第52話 情報収集
大竹は新京市内のヤマトホテルの一室で、羽毛で包み込まれるような感覚に襲われる高級なソファーに座っていた。小柴といえば、昨日の深酒がこたえているのか、寝室のこれまた上等なベッドの上でだらしない寝姿を見せている。
窓際の部屋の黒檀製と思しき背丈の低い机の上には、大竹が早朝に新京駅のキオスクで買い求めた新聞紙の山が無造作に置かれている。
満州新聞や満州日日新聞などの日本語新聞だけでなく、ロシア語新聞や満州語新聞などの他言語の新聞まで一通りそろえている。
情報収集における基本は公開情報をあたることである。それは機密情報が関東軍によって規制されている満州国であっても変わらない。どんなに規制しようとも、新聞などの公開情報には隠されている機密の尻尾が隠れているからだ。
それはあたかも氷山の一角。海面下に隠されている情報を導き出すには公開情報を多角的に分析することから始まる。
そして、情報分析では届かない機密に対しては、暗号の解読などの通
大竹と小柴は、新京市内に入ってから直接動き回るヒューミントと並行して公開情報の収集を主に行っていた。とはいえ、新京市内では哈爾濱とは比較にならないほど関東軍の将校や憲兵が闊歩している。
その中には二人に面識があるものがいる可能性もあった。
必然、変装は念入りに施し、直接の情報収集は回数を絞り慎重を期して行っている。
小柴の変装は、外出時には鳥打帽に牛皮使用のサスペンダーつきズボンにワイシャツ、イタリア製のジャケットと、羽振りの良い社長風の外見を装っている。大竹の方は髭を伸ばしてべっこうの眼鏡をかけ、革製のスーツケースを両手に持つ、社長秘書風を装っていた。
「さて、仕事をするか」
独り言をつぶやいた大竹は、背広の内ポケットからスマートフォンを取り出し、紙面を次々と撮影する。撮影した画像は衛星通信端末を通じて、東京の戦略偵察局の情報分析官の元へ送られる。
東京に遅れてきた新聞紙面の写真データは、文章部分はOCRソフトで自動的にテキストファイルへ変換、掲載写真適切なサイズに縮小されて同じように保存される。
東京に送信されたデータは、国立国会図書館のデジタルアーカイブに保存されている戦前の新聞アーカイブの中の同じ新聞のデータと照合される。そして、コンピューターのプログラムが「一度目の歴史」と異なっている部分を抜き出す。
その書き換わっている新聞記事の中には些細な食い違いもあるだろうが、満州で結果として歴史を書き換えるような行動をとっている者につながる兆候もあるはずだ。少なくとも戦略偵察局の情報分析官はそう判断していた。
本日付の朝刊をすべて送信し終わるころには、小柴が起き上がってきた。
アールヌーボー調の出窓に置かれていたノートパソコンのキーを叩くと、自動的に画面上部のカメラが小柴を顔認証で認識しログインが完了する。
いくつかのキーを叩くと、ノートパソコンのすぐ隣で三脚に固定されているキヤノン製の業務用高解像度ビデオカメラから送信されてきているデータが表示される。
高性能望遠レンズが捉えているのは新京駅の駅舎へと出入りする膨大な人々の群れであった。
小柴も戦略偵察局で受けさせられた訓練によって一通りの電子機器の扱いは習熟している。
ノートパソコンやビデオカメラの類は元々が民生用の機械だけあって、一度操作を覚えてしまえば明治生まれの小柴であっても扱うことに困難はない。
むしろ電子機器が情報を瞬時に処理出来ることを、頭の中で概念として理解することのほうが難しかった。今でも馴染んでいるとは言い難いが今回の任務に必要だからとなんとか割り切っている。
カメラ映像は瞬時にノートパソコンにインストールされた顔認証システムで処理され、これまた衛星回線で東京のサーバーへと送られる。サーバー側では映像データをもとに、駅周辺の人間の流れを把握することが出来るという訳だ。
カメラは出窓に置いてあるものだけでなく新京市内の重要な施設数カ所に丁寧に擬装した隠しカメラが仕掛けられている。それらのカメラから得られるデータも解析されているので、処理されるデータ量は莫大なものとなる。
なお、ノートパソコンはあくまでクライアント端末なので、性能は極端に高い訳ではない。一応最上位機種ではあるが、あくまで法人向けに市販されている民生品である。
小柴がやるべきことはカメラの映像がきちんと伝送されているかを確かめる程度なので、あまり複雑な操作は必要ない。
おおかたの新聞のデータを記録し終えた大竹は、今度は新聞記事そのものを丹念に読み始める。
