第51話 ヨシフ・スターリン
「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」
-ギルバート・ケイス・チェスタートン
昭和17年(1942年)12月16日 クレムリン宮殿 書記長執務室
「同志スターリン、同志ベリヤが入室されます」
「よろしい、通したまえ」
その部屋の主は特徴的なカイゼル髭をしごきながら、テーブルに置かれた地図をのぞきこんでいた。その表情がいつも以上に険しいものであることに気づいた秘書官は、背筋にドライアイスを押し付けられたような表情になる。
主のご機嫌を少しでも損ねたならば、自分が明日にはシベリアで木の数を数えていることを理解しているからだった。
主の名前はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン。
「鋼鉄の人」を意味する名を持つソビエト連邦共産党の偉大なる指導者にして、ロシア帝国を滅ぼしたレーニンの衣鉢を受け継ぐ冷酷な独裁者であった。
敵手たるアドルフ・ヒトラーを上回る、ありとあらゆる政敵や反動分子を粛清と言う名の虐殺で葬り去った。「一度目の世界」では、毛沢東と並ぶ人類史における虐殺の
「ベリヤであります。定時報告に伺いました」
部屋に入ってきたのは眼鏡をかけた神経質そうな男だった。
ラヴレンチー・ベリヤという名のこの男はのちに判明したソ連における『大粛清』の実行者であった。
国内の秘密警察、対外諜報などを統括する
近年では独ソ戦―ソ連側の呼称で言えば『大祖国戦争』-遂行のため、ドイツ系少数民族の強制移住や脱走兵の処刑、スパイの摘発などで多忙な日々を送っていた。
さらに1940年に起きた、ポーランド人捕虜の大量虐殺事件として悪名高いカティンの森虐殺事件の首謀者でもあった(『一度目の歴史』で事が露見するのは、その3年後のことである)。
ソ連崩壊後に公開された資料によれば、病的な小児性愛者でもある。そして、その趣味のために権力を振りかざすことに躊躇いをもたない男であった。
「スターリングラードですか」
ベリヤは地図に置かれた赤軍部隊を示す赤い駒を見ながら、天気を告げるような口調で言った。
この地図が示す現実は瓦礫と炎、飛び交う銃弾、魂消る悲鳴といった風景だが、このクレムリンの書記長執務室から見えるのは地図上に書き込まれた簡素な記号と駒の数々だけだ。
「第六軍は包囲して二週間近くだ。我慢強いドイツ人もだいぶこたえているだろう」
ソ連軍はこの時期、ソ連領内に進攻してきたドイツ第六軍を逆包囲することに成功していた。ドイツ側といえば、ヒトラーが命じた総統命令第41号、スターリングラード攻略命令に縛られて、一時的な後退をしたくても出来ない状況にあった。
この一連の戦闘こそが『スターリングラード攻防戦』と呼ばれる、独ソ戦の一大転換点となった戦闘であった。
「ですが、前線では食糧不足が深刻化しております。このままでは士気の低下も避けられないものかと」
「アメリカからのレンドリースによって、モスクワの食糧事情は改善した。が、前線までは行き届いていないということか」
アメリカは北太平洋経由で膨大な物資をソ連へ送り込んでいた。
日本軍の敷設した機雷による被害も相次いではいるが、彼らの戦力の多くは中部から南部の太平洋へと向けられている。
そのため、多くの輸送船団は極東の港湾に膨大な量の物資を届けている。合衆国の輸送船が満載した食料、武器、弾薬などの
「は。赤軍の補給部隊も努力はしておるようですが、いかんせん鉄道輸送の能力には限界があります」
「赤軍の掃除は十分なものだったとは思うが、サボタージュの可能性もあるかな」
「それに関してはお任せください。モグラは徹底的に狩り出します」
「とはいえ、輸送能力の不足はいかんともしがたいか…」
スターリンは苦り切った顔で、机を拳で小刻みに叩く。
今は表面上ドイツ軍を追い込んだ形になってはいる。が、もし前線の食糧事情がこれ以上悪化すれば、今度はソ連が
