第46話 同盟国

 アメリカにおける英国大使館の地位は特別なものだった。


 新大陸の人工国家アメリカが独立を果たしてからも、イギリスという存在は愛憎入り混じった特別なものであり続けていた。


そもそもアメリカという国家は、イギリス国教会から弾圧を受けた清教徒が新天地を求めてこの大陸を訪れたことから始まっている。


 それから300年以上過ぎた1942年のアメリカにとってイギリスとは頼もしい同盟国であるとともに、(もちろん戦勝国となったあとの)戦後を見据えた覇権国家としてのライバルでもあった。


 この大戦が始まってからこの方、イギリスとアメリカとの関係は緊密と言って良かった。


しかし、老獪なイギリスは支援を受ける立場でありながら様々な場面でアメリカとの交渉で優位に立つことが多かった。


 アメリカの大戦への直接参戦も、その一例と言えるかもしれない。


 ドイツが宣戦布告してくるまで、アメリカの世論は大西洋横断の英雄であるリンドバーグをはじめとしたアメリカ第一主義ファースト委員会を始めとする勢力が主張する、ヨーロッパの大戦に介入すべきでないという孤立モンロー主義が主流を占めていた。


 ドイツ側も、アメリカに参戦の口実を与えることのないように注意を払っていた。 


 しかし、経済封鎖や、事実上の最後通牒と言えるハル・ノートで「開戦か餓死か」の選択に追い込まれた日本の真珠湾港奇襲が全てを変えた。


 アメリカへ宣戦布告した日本に呼応して、ドイツが自分からアメリカへ宣戦布告をしたのである。

 

この「裏口からの参戦」が実現した背景に、イギリスの優れた能力を持つ諜報工作機関や外交当局の「努力」が何もなかったと考える方が不自然と言える。


 ちなみに、ウィンストン・チャーチル自身が戦後の回顧録で真珠湾攻撃の一報を聞いた時、こう記している。


「その日の夜、興奮と感動で疲れ果てていたが、私は救われた人間、感謝の気持ちに溢れた人間として眠りに付くことができた」


この一分から、英国の置かれた立場を察することが出来るだろう。


 化け物じみた世界一の農工業生産力を誇る国家から「貸し与えるだけだよレンドリース」という名の援助物資だけではなく、直接兵力を派遣する参戦を引き出したことでイギリスの勝利は確実なものとなった。


少なくとも、チャーチル首相はそれを確信していた。


 そんな複雑な背景を持つ間柄の同盟国へ駐在するイギリス大使館はワシントン・コロンビア特別区DCのマサチューセッツ通り、通称大使館通りに面した一角にあった。


 官庁街かつ戦時中とはいえ、街中には新年を祝うどこか浮ついた雰囲気があるように見えた。


 シモンズ・ハーヴェイ国務省一等書記官を乗せたA型フォードは、大使館の車止めへ到着した。外交官を乗せる車にしては塗装の剥げが目立つが、これは戦時中故の事なのかもしれない。


 だがシモンズにはそれを気にする様子は見られなかった。むしろ、緊張でそれどころではないといった表情だった。

 

 落ちくぼんだ目の下には連日の泊まり込みがもたらしたくまが見える。外交官にあるまじき身だしなみだが、彼にはそれに拘泥する時間が与えられていないのだった。

 本来の彼は至極陽気で酒好きな男なのだが、今の彼はくまどころか顎髭を整える精神的余裕すら無い。


 運転手に一言礼を言うと、シモンズはドアを開けて大使館の玄関前に降り立つ。


 折り目の無い制服を誇らしげに着こなしている大使館の守衛は、顔馴染みになっている外交官の到着にもったいぶった会釈をしてみせた。


 シモンズは挨拶を返す時間ももどかしげに、通行の許可と大使への面会を求める。

 そんなシモンズの様子をまったく意にも介さずに守衛は書類の提出を求めて見せる。


 苛立ちを抑えきれずに表情がひきつるシモンズを一瞥もせず、守衛は書類を隅から隅まで丁寧に確認した。


 そして、玄関のドアを開けて守衛待機室へと戻り、内線電話でどこかの部署を呼び出し、独特の手順をもったいぶるような丁寧さで遵守して行った。


 結局大使との面会が許されたのは、それから40分近く経ってからのことであった。



 大使の執務室は一見して骨董品アンティークと分かる調度品で溢れていた。

 執務机は見るからに高価そうなマホガニー材で作られ、あちこちに浮き彫りが施されているものだった。シェードランプも美術品を思わせる微細な彫金細工があしらわれている。


 まさに、これこそが英国という国家であると宣言しているような部屋であり、何度かこの部屋を訪れているシモンズは、なんど見ても辟易する思いだった。


 自分が執務にあたる国務省の一角は実用品一辺倒であり、ペンの一本からスチール製のデスクまで無骨な実用品だけしかない。それこそが仕事をする部屋に相応しいというのがシモンズという男だった。