「何か気になる記事でも?」
「これを見てみろ。建国神廟やラジオ局の鳥居に油が撒かれた事件がここ数日、何件か起きている」
小柴は大竹が差し出した満州日日新聞の三面記事に目を通す。確かに満州電電のラジオ局である新京放送局社屋の壁に油のようなものが撒かれていた事件の記事がいわゆるベタ記事として掲載されていた。
「テロリストの使う手ですな。悪戯と見過ごす程度の軽犯罪を起こして近くに潜み、発覚するまでの時間や、駆けつける人数を測定し、警備体制を炙り出す。先日の座学で叩きこまれた内容ですから、すぐに思い出しましたわ」
「この周辺で何事かを起こすつもりの『誰か』がいるということだ。そして、油が撒かれた施設の多さから、単独犯ではなく組織が関わっていることは容易に推測できる」
小柴の操作していたノートパソコンをタッチパッドとキーボードを操作する。
「向こうからのメッセージが届いた。どうやら、こいつがこの油撒きを指揮している人物だ」
東京の情報分析官から、解析結果が届く。
メールによると直接「犯行」をしているシーンまではカメラで捉えられなかったが、行動解析からこの人物である可能性が高い。
「眼鏡を着用、背丈は約170センチ、痩せ型。氏名はその他の素性は不明。骨格から日本人と推定、か。こいつはおそらく軍人だろう。筋肉の付き方からして、おそらく歩兵や騎兵といった前線に出る兵科じゃない。輜重か通信、そんなところだろう。兵士ではなく、将校だ。年齢相応に軍歴を重ねていれば中尉か、あるいは大尉というところだろう」
「見たことのない人物ですな」
「俺もこの人物と接触があった記憶はない。容貌が平凡なこともあるが、この満州で人混みに紛れられたら探し出すのに苦労しそうだ」
「スパイ向きの人材とも言えますな」
「予断は禁物だが、その可能性もある。ともあれ、情報を整理して見よう」
大竹の言葉に、小柴は珍しく真面目な顔で頷く。
「関東軍の本来の歴史にない大演習計画。関東軍軍人のテロリストに類似した奇妙な行動。これが意味するものはなんだ」
大竹は大量の資料をチェックしながら、思考を巡らせる。
だが、その思考はすぐに中断されることになる。
ノートパソコンが走らせている顔認証プログラムが、警告音を発していた。軍服や警官の制服、あるいは登録されている要注意人物がホテル内の隠しカメラに写った場合に自動的に警告音が鳴るようにしてある。
警告表示をクリックすると、カメラ映像が表示される。その映像ではホテルロビーに陸軍軍人と思しき軍服の一団が、従業員に詰め寄っている姿が映っている。
「憲兵だ。まさか正面から軍服で乗り込んでくるとは思わなかったが。連中にも焦りがあるのか」
大竹は訝しむ表情をするが、行動は素早かった。すぐにノートパソコンを閉じて革製の鞄へ放りこんで右肩にかける。小柴もカメラを取り外して三脚を折り畳むと、金属製のアタッシュケースに収納する。
訓練を重ねた動きなので、すべての装備を収納するのに五分とかからない。
「さて、長居は無用だ。予定通り脱出するぞ」
小柴は無言で頷くと、装備の入ったアタッシュケースを抱える。
二人は廊下に出ると、周囲をさりげなく警戒しつつ廊下を進む。
そして、突き当りの用具室と書かれた部屋の前へ来た。
内部に人の気配はない。
施錠がされていないことは確認してあるので、迷うことなくドアを開ける。
掃除用具やリネン用品が置かれたスチール棚が並ぶ薄暗い部屋を移動した二人は、部屋の奥の方に移動して一つの棚の前で足を止める。
その棚には掃除用具と清掃作業員の作業服が整理されておかれている。協力者のホテル従業員にあらかじめ用意させておいたものである。
アタッシュケースと革製の鞄は掃除用具を載せた手押し車の隠し収納へと収納する。
「この背広、それなりに高かったんですがねえ」
「お前の財布から出たカネでもあるまい。さっさと着替えろ」
小さな声でぼやく小柴に、大竹はにべもない。
二人はあっという間に軍人特有の素早い着替えで、ヤマトホテルの清掃作業員へと変化していた。
「さて、行こうか」
「了解。さて、満鉄が誇るヤマトホテルの清掃作業と行きますか」
「問題は通用門が抑えられているかどうかだな。行くぞ」
小柴のまったく緊張感のない声に大竹は無表情で応じ、手押し車を押して廊下へと出て行く。モップを持った小柴は大柄な体を窮屈そうに縮めてそれに従った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます