第53話 蹶起部隊 

「事実からすれば、満洲事変はソ連の赤化戦略への対抗措置であった」

  ‐江崎道朗著『コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書)』より  


 新京市郊外の演習場、といえば聞こえはいいが実態としては見渡す限りの荒野。所々に小高い丘や窪地など手付かずの自然のままの地形が広がっている。


 このあたりは関東軍の所有地とされているため人家はほとんどなく、ごく僅かな満州人の人家も満州国建国間もなく立ち退いたために、軍人以外の人間が立ち入ることはまずない。


 既に日没が近く、演習場各地では集結した関東軍の各部隊が野営の準備を行っていた。


 本当の作戦行動中ならご法度の火を使った調理の許可が出ているらしく、飯盒炊爨はんごうすいさんの煙があちこちで立ち上りはじめている。

 

 輸送トラックの助手席から降りた前原清史郎大佐は、だいぶ贅肉のついた身体を大儀そうに揺らして歩き出す。


 かつては颯爽と騎兵部隊を指揮していた前原だが、昇進してデスクワークをこなすようになってからいささか恰幅が良くなり過ぎた。陸軍の軍服のボタンが今にもはじけ飛びそうな塩梅に見える。


 前原の後ろには影のように副官の大尉が付き従う。 

 大佐の階級章を見た兵士たちは慌てて立ち上がり敬礼をしようとするが、前原は面倒くさそうに手を振って制止する。

 

 前原は演習場を横切って、演習場の数少ないランドマークとなっている農家の前で足を止める。この農家の前でトラックを止めなかったのは、一応機密保持に気を使ってのことだ。

 

 農家は満州人のものを接収したらしい。このあたりの農家としては大きな部類に入る。粗末な玄関の脇には炊事場があり、その奥には板敷の寝起きする部屋がいくつかある。庭を挟んで大きな家畜小屋があり、往時は牛や馬でも飼っていたのだろう。


 玄関に近づくと誰何の声がかかり、三八式歩兵銃の銃口がぬっと顔を出す。


「前原大佐だ、入るぞ」


 その声に幽鬼のような顔の兵士が玄関の奥から出てくる。


「申し訳ありません、大佐殿。いかなる方が相手でも通さぬようにと…」


「構わん、機密保持の重要性は理解している。だが、通せ」


 有無を言わさぬ表情と、軍刀の柄に手をかけた動作に兵の表情に動揺が走る。この距離では歩兵銃ライフルの発砲より、軍刀の斬り上げの方が速い。

 結局、逡巡した挙句観念した表情で兵が項垂れる。


「はっ!申し訳ありません!」


 兵の敬礼に鷹揚な態度で頷いた大佐は、兵士の脇をすり抜けて玄関から中へと入っていく。


 中へ入ると日本家屋で20畳ほどの板敷きの広間があり、その狭い部屋には人いきれで息苦しくなるほどの軍服の男たちが集まっていた。そこに集まっている軍人たちの誰もが熱に浮かされているような顔で部屋の中央に一脚だけある木製の椅子に腰掛けた男を見ていた。


「今、日本は未曾有の危機にある。七十数年後から現れたと称する連中が、神州日本をほしいままにしているのである。果たして、これをそのまま放っておく訳にはいかぬ。諸君、そうではないか!」


