第47話 新京駅
「当時の満州(作者注:満州事変前夜)は、現地軍閥(要するに超巨大暴力団)張学良の縄張りです。この張学良、百年先の税金を取り立てて、翌年になればまた百年先の税金を取り立てるという人物です。マフィアと言って悪ければ、ギャングです。その張学良が支配する無法地帯に、日本人居留民もいるのです」
-倉山満著『嘘だらけの日米近現代史(扶桑社新書)』 より
昭和17年(1942年)11月24日 新京駅
満州国の国家元首は、清国最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀である。
しかし、満州国の実際の主人はと言えば、それは日本人、あるいは日本陸軍の現地軍である関東軍であった。
満州国に居住する満州族、漢民族、蒙古民族に、入植者である日本人と朝鮮人を加えた五民族が混住している。
ではなぜ、このような国家が満州の地に存在しているかといえば、それは清朝末期にまでさかのぼらなければならない。
その話の前提として、満州は清朝を打ち立てた女真族(満州族)という民族が元々住んでいた地域であり、厳密には「
一応清朝の後継国家を自認する中華民国はこの満州を自らの版図であると主張していたが、実際の統治は奉天軍閥の長である張学良が支配を行っていた。
「中華民国」 そのものが四分五裂という状況であり、国民党率いる蒋介石にとって満州など興味の範疇ではなかった。
軍閥とは、言ってしまえば軍隊風馬賊のようなものであり、大陸各地の治安状況は良いとは言えなかった。張学良の統治も極めていい加減なものであった。
当時の国際法に照らして正当な条約で獲得した、日本の満鉄をはじめとする権益に対する侵害行為は後を断たなかった。
張学良をはじめとした軍閥は日本の抗議にまともに取り合う気も無かった。そもそも、張学良の軍隊も満洲の隅から隅まで掌握しているかどうかも怪しかった。
つまりマトモな当事者能力を持つ政権が、現地に存在しないといっても過言ではない状況であった。
日本陸軍の駐留部隊である関東軍が「満洲事変」という限定戦争を企図したのは、そうした現状が背景にあった。
満州事変の結果満州各地の軍閥は一掃され、清朝の「ラストエンペラー」溥儀を押し立てた国家が成立したことでとにもかくにも満州の情勢は安定した。
この乱暴な解決を可能としたのは精強とは程遠い私兵集団相手とはいえ、三十倍の敵を打ち破って見せた軍事的天才、石原莞爾の存在が大きい。
満州事変から十年以上経過した今でも、関東軍は「無敵関東軍」としてその精強さを内外に誇示して見せていた。
しかし、現在の関東軍は「無敵」と呼べるような戦力をすでに失っていた。南方戦線へ兵力を増強するため断続的に戦力の抽出が行われ、骨抜きになっていたからである。
時震以降日本軍が南方で消耗することは無かったから、一度目の史実よりはまだマシな方であるとも言えるのだが。
-無敵関東軍も今や昔、か。
そんなことを思いながら複雑な顔で、息を吐き出したのは関東軍歩兵第35連隊に所属する長嶺鉄蔵少尉であった。職業軍人の割には線が細い体つきをしており、着ている軍服がいまいちサマになっていない。
貫禄を出そうと思って伸ばしてみた髭も、どこか滑稽さを感じさせる。
そんな少尉ではあったが、指揮する第三軽機関銃小隊の兵たちには慕われていた。
陸軍内にあっては例外的に、自らが指揮する分隊では鉄拳制裁禁止を貫く士官でもあった。ただ、鉄拳制裁を課さない代わりに、ヘマをやらかした兵士は理詰めで徹底的に説教されるので、煙たがられてもいたが。
彼ら第三機関銃小隊を含む第35歩兵連隊は、本来ならば今日の朝一の貨物列車でこの新京から大連へ移動、その後は海路で那覇へ向かえという命令だった。その後は他の部隊と合流して新しい師団として再編成されて南方へ送られるというのがもっぱらの噂だった。
しかし、彼らを運ぶはずの貨物列車は待てど暮らせどやってこなかった。
仕方なしに、連隊は駅舎にほど近い駐車場を借りて兵たちを休ませていた。
おかげで、長嶺は追い出される形になったタクシーの乗務員たちから恨みがましい視線を浴びせられる羽目になった。
「先任、輸送の列車が来ない原因は何かわかったか?」
「長嶺少尉殿。先程駅員に問い合わせましたが、どうも線路で何らかの破壊工作があったようで。復旧工事自体は既に済んでいるようです」
「そうか。となると、この待ちぼうけも終わりが見えたということか。よし、周辺警戒にあたっている連中も順番に休ませてやれ。煙草も自由に吸ってよし、だ。大連まで貨物列車に放り込まれる訳だからな」
「了解しました。しかし、破壊工作というのが気になります。匪賊でしょうか」
「さあな。案外レールそのものを溶かして売り払う気かもしれん。鉄の値段は戦争で上がっているだろうからな。それを詮索するのは俺達の仕事じゃないが」
