第49話 暗号通信

 昭和17年(1942年)12月1日 満洲帝國首都 新京市


 関東軍司令部に勤務する進藤伊輔大尉は、その日も足早に帰路を急いでいた。

 独身者である彼は蓬莱町の一角にある和風の借家に一人住まいしていた。


 人口が65万人を突破するこの新京市では、市内に借家とはいえ一軒家に住むのは贅沢な部類に入る。


 といっても、一家族が住むにはいささか手狭に見える間取りの平屋建てに、猫の額ほどの庭しかない。独身者で軍人の常として身の回りの物を少なくする習慣のついている進藤大尉にはそれでも広すぎるくらいであった。

 

 進藤大尉は革鞄を小脇に挟みながら玄関の鍵を開け、冷気に満ちた玄関に入る。

 外套と帽子を脱いで玄関の外套掛けに欠ける。

 

 12月の新京は日が落ちると急速に冷え込み、氷点下になることも珍しくない。

 外套を脱ぐと突き刺すような冷気に襲われるが、進藤大尉の能面のような表情は揺らぐことはなかった。


 居間へ移動して、火鉢へ火を入れたことでようやくゆっくりと部屋が暖まり始める。


 軍服を脱いで紺絣の着物に着替え、その上から褞袍どてらを羽織る。

 くつろいだ格好になった彼は、線香に火を着けると簡素な仏壇の前の座布団に座って手をあわせる。 


 『華純優美信女』と墨痕鮮やかに書かれた白木の位牌だけが、彼の姉がこの世に残した全てだった。

 彼女はその戒名にはまるで不釣り合いな線が細く病気がちな女性だった。感情の起伏に乏しく親をして何を考えているか分からないと言わせる伊輔を常に優しく見守ってくれたひとだった。


 後に伊輔は在郷軍人の親戚の援助もあって陸軍士官学校に進学した。やませによる冷害を原因とする飢饉が東北地方を襲ったのはその直後であった。折悪しく昭和恐慌の真っ只中であり、貧しい小作農に過ぎなかった進藤家はたちまちのうちに干上がった。


 財産と呼べるほどのものも無く、華江は自ら進んで遊郭へ身売りすることを願い出た。娘を売らざるを選なかった進藤の父は自責の念からか、滅多に手をつけることのなかった酒に毎夜溺れた。愛想をつかした進藤の母はほどなくして家を出ていった。


 士官学校を卒業して任官を間近に控えて一時帰郷した進藤を出迎えたのは、肝臓を悪くして床に伏せる父親。そして、わずかな骨と粗末な位牌だけの姿になった姉の姿だった。病弱な姉の身体は過酷な遊郭の生活に耐えることが出来なかったのだった。


 内心は荒れ狂っていたが、床に伏せる父親に怒りをぶつけることも出来ず、伊輔は逃げるように軍務へと戻っていった。その後郷里を訪れることはなかったが、伊輔の内心には後悔と、どこへ向けていいか分からない怒りが燻り続けている。


 おそらく、この怒りはこの世のすべてを焼き尽くしてしまわなければ収まらないだろう。俺は何にこんなに怒っているのか。


 膨大な軍事費、あるいは半島や大陸に湯水のようにカネをつぎ込み国民を顧みない政府か、はたまた貧困に喘ぎ隣人を気遣う余力もない郷里の人々か、あるいは娘を守ることすらできぬ無力な父か。


 あるいはこのろくでもない世の中を作り出した神というやつか。

 そして伊輔はその怒りとともに何事も信じない精神と、虚構と惰性で前へ進み続ける身体を作りあげた。そして、今日までを無為に過ごしてきた。


 線香の煙が立ち上る光景の向こうに、そんな過去の幻影が見えた。

 伊輔はその幻影を断ち切ろうとするかのように勢い良く立ち上がる。


 部屋の隅に置いてある小さな本棚の最上段に入っている十数枚のレコードのうちから、ある一枚を取り出す。ベニーグッドマン楽団、そのレコードを演奏しているアメリカのジャズ楽団の名前が書かれたレコードだった。


 このレコードの中でも、有名な曲らしい「シング・シング・シング!」という曲が伊藤のお気に入りだった。


 本土にいたならば、軍人が聞くなどもってのほかの「敵性音楽」だが、この満州国の片隅の借家でレコードの音を響かせても咎めだてする者などいない。数少ない私物の蓄音機にレコードを丁寧にセットし、針を落とす。


 ほどなくしてパチパチと何かが弾けるような独特の雑音が響き、軽快なジャズの音楽が、うすら寒い部屋を暖かく満たしていく。

 伊藤はこのジャズという音楽が好きだった。


 浪花節の類の音楽にはまるで興味が無かったがこの『スィング』と呼ばれる独特な踊りだしたくなるリズムは好きだった。これを聞いていると、自分の無意味な人生にも何かの救いがあるような気がした。