 男が気勢をあげると、呼応する怒号のごとき声が応じる。


「断固国体を護持すべし!」

「そうだ!」


 声をあげる連中の顔を見れば、どの顔もまだ三十代にもならぬのではないかという青年将校たちであった。


「たいした扇動者アジテーターぶりじゃないか、ソロモン帰りの参謀殿は」


 ひそひそ声で声をかけてきたのは長田徹治大佐だった。

 三宅坂、つまり参謀本部からやってきた参謀に対するにはあまりに不遜な態度だが、この長田という人物はそれで悪びれるといったところがない。


 参謀という役職も階級も同じだが、長田のほうが先任である。髭ダルマという表現が似合ういかつい顔と蓄えたカイゼル髭、前原に負けない恰幅の良さという外見の人物だった。


 前原が参謀らしい怜悧さを感じさせるのに比して、この男は野人という趣きがある。


「最初は拾い物だと思ったが、いささか毒が回りすぎる」


 前原はそう応じると、ポケットから扇子を取り出して顔を扇ぐ。

 室内は満州の厳しい冬にも関わらず、火鉢の発する熱と人の熱気とで汗が噴き出るほどだった。


「少し外して話そう。いいか」


 長田の言葉に、前原は無言で頷く。

 そして、副官に向かってここで待てと命じる。

 副官は敬礼とともに直立不動で命令を復唱する。

 そんな副官を一瞥もせずに、二人はさりげない動きで部屋の奥へと進んで板戸を開け、廊下へと出た。


 廊下は先ほどまでの熱気が嘘のように、冷気をまとって静まり返っている。長田は廊下の奥の部屋の扉を開けると、部屋へ前原を招き入れた。


 部屋は四畳半程度の狭い部屋で、使用人の部屋にでも使われていた部屋らしい。


「それで、どうだ。国境の様子は」


 氷のように冷たい座布団に腰を下ろした長田は、部屋の中央に置かれた火鉢に豆炭を放り込んで火を点けながら前原に問いかける。


「越境偵察してきたが、ソ連軍に動きはない。シベリア鉄道での兵員や物資の輸送が行われている形跡もない。食糧不足が深刻化しているところを見ると、欺瞞の可能性は低い」


「参謀自ら偵察行動か。よくやる」


 長田の呆れた顔に、前原は無表情で応じる。


「直接自分の目で確かめなければ気が済まない性分だからな。だが、おかげで確信がもてた。ソ連が計画の障害になることはない。少なくとも、短期的にはな。そちらこそ蹶起の準備に問題はないだろうな」


「心配ない、順調だ」


 そう言って長田は豪傑じみた笑みで応じる。


「そう楽観的に言われると逆に心配になってくるな」


「だが、すべてはやってみなければわからん。ただ、参謀本部からの全面撤退命令に対して反発する将兵は思っていた以上に多い。蹶起に必要な部隊を抑えられる目途はついた。」


「問題は敵味方の識別だが、これについては軍服の袖に赤い紐を巻き付けることで識別する。民間人については例の内地帰還命令により、日本人を巻き込む確率は低い。あまり問題視する必要もあるまい」


 今月初めに内地から満蒙開拓団をはじめとする民間の日本人に対しても内地帰還の命令書が出されていた。逆に満州に残ることが許されるのは満鉄職員をはじめとした専門性の高い仕事をしている人間に限られているという。


 民間人の内地帰還は出征による内地労働力の不足を解消するためとされていた。

 

 満鉄職員に聞いた話によれば、満鉄の客車だけでは列車が足りず、ござを敷いただけの貨物列車にまで開拓民で溢れる有様だという。


 それでも、内地での就職、農地保障などが公報されているために、開拓民たちの顔は明るかった。苦労して切り拓いた開拓地を手放すことに不平を漏らす人々もいたが、厳しい自然環境の開拓地から内地へ帰ることのできるという希望が勝っているという。


 そのことが、前原と長田を苦々しい思いにさせていた。満州事変以来、この満州国という国家を護り育ててきたという自負があるからだ。


 だが、軍民ともに撤退することで満洲帝国は日本のための国ではなく、満州人や漢人のための国となってしまう。下手をすればソ連の浸透工作による満洲の共産化という事態まで考えられる。それが二人の共通の危機感だった。


「なんとも皮肉な話だ。だが、同じ日本人同士で銃火を交えるのを最小限にとどめるにはありがたい」


 長田の顔から笑みが消え、本来の職分に応じた冷静な分析を話し始める


「…問題は、いかに梅津参謀長ほか『中央派』を抑えるかだ。できれば、気取られることなく司令部ごと抑えてしまいたい。」


 前原は顎に左手をかけながら、胡座をかいた右足の腿を手の平で叩く。考えを巡らせている時の前原の癖だった。


「そのことだが、内地からのスパイが潜入している可能性がある。先日も新京で妙な波が出ていたのを掴んで、憲兵を差し向けた。蹶起の詳細が掴まれているとは思えないが、警戒するに越したことはない」


「そのスパイの件は気になるが、後にしよう。次は皇宮だな。溥儀と溥傑の身柄を抑えることによって、満州国軍の動きを封じる」


「溥儀や溥傑は最悪満人に担がれても問題ない。所詮、満州国軍など実戦経験のないお飾りに過ぎないからな。唯一面倒なのは航空部隊だけだ」


 前原は切って捨てるかのように言い放つ。


「なるほどな…。一つ聞きたいが、蹶起が成功したとして具体的な政治体制はどうする。俺たちは軍人だ。政治だの経済だのは、俺たちの手に余るぞ」


 長田の言い方はどこまでも率直だった。参謀という役職にしては腹芸などということとは無縁の男だ。


「さしあたっては戒厳令を敷いて軍政を敷くが、いずれは民間の手も借りなければならんだろうな。満鉄の連中に何人か目星はつけているが、すべては蹶起が成功してからの話だ。今から心配しても仕方ない」


「何かにつけて用意周到な貴様にしては珍しい」


「用意は周到だ。だが、戦というのは所詮やってみなければ分からぬものだ」


 前原は冬季装備の軍人がパッケージに描かれた軍用煙草『極光』を取り出すと、火鉢の火で火を点ける。


 しかし、ほとんど無意識の行為なのか、口元へ運ぶことはなかった。


「時に、こいつを見てくれ。例の参謀殿がもってきた代物だ」


 長田は脇に置いておいた参謀行李の中から、赤い表紙の分厚い本を取り出し、前原に差し出す。


「日本史B。八間川出版社、2019年発行だと?」


 前原は受け取ったその書籍を裏側からめくって奥付を見る。


「西暦で言えば今年は1942年、今から78年後の国史の教科書といったところか。これが本物であればの話だが」


「問題は近現代史の部分だ。まあ、見てみろ」


 言葉に従い、前原は『教科書』をめくっていく。


「我々は連合国に敗北して無条件降伏、だと?」


 前原は今から3年の後に広島と長崎に投下されるという新型爆弾、『原子爆弾』が生み出したキノコ雲の白黒写真が掲載されたページの文章を指でなぞる。


「参謀殿の言説を裏付ける物証という訳だ」


 長田は重苦しい口調でそう言うと、煙草を取り出してマッチで火を点ける。

 深く紫煙を吸い込んだ長田は、いかつい顔に似合わない深刻な顔をしていた。


「参謀殿の言説を聞いて朧気には把握していた。こうして『物証』が出て来るとまた違った衝撃があるな。」


 前原は教科書を閉じると、しばし瞑目する。


「貴様も感じるか。この教科書には、独特の匂いがある。この時代の日本人ともアメリカ人とも違う。あまりに異質な思想、経済、政治が生み出した産物だ。ただの本だが、俺たちにとっては爆弾そのものだ」


 長田は前原の顔をじっと観察しながら、紫煙を吹かす。


「つまるところ、こいつは英米の謀略などではなく、本物か」


「断言は出来ん。だが、こんな謀略を巡らせて英米に得があるかと言われると、疑問しかない」


 長田は顎髭をしごきながら答える。


「こいつの出処は…あの参謀殿が言っていたことが本当ならば、本土だ。彼が言うにはその教科書の通りの歴史を辿った本土と、我々の時代の本土がそっくり入れ替わっているのだとか」


 長田が話した言葉を噛み締めるように、前原はゆっくりと頷く。


「軍務さえ無ければ直接確かめに行きたいところではあるが…あいにく我々には本土のことを調べる人員も時間もない。事の真偽を確かめている余裕はない」


「もし、これが本当だった場合、俺たちの蹶起は平成の日本にとってみれば叛乱ということになるだろう。未来の兵器を用いて叩き潰しに来る可能性もあるな」


「いくら進歩した技術があるとしても、この満州は支那とソ連に囲まれた厄介な土地柄だ。つけ入る隙はある。それに仮定の話をしても仕方ない。まずは事を成就させてからだ。すべてはそれから、そう割り切るしかあるまい。」


 そう言いながらも長田の顔には、彼にしては珍しい割り切れない感情を押さえつけるような表情が見て取れた。


「…中央からの全軍撤退命令に憤慨していた時に、あの参謀殿を拾ったのは僥倖か、はたまた悪魔の囁きかどちらか。いずれにせよ、この話は使えると思った。満州を今のような傀儡国家にしておくのではなく、直轄の帝国領土としてしまう好機だ。それは今も変わっていない。仮に本土が妙なことになっているとすれば、この満州を真の皇国とすれば良い。今は満州一国に甘んじるとしても、いずれは本土に攻め上り、玉を安んじ奉れば良いとな。」


 前原は長田に聞かせるというよりは自分自身への言葉であるかのように、滔々と言葉を続ける。


 「南北朝のような話になってきたな。いっそのこと、南朝の帝の末裔でも探し出して推し立てるか」


 長田は短くなった煙草を火鉢へ放り投げ、新しい煙草を紙箱から取り出し、茶化すように言う。


「あれは外国が付け入る余裕が無かったからできた呑気な時代の産物だ。今回は百年単位で内戦を繰り広げる訳にもいかんさ」


 真面目くさった顔で言い返す前原に、長田は欧米人のように肩をすくめる。


「なあ、前原。俺たちはどこまでいっても帝国軍人としてしか生きられん。もはや、やるしかないのだな」


「それは俺も同じだ。俺たちの蹶起がどうなろうとも、俺たちは帝国軍人として生き、死ぬだけだ」


 前原は空になった『極光』の紙箱を握り潰し、火鉢の中に放り込む。箱に描かれた兵士が滲むように燃え広がる炎に灼かれ灰となり果てるまで、前原はそれを飽きずに眺め続けていた。

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