スターリングラードという都市は輸送拠点としてそれなりに重要な都市ではあったが、それ以上に国家指導者の名前を付けた都市を奪われるということは国家の威信を大きく傷つけることにつながる。
だからこそ、スターリンは危険を冒してスターリングラードを攻めていた第六軍を包囲させる冒険的な作戦を了承したのだ。
「ありとあらゆる食糧をかき集めて前線に運ばなければならん。いかなる手段を使ってもな。それに関連する『面倒ごと』は貴様に任せるぞ。場合によっては『口減らし』をすることも考えなければならん」
「は、おまかせください。ありとあらゆる手段を使い、食糧調達と治安維持を両立させましょう」
「任せる。必要な書類についてはいつでも決済する。…さて、何か報告があるのだろう?」
「ございます。こちらをご覧ください」
ベリヤは答えながら、一つの
「『
「『リシーツァ』は満州の日本軍に動きがない限りは休眠している予定の
「満州の日本軍が動くというのか」
スターリンは机の上の地図ではなく、壁に貼られた世界地図の方に目をやる。
「その兆候が見られるということです。通信解析とスパイの報告により判明しました」
スターリンは1939年、ソ連と満州の国境地帯で起きたハルハ河事件(日本側の呼称はノモンハン事件)で日本軍との戦闘を指揮したゲオルギー・ジューコフ将軍と面会した時のことを覚えていた。
「一度目の世界」の戦後の話であるが、ジューコフは新聞記者に「軍人としての生涯の中で、どの戦いが最も苦しかったか」と質問を受けた時のことだ。
記者たちは独ソ戦でのクルスク大戦車戦などの答えを期待していたのだが、ジューコフは即座に「ハルハ河(ノモンハン事件)」と答えている。
当時の赤軍は、『大粛清』から間もなく士気が低下していた影響もあった。
とはいえ、自走砲や戦車などで機械化された重装備と兵員数で力押しする赤軍に対し、日本軍は限られた火砲と旧式な戦車、
東京の不拡大方針による限定された兵力で、多数の損害を受けつつも、日本軍は最後まで戦線を崩壊させずに戦い抜いた。
ソ連側は戦争目的であるソ満国境線をソ連側有利に改定させることは出来たが、スターリンをはじめソ連首脳部には日本軍の手強さが強く印象づけられることになる。
後に日ソ中立条約が締結されたとはいえ、ヤルタ会談での密約があったにも関わらず参戦を控えていたほどだ。結局、ソ連派日本に原子爆弾が投下されるまで対日参戦に踏み切ることはなかった。
反面、スターリンは大きすぎる損害を徹底した秘密主義で隠し通すことに成功したという側面もある。日本はノモンハン事件を損害の大きさから惨敗と判断し、対ソ融和へと舵を切ることになる。
結果として現在ソ連は対独戦争に集中することが出来ている。まさにソ連の戦略的勝利と言えるし、日本側の情報分析の拙さを物語る出来事とも言える。
「太平洋でアメリカ軍との戦闘を続けているにも関わらず、日本軍が国境線を越えて侵攻してくるなど考えられん。日本の国力から言って、そんなことは不可能だ」
自らが二正面作戦を避けるためにありとあらゆる努力を払ってきたからこそ、スターリンには日本軍の行動が理解出来なかった。
そして、かつての日露戦争で自国の軍隊を破り、つい先日ハルハ河の国境紛争で圧倒的に有利な条件下であるにもかかわらず勝利しきることができなかった苦い記憶とが重なり、恐怖と言っていい感覚に襲われていた。
優秀な独裁者の多くがそうであるように、スターリンは敵を過小評価することがいかに危険かを知り抜いていた。
「しかし、彼らが大規模な演習を計画しているのは事実です。無論、我が方を牽制するためのブラフである可能性が高いのですが」
スターリンは執務机へと移動すると、詳細に報告を読み始めた。
彼の脳裏でいくつもの可能性が検討され、蓋然性が低いものが消去されていく。
やはり、この奇妙な大演習は牽制であるとしか思えなかった。
中国大陸では国民党軍との戦闘、『
その状況で動かせるのは満州に駐留している部隊のみで、それは多くても数個師団規模のはず。とてもではないが、ソ連軍の背後を突くのに十分な数ではない。