 その音楽に関わる人間が、「自由と民主主義」とやらの国で虐げられている黒人やユダヤ人であることも、底辺の人間である自分にとって身近に思えるのだった。


 そのお気に入りの音楽をこれからやろうとしていることの偽装の道具としようとしている自分がやけに可笑しくて、暗い笑みを浮かべる。


 盗聴器を仕掛けられていたとしても、彼が何をやっているのか知ることは難しいだろう。


――どだい、こんな明るい音楽には縁のない人生だ。  


 そして文机へと移動すると、机に立てかけてあった革鞄の中から一冊の本を取り出す。


 職場である関東軍司令部に向かう途中にある古書店で購入した本土の古雑誌、『新青年』第十七巻だった。昭和11年2月に発行された雑誌で、表紙には『探偵小説傑作集』という見出しが踊っている。この号は海野十三が『深夜の市長』なる新連載を始めた号でもあった。


 伊輔が知る由もないが、戦後は江戸川乱歩や横溝正史といった推理小説作家が活躍する雑誌である。


 伊輔は雑誌に連載されている作品群には見向きもせず、雑誌の半ばほどのページを開く。そのページには少し見ただけでは分からない正四角形の切り込みがあり、薄く貼られた紙を引き剥がすと、真四角にページが切り抜かれたくぼみに満州国が発行している1角白銅貨が収められていた。


 表の図柄は雲海からの日の出を描いたもので、近年になって新しく発行されるようになった硬貨だった。


 文机の引き出しからまち針を取り出す。そして硬貨に空けられたごく小さな穴に差し込むと、硬貨は二枚の薄い円形の板に別れる。くり抜かれた硬貨の中の空間に収められていたのは一枚の小指の先に乗る程度の大きさのマイクロフィルムだった。


 伊輔はそのマイクロフィルムを文机の懐紙の上にそっと置き、デスクランプの灯りをつける。そして備え付けの拡大鏡でそのマイクロフィルムの内容を拡大して読み取る。一見したところでアルファベットと数字の羅列にしか見えない代物だった。


 文字列の内容を暗記し終えた伊輔は、用の済んだマイクロフィルムを火鉢の中へ懐紙とともに放り込む。


 そして、今度は部屋の中央へと移動する。そして手慣れた手つきで畳を引き剥がすと、床下に隠しておいた油紙に包まれた機械を取り出す。それはタイプライターに似た電鍵が備え付けられた通信機であった。


 伊輔の脳内ではマイクロフィルムに記されていたワンタイムパッド方式の乱数を利用した暗号文を組み上げている最中だった。『上』に報告すべき内容自体は、既に職権で閲覧した内容と司令部内に確保してある協力者おともだちから得た情報を分析して組み上げてある。


 その内容は主に陸軍部隊の移動に関する事項であった。最近、大陸各地の帝国陸軍は、急速に内地や朝鮮に部隊移動をはじめていた。国民党軍とのいつ終わるともしれぬ支那事変――宣戦布告なき戦争『もどき』――を繰り広げていた北支那方面軍は事実上完全撤退を既に完了していた。


 撤退命令を受けた岡村寧次大将は当初勝ち続けている最中の撤退命令に憤懣やる方ないといった具合であったらしい。しかし南方の友軍を救援するためと説得され、命令には逆らうことなく撤退を開始した。


 伊輔が見た戦闘詳報によれば、国民党軍はあまりに整然として撤退していく帝国陸軍部隊に呆気に取られ、追撃そのものも散発的だったという

 加えて、この満州からも既に多くの部隊が内地へ移動を開始している。関東軍司令部の解体すら囁かれるようになっていた。


 本来よほどの異常事態でなければ『眠っている』はずの伊輔が『連絡員』に駆り出されているのも、この日本軍の異常とも言える動きに起因していた。


  脳内での作業自体は五分とかからずに組み上げ終わる。

 念のため、立ち上がって部屋の窓へ移動すると、隙間なく閉めてあるカーテンを少しずらして庭をのぞいて見る。耳を澄ませて気配を伺っても見るが、周囲に潜む存在はみつけられなかった。尾行や監視がされているとは思えないが、油断は出来ない。


 数分経過するまで待ってから、通信機のところへ戻る。

 そして意を決した顔で通信機のスイッチを入れると、電鍵を静かに叩き始める。

 

 レコードが奏でるリズムは、いつの間にかドラムがメインのパートに入っていた。

 自然と電鍵を叩く指がドラムのリズムを刻むような動きになり、伊藤はわずかに苦笑する。


 とはいえ、通信文を打っていた時間はごくわずかな時間に過ぎなかった。

 返信は期待しない、どこまでも孤独な作業だった。 

 無事通信内容を打ち終えた伊輔は通信機を床下へと戻し、通信機を床下へと戻して畳を元通りにし、レコードを止める。


 その作業を終えた伊輔の表情はどこまで虚ろで、何かに魂を吸い取られた人間のように見えた。


 彷徨っていた視線をようやくのことで上向かせると、先程まで手を合わせていた白木の位牌が目に止まる。

 その瞬間、伊輔の表情が苦悶で醜く歪んだ。

 しかし、それは僅かな時間に過ぎなかった。 

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