった。こちらも調査さえ滞りなく済めば文句はない。では早速ついてきてもらおう」


「分かりました。ん?この荷物は?」


 カウンターから出ようとした支配人は、受付へとやってきた従業員が抱えている荷物に気づいた。菓子箱大の紙包みで、綺麗な包み紙で包装されている。


「さきほど、来生という人物に渡してほしいということで預かったのですが」


「おい待て、その荷物怪しいぞ。中身を確かめさせてもらう」


 支配人と従業員の会話に割り込んだ憲兵中尉は、その紙包みをひったくるように従業員の手から奪い取る。

 その瞬間、紙包みから圧搾空気制動装置エアブレーキが作動するような音が響いて、紙包みが破けた。そして、紙包みの『中身』がまき散らしたのはクロロアセトフェノン、一般的な呼称で言えば催涙ガスであった。


 クロロアセトフェノンが人体に与える影響とは涙や鼻汁が止まらないほか、口から吸い込んでしまえば呼吸器を刺激され激しいくしゃみが出る。致死性はほとんどないが、約30分は行動不能に陥ることになる。


 暴徒鎮圧用の非致死性兵器の代名詞として用いられることを証明するような威力を発揮したそれは、律儀に整列を保っていた憲兵隊と運の悪い宿泊客を直撃した。


 催涙ガスの効果範囲外にいたはずのロビーの客も、厳めしい憲兵たちが一瞬で抵抗力を奪われたのを見てパニック状態になる。着飾った紳士淑女が余裕をなくした表情で我先にホテルの出入り口へと殺到する。


 憲兵たちは職業意識を取り戻してなんとか客たちを押しとどめようとするが、まともに喋ることさえできない状態ではいくら憲兵といえど、無力な存在に過ぎない。

 突き飛ばされ、小突かれて脇に追いやられるのが関の山であった。


  

――さすがに通用口も固められているか。


 大竹は廊下を掃除用具の入った手押し車を押して歩いていく。

 通用口へと通じる扉の前には二名の憲兵が、直立不動の姿勢で待機している。


 携行している武器は軍刀サーベルと南部式拳銃といった、陸軍憲兵隊の標準装備である。しかし、拳銃はホルスターに収まったままで、軍刀も鞘に収まったままだ。


 どちらとも屋内での戦闘で使うには不向きの装備である。相手が憲兵に抵抗するとは思っていないのかもしれない。


「待て、そこで止まれ。スパイがこのホテルに紛れ込んでいるという情報がある。身分証の提示と荷物検査をする。抵抗するとためにならんぞ」


 長身の憲兵が大竹が押している手押し車を指さしながら、つかつかと歩み寄る。

 大竹は流暢な満州語で、日本語がよく分からないと答える。


「ええい、ホテルの従業員が日本語が分からないわけがあるか」


「待て、この二人、情報にあったぞ。身長、背格好からして間違いない。大竹と小柴だ」


 ビア樽のような体型の年かさの憲兵が、胸元から写真を取り出して、目の前の二人と見比べる。


「おとなしくしろ、貴様ら。スパイ容疑で拘束する」


 二人の憲兵がサーベルに手をかけようとした瞬間に、大竹と小柴は同時に動いていた。

 大竹は制服の右ポケットから取り出したものを長身の憲兵に向けて引き金を引く。その物体の『銃口』から高圧ガスによってワイヤーと針が射出され、憲兵の首筋に命中する。


 瞬時にワイヤーを経由して高圧電流が流れ、憲兵は筋肉が強制収縮させられた結果として身動きが取れなくなる。海外では軍や警察などで使われる非致死ノンリーサル兵器ウェポンの一種、電気銃テーザーガンである。


 ほぼ同時に小柴も電気銃を発射したが、年かさの憲兵が咄嗟の判断でサーベルを抜くことを諦めて腰を落とし、突進をかけてきた。狙いがそれて命中しなかったのを見て、小柴はすかさず電気銃を放り投げて突進を素手で受け止める。


 鍛えあげた小柴と互角に組み合う憲兵の膂力は大したものと言えた。

 小柴の目配せを受け取った大竹は左のポケットから交換用カートリッジを電気銃に装填する。


 小柴は腰を落として身体をひねると、相撲の打っ棄りの要領で投げ飛ばす。咄嗟の判断で力のコントロールまではできなかったので、投げ飛ばされた憲兵の身体が手押し車にぶつかる。


 横倒しに倒れた手押し車は派手に倒れて大きな音を立てる。 

 大竹は再装填をすませたばかりの電気銃を、投げ飛ばされたものの拳銃に手を伸ばそうとしている憲兵へ向けて発射する。


 憲兵は拳銃を抜く寸前に、額に突き刺さった針からの高圧電流で身体を痙攣させながら白目をむいて気絶した。


「陸軍相撲では負け知らずのこの俺に組み合うとは恐れ知らずめ」


 小柴はそんなことをつぶやきながら、立ち上がる。


「連中、俺たちの事を掴んでいましたね」


「奴が情報を売ったのだろうさ。この新京で起こっていることを知られたくない輩にな」


 大竹は驚いた様子もなく、電気銃のカートリッジを交換している。

 しかし、大きな物音に気付かれたのか、息をつく暇もなく扉越しに大きな声が響いてくる。


「おい、何かあったのか!返事をしろ!!」


「物音を聞かれたのは誤算でしたな」


「問題ない。その程度のことは想定済みだ。手榴弾で迎撃する、衝撃に備えろ」


 小柴から横倒しになった手押し車から回収した鞄を受け取ると、大竹は鞄の中から円筒形状の物体を取り出す。


 即座に規則的に穴の空いているスチール製の円筒の先端部分についているリングに指をかける。躊躇なく安全ピンを引き抜き、扉を僅かに開けると中へ放り込む。


 数秒後、M84音響手榴弾スタングレネードは、期待通りに作動した。スチール製の円筒の中にあるアルミニウムケースに収められたマグネシウムを主成分とする炸薬が炸裂する。


 炸薬による破壊は通常の手榴弾と異なり、ごく最小限に留められる。その代わり、100万カンデラ以上の凄まじい光と、最大180デシベルに及ぶ爆発音が瞬時に発生する。


 的確な防護をとっていない人間にとってこの閃光と音による影響は大きい。目が眩んだり、難聴に陥るだけでなく、方向感覚の喪失や酷い場合には失明すらあり得る。


 腕時計の秒針で時間を読み、閃光と音響が収まった頃を見計らい、電気銃を構えてドアを開いて中へ突入する。


 通用口へ通じる短い廊下には四人ほどの憲兵が折り重なるように倒れ、呻いている。殺傷能力は皆無に近いので外傷のある者はいないようだ。しかし。閃光と爆発音の影響を至近距離で受けたようで、まともに立ち上がることすら困難のようだ。


 廊下を出て右側のガラス戸の奥には守衛らしき初老の男もいたが、閃光と音響に目と耳をやられたせいで、こちらに構う様子があるようには見えなかった


「進路確保。予定通り突破する。」


「了解。こいつらはどうします」


「予定通り、最上級者だけ連れて行く。他は無視してかまわん」


「了解。縛り上げますか」


「時間がない、手と足だけ固定しておけ」


 小柴は頷くと呻いている少尉の階級章をつけている憲兵を、樹脂製のケーブルタイで拘束する。といっても後ろ手に手首を縛り、次いで足首部分を縛るだけだ。それだけでも動きを封じるには十分だが。


 訓練通りの手際の良い作業で拘束憲兵少尉を拘束した小柴は、上から麻袋をすっぽり被せると俵でも担ぐような調子で軽々と担ぎ上げる。


「問題なし。荷物はお願いします」


 小柴のアタッシュケースを受け取ると、大竹は小走りに先頭をきって走りだす。


 次の瞬間、乾いた音が連続して発生する。

 銃撃かと思い身構えるが、それにしては迫力に欠ける音だった。


「『円卓』のお二人ですね。お迎えにあがりました。この場に長居は無用です。先導しますので、ついてきてください」


ホテルの外への通用口から顔を出したのは薄汚れた作業服を着てはいるが、眼光がやたらと鋭い屈強な体格の男だった。大竹が訓練で使用したことのあるグロック17というオーストリア製自動拳銃を左手に構えている。


  顔に見覚えはなかったが、この男も大竹達の『同僚』らしい。

大竹と小柴は無言で頷き返すと、彼の先導に従いながら足早に移動を開始する。


 すでに太陽が傾きかけているホテルの裏庭へ出ると、二人の憲兵が呻き声すらあげられずに苦悶の表情で転がっていた。


「プラスチック弾とはいえ、骨を砕く程度の威力はあります。軍人としての再起は難しいでしょうね」


 男の事務的な説明に大竹はその不運な憲兵たちに一瞥をくれたが、すぐに視線を前へ戻す。


 裏庭には石畳の通路が設けられており、その先には大型の荷物の搬入にも使うことのできる大きい鉄扉が設置されている。鉄扉の鍵は何らかの手段で破壊したらしく、鍵があったと思しき場所には破口部があった。


 男は手慣れた手つきで鉄扉を押し開ける。


 鉄扉の向こうはヤマトホテルの裏の路地につながっていた。


 裏路地とはいっても、車同士がすれ違えるほどの広さの道路と、整備された石畳の歩道がある。


 目視で路上に障害となる者がいないかを確認した男は、鉄扉から少しだけ離れた位置に停まっている禁輸前にアメリカから輸出されたらしいトラックへ、手信号で合図を送る。


 トラックのカーブミラーが反射したのを見た男は小走りに走って、迷うことなくトラックの幌に手をかける。


 幌の中は無人だったが、何に使うか瞬時には判断しかねる道具がいくつも備えつけられているのが目に取れた。


「乗ってください。時間はあまりない」


 大竹と小柴は言われるまでもなく、トラックの荷台へと飛び乗る。幌の中に入ってみて初めて気づいたが、腹這いの姿勢-軍隊用語で言えば伏射の姿勢で大型ライフルを構えていた。M82アンチマテリアル対物ライフルと呼ばれるアメリカ製の大型小銃であった。軽車両にもダメージを与えられる歩兵用としては最大級のライフルだ。


 ライフルを構えた兵士は、のぞき込んでいたスコープから無言で視線だけを大竹と小柴に向ける。しかし、すぐに視線をスコープに戻す。


「聖杯に願望は満ちた、繰り返す聖杯に願望は満ちた。作戦終了だ。現場を最大速度で離脱しろ」


 男はポケットから取り出した携帯型無線機のスイッチを入れると、マイクに対して抑揚に欠けた声で告げた。


 それとほぼ同時にアイドリングしていたトラックのエンジン音がひと際高く響く。停車していたトラックが動きだしたらしく、荷台にも振動が伝わってくる。


「ご注文通り、一人確保した。確認してくれ」


 男は荷台に転がされている麻袋の中身を確認する。 


「問題ありません。これで今回の作戦は成功といっていい」


「一つ聞かせてくれ。この作戦に何の意味がある」


 小柴の問いに、男は怪訝そうな顔をする。


「それは我々が知るべきではない、とだけ言っておきましょう。この仕事をうまくやるコツは与えられている情報の中で最大限の努力をすることです」


 男の言葉に小柴は不満そうな顔で鼻を鳴らしたが、反論する素振りもなかった。仕事は終わったとばかりに硬い荷台の上に横になると、目を閉じる。


 どこまでも神経の太い相方の態度に苦笑する。


「あなたも寝られるなら寝ておくといい。なに、検問に引っかかるような間抜けはしませんよ」


 そう言って男は寝袋を放って寄越す。

 確かに、今日の大竹の仕事はこれで終わりのようだった。


 大竹は寝袋に潜り込むと目を閉じる。

 休める時は休んでおくのが習い性の軍人らしく、すぐに眠気がやってくる。


――この満州で何が起きているのか。おそらくは平成の日本がたどった歴史とは違う「未知の領域」へと歴史のレールは切り替わりつつある。それが日本にどんな影響を与えるのだろうか。


 考えても仕方ないとは思いながらも、眠りに落ちるまで大竹はそれを考えてやまなかった。

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