常識的に考えれば、日本軍に警戒すべき要素はない。
報告書の最後の部分で、スターリンはページをめくる手を止める。
そこには、関東軍内部で陸軍中央への不満が高まっているという情報が書かれていた。他の陸軍部隊がシンガポール要塞やコレヒドール要塞攻略などの武勲を立てているのに対し、関東軍は国境警備や治安維持などの地味な任務に従事する日々を送っているからだという。
内容自体は叛乱につながるほどのものではないが、利用価値はあると報告書には書かれていた。
「しかし、先日の硫黄島での戦闘に関する情報と、この演習とが関連している可能性もあります。軽視すべきではないかと」
「イオウジマフィルムか。あの新型兵器が実際に存在すると思うかね?」
「兵器の専門家ではないので、肯定も否定も出来ません。ただ、個人的な感想ではありますが、ロケット兵器の進化の延長線上にある兵器ではないかと」
「なるほどな。そういう見方もあるか」
「は。日本が満州で二正面作戦を考えているのも、あの新型兵器の威力に自信を抱いている可能性もあるかと」
「そうか。この件については赤軍情報部からも後ほど意見を聞こう。しかしだ…予備兵力は払底している。とてもではないが、極東方面への兵力移動など不可能だ。その上、正体不明の新型兵器があるとなると、単に兵力を増派すればいいという訳でもないだろう」
スターリンは髭をしごきながら、モスクワを中心とした地図を眺める。バクー油田など資源地帯を守りきったものの、ソ連領内からドイツ軍を叩き出せたわけではない。
来年の春、雪解けの泥濘が乾ききったあとにおそらくドイツ軍は再攻勢でこのモスクワを狙うだろう。「兵士は畑から取れる」と揶揄されるソ連軍とはいえ、無限の兵力をもっている訳ではないのだ。
「また専門外の話ではありますが。あの新型兵器が量産化されて各戦線に配備されているとは限りません。戦略的な意味すら持つ新型兵器のこと、試作された兵器を一挙に投入して最大限の政治宣伝効果を狙ったという見方も出来ます」
「兵器は数を揃えねば意味がないということか。参考意見としては聞いておこう」
「いずれにせよ、連中にはこちらに手を出している余裕など無くさせるのが一番かと」
「どういうことだ」
「簡単です。赤軍を動かせないのであれば、日本人自ら踊って貰えばいい」
「詳しく話を聞こう
「我々NKVDに、かねてからこのような事態に備えての計画がございます」
ベリヤはそう言うと、もう一つのファイルを取り出す。
その表題にはアクラ計画と題されていた。
「…残念ながら我が国からのスパイの潜入は困難かつ時間を必要とするでしょう。現地の協力者に頼ることになるかと思われます」
「スパイという砕氷船を使う訳か」
スターリンはファイルを指で叩きながら、常人では耐えられないほどの重圧を感じさせる視線を送る。
ベリヤは表情一つ変えずに答える。
「まさに『砕氷船のテーゼ』通りであります。正規軍を動かせないのであれば、非正規を動かすまで」
「最悪の場合は、満州に築いたスパイ網が全滅する可能性もあるか。しかし、それを考慮しても二正面作戦を余儀なくされる可能性を潰されるよりはマシ、か」
「無論、可能な限り我が国が関与したという証拠を掴まれないようにする必要があります。」
「わかった。詳細はNKVDに任せよう。くれぐれも情報漏洩など無いようにな。一応かの国とは中立条約を結んでいるのだからな」
スターリンは『アクラ計画』のファイルに書記長の承認スタンプを押すと、ベリヤへ向けて突き返した。
「お任せください。満州の日本人どもが北を意識する暇を与えぬよう、かき回してやるとします」
「くれぐれも慎重に事を運びたまえ。我々はこの戦争を失うことは許されない。ドイツとの戦闘の最中に後背を突かれる事態があってはならん」
「は!それでは失礼いたします」
ベリヤが部屋を後にする姿に視線を送ることもせず、スターリンは自らの名を冠した都市で行われている戦争の戦況に視線を戻した。
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