第50話 接触
あのソロモンで辻正信を撃った事件で拘束された大竹と小柴は国防軍の営倉に留置されていた。数週間は差し入れられた雑誌や書籍と向き合う読書の日々が続いていた。
そしてようやくこの日、大竹と小柴は猪口戦略偵察局長に呼び出された。
「辻正信への銃撃は事件は『無かったこと』として処理します。そのかわり、あなたたち二人は『戦死』したことにさせていただきます」
猪口局長はまるで天気の話をするかのような口ぶりで、あっさりとそんなことを言った。 口元には微笑が浮かんでいるが、目だけは笑っていない。
「もちろん、今後日本国内で生活するために必要な
「そんな見返りを用意して、俺たちに何をさせるつもりだ?」
大竹の口調は猪口の奇妙な申し出を警戒していることがありありと分かる刺々しいものだった。
「だいたい想像はついているでしょう。我々戦略偵察局の局員として活動を行ってもらいます。まあ有体に言えばスパイですね」
「
「ええ、我々は帝国陸軍の内情に詳しい諜報員が喉から手が出るほど欲しいのですよ。そのためなら戦地での『事件』をなかったことにすることなど安いものです」
猪口の眼鏡が夕刻の日差しを反射してキラリと光る。
「そのうえ、大竹少佐。あなたには関東軍情報部で情報将校をしていた経歴もある。情報収集のイロハくらいは心得ているはず。まあ、我々のやり方や装備に合わせて再教育を受けていただきますがね」
「理解した。どのみち俺たちに拒否権はないのだろう。陸軍に戻れないのなら、どこへ行こうと同じだ」
大竹はつとめて表情を表に出すことなく応じる。
職業軍人として過ごしてきた陸軍という組織に未練がないわけではなかったが、そもそも帝国陸軍は、このままいけば外地にいる部隊もいずれ国防陸軍という新組織に統合される。
それに、辻正信を撃てと命じた時から、自分の命はとうに尽きたものと考えている。ならば、どんな形でも祖国に貢献できればそれでよい。
思っていたよりも、大竹の心中に未練は残っていなかった。
「あいにく俺は特務機関のことは分からないんだがな」
どこか不機嫌そうな小柴曹長に対し、猪口は口元を歪めながら答える。
「正直なところを言えばあなたは少佐のオマケです。ただ、あなたは下士官としては有能だ。大竹少佐の補佐役はどのみち必要ですからね」
「オマケか…まあいいさ。どのみち少佐にはとことん付き合うつもりなんでね」
小柴は猪口への嫌悪感を隠すつもりもないのか、吐き捨てるように言う。
「結構、それでは話は決まりですな。ようこそ、戦略偵察局へ」
猪口が浮かべた笑顔は、魂を売り渡す契約を迫る悪魔のそれに見えて仕方なかった。
大竹と小柴はそれから、沖縄北部の山中に設けられた訓練キャンプで、一通り情報員としてのイロハを再教育された。基本的な訓練課程ではすでに大竹が習得しているものと違わないものもあったが、はるかに進化した通信機や各種情報機器、銃器の取り扱いに関する訓練ではそれなりに苦労させられた。
その訓練の日々を潜り抜けた二人に与えられた最初の任務が、満州国に駐留している関東軍の内情調査であった。
日本政府はこの時期、世界各地に展開している帝国陸海軍部隊のうち、撤退させても問題ないと判断した部隊から陸軍部隊は沖縄や北海道、海軍部隊は呉や横須賀、佐世保に向けて移動を開始させていた。
理由の第一は日本政府の命令に反抗する可能性のある部隊を海外に展開させたままでは、今後の停戦交渉に差し支えが出るという政治的な判断からだった。第二の理由は、戦線を整理して南方の資源地帯と日本本土を防衛するだけでも、国防軍だけでは人員が不足するという事情もあった。
ハイテク兵器が扱えず、平成日本政府へ服属するか怪しいところのある旧軍も、再教育と装備の更新さえすれば後方の警備や補給などの補助戦力としては使えるというのが、政府の判断であった。
ちなみに、一定の年齢以上の軍人に関しては、ごく一部の例外をのぞいて、軍人恩給を見返りに予備役に強制編入という措置が取られた。
当初懸念されていた陸軍北支派遣軍を中心とする大陸からの撤退は思ったよりもスムーズに進んだ。内地へ帰還した部隊の将兵からは、変わり果てた内地の風景に動揺や憤慨する将兵もいたが、懐柔と威圧といった硬軟取り混ぜた対応により大事にまでは至っていなかった。
なにより効果を発揮したのは『玉音放送』であった。
しかし、陸軍の満州国駐留部隊である関東軍の撤退は思うように進んでいなかった。 歴史上陸軍中央に対しての独断専行で知られる関東軍に対し、慎重を期して玉ねぎの皮を一枚ずつむくように、少しずつ南方への戦力抽出を名目に部隊移動を命令。
十分に戦力をはぎ取り終えたと判断した政府は、最後に暗号電で関東軍の全部隊と司令部そのものの内地への帰還を命じていた。
しかし、その命令の期限から二週間以上過ぎているにも関わらず、関東軍は撤退する様子を見せていない。
今後の平成と昭和、二つの時代の日本の融和のためには、可能な限り流血は避けたいというのが日本政府の基本方針ではある。
しかし、もし平成日本政府を正統政府として認めず、反乱を起こす部隊が出た場合は、既に整備を終えた国防軍法における反乱罪を適用して速やかに鎮圧するということも決められている。
それに加えて、満州国は日本の事実上の保護国とはいえ、他国に駐留する軍隊である。反乱が起きた場合、満州人に被害が出る可能性もある。
外交問題に発展する可能性もあるため、日本政府としては可能な限り慎重に情報収集を行う必要があった。そのため、現地の情勢を直接探る
場所柄、ヒューミントを行う人間は旧軍内部の情報に詳しい必要がある。
大竹と小柴はそれに最適な人材という訳だった。
大竹と小柴が満州国の大都市である哈爾濱の街外れにある満州人経営の中華料理店の奥のテーブルを占領している背景にはそんな事情があった。テーブルの上には炒飯や餃子といった日本人にも馴染みのある支那料理が並んでいる。
近辺に日本人が多く住んでいることもあって、店のメニューも日本人の舌に合わせているものが多い。一方、
店の中には満州語や北京語、はてはロシア語まで混ざった会話が、背景音楽のように流れている。それに反して時折流れてくる日本語の会話は遠慮がちなものばかりだった。
店の中央には大きな鋳鉄製の薪ストーブが置かれており、その上には大きな薬缶が置かれている。そのおかげで、氷点下十数度まで下がる満州の寒さにも関わらず、店内は春の日差しの中のごとき陽気であった。
薄汚れた丸窓から見えるのは、帝政ロシア時代の建築様式が特徴の街並みが街灯に照らされている風景だった。
足早に家路を急ぐ洋装の勤め人に、重い荷物を載せた大八車を引っ張る
店の狭い入口を入ってすぐのカウンター席の隅には、古ぼけたラジオが李香蘭の唄う『蘇州夜曲』をひびわれた音でがなり立てている。
大竹は紹興酒をちびちびと飲んではいるが、目は酔ってはいない。口元にすっかり蓄えられた髭をしごきながら、内面の思考へ潜り込んでいる。
「少佐殿」
小柴曹長に呼ばれて、大竹は顔をあげる。
「少佐殿はやめろ。俺はもう少佐ではないし、貴様も曹長ではないのだからな」
「そういえばそうでしたな」
小柴はニヤリと笑うと、どこで仕入れてきたものなのか怪しい日本酒の注がれたお猪口をあおる。
「それにしても満州は活気がありますなあ。戦時中なぞどこ吹く風といった具合だ。なにより、酒が存分に飲めるというのがいい」
「満州国にこの戦争は直接関係ないからな」
大竹は本当に酒を飲んでいるのか疑わしいような、顔色の変わらぬ様子で答える。大竹は酒にはめっぽう強く、相当飲んでも酔う様子を見せない。
身体の割には酒には弱い小柴は、苦笑せざるを得なかった。
「…しかし、なんとも奇妙なことになったもんですなあ。満州に再び帰ってくることになるとはね」
「もう過ぎたことだ。それに軍籍はなくなっても祖国へ奉公することには変わりない」
つくづく後悔というものを見せない人だ、と小柴は内心呆れたらよいのか感心したらよいのか困っていた。将校という立場なら、もう少し軍人として積み上げてきた地位や栄誉、そして恩給に未練があっても良さそうなものだが。