「まことにその通りですな。それでは、兵どもに命令を伝えて参ります」
長嶺少尉はそう言うと胸ポケットから煙草を取り出し、マッチで火を着ける。
旨そうに煙草の味を楽しんで見せる長嶺に先任軍曹は姿勢良く敬礼して去っていった。
しかし、長嶺が煙草の味を楽しめたのはそれから煙草を一本吸い終わるまでだった。
汽笛を響かせて超特急の異名で広く知られている「あじあ号」が、新京駅へと接近してきていた。
戦時中ということもあり、噂では高速運行よりも輸送力を重視するために「あじあ号」は減便かあるいは廃止されるのではないかというのが鉄道マニアの間での噂だった。
何故それを知っているのかと言えば、鉄蔵自身が三度の飯より鉄道好きを自負する鉄道マニアだからだ。
新京勤務であるのをいいことに軍務の隙をついて「あじあ号」を眺めるのが、彼の数少ない満州での楽しみであった。
大型の機体は流線型の未来的なフォルムにまとめられている。
食堂車や展望車、豪華客室等を備え、全車内に
まさに鉄道マニアのみならず、日本の鉄道技術の粋を集めた世界最先端の夢の列車だった。戦時中の暗い世相にも関わらず、その輝きは褪せていない。
ゆっくりと減速しながら、「あじあ号」はその巨体を新京駅のホームへと滑らせてくる。満鉄の制服を着た満州人の駅員が颯爽とした物腰で、乗客を出迎える様子が遠目にもわかる。
叶うことならば大連まで優雅な「あじあ号」の旅を楽しんでみたいものだが、戦時下の軍人に許される贅沢ではないだろう。
そう口惜しく思って見つめていたからこそ、「あじあ号」から降り立ったその軍服姿の男と、うっかり目を合わせてしまったのだ。
その男の額には大きな包帯が巻かれており、軍服もあちこちかぎ裂きやほつれが目立つ。特に心臓のあるあたりに銃で撃たれたかのような穴が開いている。大きな罅の入ったロイド眼鏡のつるの部分はずり落ちるのを防ぐためか、黒い紐が結わえ付けられていた。
まるで戦場から生者への恨みを抱いて帰ってきた幽鬼のような格好だった。
歩行に不自由があるらしく、黒光りする杖をついている。
男は捕食すべき相手を見つけた大型肉食獣を思わせる笑みを浮かべると、杖をついている人間とは思えぬほどの速度でホームから改札を通り、長嶺のいる駐車場へとやってきた。
距離が遠かったので気づかなかったが、男の肩にはボロボロの参謀肩章を吊っている。関わり合いになれば面倒な手合であることは明らかだったが、もはや退路は断たれていた。
部下の目が無ければ話しかけられる前に適当な理由で雲隠れしたいところだが、逃げられないのが士官の辛いところだった。
「少尉、長嶺少尉ではないか。息災のようで何よりだ」
その男はさも知り合いであるかのように、手を上げて近づいてきた。
長嶺に参謀などといった人種に知り合いなどいるはずもない。演習や教練で顔を合わせることもないではないが、階級差がありすぎて個人的な付き合いにまでなることは稀のはずだった。
だが、流石に名前を覚えられている上官をやり過ごす選択肢は無さそうだった。
「はっ。大佐殿は随分とお疲れのようですが」
「負傷の身に本土からの長旅はこたえるが、軍務とあらば致し方ない」
その大佐はそう言いながら、革製の軍用
杖をついているのによくもまあ、重そうな荷物を抱えているものだと呆れる。
普通は参謀ともなれば、荷物を抱える副官や従兵くらいいそうなものだが。この参謀は風体といい、立ち居振る舞いといい、陸軍の規格から外れていることばかりだ。
そう思って長嶺が観察していると、記憶のどこかにこの大佐を見たことがある気がしてきた。思い出さないと、とんでもない厄介ごとに巻き込まれる、そんな予感がした。
「長嶺少尉。差し支えなければこの部隊はどこへ移動するのか教えてもらいたいのだが」
その思考は、大佐の言葉に遮られて霧消した。
答えていいものか逡巡するが、那覇への移動自体は軍機という訳でもない。参謀相手に隠し立てすることもないだろうと判断する。
「は、これから那覇へ移動し、新師団へと再編成されると聞いております。」
「そうか、やはりな」
大佐は何事かを考え込む目つきになる。
「軍務中に邪魔をしたな。私は関東軍司令部へ出頭せねばならないので失礼する」
「司令部に電話して迎えを寄越させましょうか」
「いや、それには及ばん。タクシーでも捕まえるとする」
大佐の目には、およそまっとうな軍人とも思えぬ怪しい光が浮かんでいた。
「それでは長嶺少尉、武運長久を祈る。貴様とはどこかでまた会いそうな気がする」
そう言うなり、その大佐は杖をついているとは思えない速度で、少尉のもとを去っていった。
長嶺少尉にはその後ろ姿が不吉なものに見えて仕方がなかった。
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