清廉潔白であるというよりは、この人にとって単に興味の対象外なのだ。
「いい夜ですな」
唐突に話しかけてきた男は、明らかに仕立ての良いダークグレーのスーツを着ており、髪は整髪料でオールバックに固めている。いかにも伊達者といった、洒落た洋装の出で立ちであった。
流暢な日本語ではあったが、小柴の経験上十中八九日本人ではない。頬骨の形状や小さな目から察するに、おそらくは満州人か蒙古人。漢人ではないだろう。
「張鼓峰の鶴は飛び立ちましたか」
「今宵も飛ばないようです」
符丁のやりとりを終えた男は、さも当然のように円卓を挟んで向かい側に座った。
座る度に軋む音を立てる背もたれのない丸椅子に腰掛け、胸元のポケットから紙巻き煙草とマッチ箱を取り出す。 満州煙草株式会社製造の天馬の描かれたデザインの紙箱から一本取り出して火を付けて吸い込むと、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
「久しぶりだな、『柴田』」
「旦那とまた生きて会えるとは思っていませんでしたよ。男は煙草のヤニで茶色く変色した歯を剥き出しにして笑ってみせた。
「満調もそろそろお役御免になりそうですよ。ま、元々正式な部員ではありませんでしたがね。
さらりと満調という言葉が出てきたことに思わず小柴は眉をぴくりと動かす。
正式名称は満鉄調査部、国策会社である満州鉄道の組織内にありながら、シンクタンクとしての機能を有する情報機関であった。
特に有名なのは「支那抗戦力調査」である。ゾルゲ事件で暗躍した共産主義者、尾崎秀美が関わっているこの調査は日本軍が国民党軍に対して戦略的勝利を得られないであろうという予測を立てている。結果として、それは「一度目の歴史」では的中することになったわけだが。
「私に言わせれば遅きに失していますな。せめてゾルゲ事件のときにでもやるべきだった。白系ロシア人の『友人』に言わせればですが、ね」
「主義者狩りか。ソ連に何か動きがあるのか」
「さてね。連中は
「だからこそ、かもしれんがな。まあいい、本題に入ろう」
「了解。関東軍は大規模な演習の準備に入っとります。正式な発表はまだありませんが、現在満州に駐留している部隊のうち、国境警備などの動かせない部隊をのぞいてほぼ全力を動員中ですわ」
「この戦時中に演習?参謀本部から撤退命令が出ているのにか」
「撤退命令の件は知りませんでしたな。しかし、新京郊外に陸軍部隊が集結しつつあるのは事実ですぜ。航空部隊の方までは動かしていないようですがね」
そう言いながら柴田は陶器の灰皿に煙草を押し付けて火を消し、二本目の煙草を紙箱から取り出す。
「関東軍の司令官は梅津大将だ。元々跳ねっ返りの多い関東軍の重石に相応しい慎重な人物だ。その梅津大将がいたずらにソ連軍を刺激しかねない演習を、独断専行するとは思えないが」
「さすがに演習の意図までは分かりませんや。私の情報網ではその資料に書いてある情報が限界ですぜ」
「いや。十分だ。ご苦労だったな。これを取っておけ。約束どおり、バラの米ドルだ。」
柴田は茶封筒にぎっしりと入ったドル札の束を確認もせずに受け取り、ポケットに収める。
「それでは、私はこれで消えさせてもらいますわ。満州でお会いするのは、今回が最後だと思いますがね」
男は注文もしないままに立ち上がってカウンターの方へ歩いて行く。そして、店主に満州語で声をかけると、何枚かの紙幣を茶封筒から抜き出してカウンターへ置く。
落ち窪んだ目で睨みつけるような視線を浴びせつつ、店主はその紙幣をむしり取ると、さっさと出て行けとでも言うように二人に顎でしゃくる仕草をして見せる。
そして、店主は何事もなかったかのように調理場へと戻っていった。
欧米人のように大げさな動作で肩をすくめると、柴田は無造作に刷り硝子の引き戸を開けた。大きな軋む音が耳障りに店内に響く。
柴田の背中は、寒風吹きすさぶ哈爾濱市街へとあっという間に消えた。
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