 その対極にいるのが、この部屋の現在の主であるエドワード・F・L・ウッド。通称ハリファックス卿。准男爵の位を持つれっきとした貴族である。


 外交の場に相応しい、フォーマルでありながら仕立ての上等さと品の良さを感じるネイビーブルーのスーツに身を包み、パイプ煙草をくゆらせている。まさにイギリス貴族、生まれながらの支配階級を絵に描いたような人物と言えた。


「ハリファックス卿、今日はアポイントメント無しの訪問になってしまったことをお許しください。しかし、火急の用件でして」


「問題ないよ、シモンズ君。我が大使館の業務に友邦国の外交官を迎えること以上の業務は存在しないからね」


 優雅な手つきでパイプを机に置くと、ハリファックス卿はシモンズに握手を求める。

 傷一つない労働を知らない手だな、とシモンズは思う。


「この戦争が始まって以来、我が国と貴国との紐帯はますます緊密なものとなった。火急の用件とやらも、その関係をさらに強固なものにするものであることを望むよ」


 シモンズはこのイギリス貴族が、自分のもたらす報せの中身を薄々勘付いているのではないかと疑い、表情をそれとなく観察する。しかし、ハリファックス卿のロイド眼鏡の奥の瞳は、何を考えているのかまったく読めない。


 シモンズごときの若造が腹の探り合いを出来る相手ではなかった。


「単刀直入に申し上げます。ご期待に添えず申し訳ありません。我がアメリカ海軍は、大西洋に派遣している艦隊のうち、大半を引き上げる予定です。詳細についてはまだ正式に決定しておりませんが、すでに大統領は計画を承認しております。詳細はこの書類をご確認ください。」


―こんな報せは、俺のような使い走りがもたらすべきではなく、ホワイトハウスで国務省長官や海軍の高級将校が直接話すべきなんだがな。どのみち漏れる情報と割り切っているのか、はたまた上が相当混乱しているのか…多分両方だろうな。


 内心で慨嘆しつつも、シモンズはおくびにも出さずに直立不動の姿勢を取る。

 ハリファックス卿は震える右手を、左手で抑えながら深呼吸をする。


「失礼、あまりの提案に少々取り乱してしまったようだ。申し訳ないが、煙草を吸わせてもらっていいかな」


「問題ありません、ハリファックス卿。私としても友邦国へこのような報せをもたらすことに慨嘆を禁じ得ません。」


 シモンズは配役を得たばかりの新人役者のように大げさに嘆いて見せる。

 ハリファックス卿はそんなシモンズの様子を一瞥もせず、パイプを逆さまにして古い煙草を灰皿に落とすと、机の隅に置かれていた細かく鷹の浮彫が施された木製の煙草ケースから新しい煙草をパイプに詰め、マッチで火を点ける。


 口元に運ぶ間ももどかしい様子でパイプをくわえると、ゆっくりと煙草を吹かす。

 吐き出された煙が天井に届くまで、息の詰まるような時間が過ぎる。


「失礼。時間を使わせましたな。さて、貴国の海軍の驚くべき計画を確認させていただこう」


 ハリファックス卿は極秘のスタンプの押された書類に目を通す。

 そこにはアメリカ軍が大西洋に派遣している艦艇を、本国へと引き上げるという計画がきわめて簡素な表現で綴られていた。


「この書類をちょび髭の伍長が読んだとしたら、まさに欣喜雀躍するに違いないでしょうな」


 英国人にしてはキレのない嫌味をこめた物言いで、ハリファックス卿は極秘書類に関する感想を述べた。


「仮にこの計画が実施された場合、ただの一隻です喉から手が出るほど欲しい護衛艦艇が、払底することになりますな。そうなった場合、北アフリカ戦線は砂漠の狐ロンメルの楽園になりまずぞ」


 北アフリカ戦線においてイギリス軍をはじめとする連合国は昨年11月に『トーチたいまつ作戦』でモロッコとアルジェリアへ上陸作戦を敢行、ドイツ軍北アフリカ軍団へと痛撃を与えていた。ドイツ軍は慌ててチュニジアへ増援を送ったが焼け石に水という感が拭えず、戦局は連合国有利に傾きつつあった。


 それが昨年から今年にかけての大西洋と北アフリカの現状であった。


「大西洋を防衛するのがイギリス軍だけになれば、ドイツ海軍の潜水艦Uボートによって逆に連合国が補給線を寸断される憂き目にあう可能性が出てくる。少なくとも、連合国将兵の士気に与える影響は重大なものとなるだろうね。ゲッベルスが格好の宣伝材料を逃す訳がない。何故アメリカはこの大事な時期に艦艇を引き上げるのかね」


 シモンズは内心で舌打ちをしつつも同盟国の大使に相対する外交官としての演技を続ける。


 ―元はと言えば、あなた方イギリスがナチス・ドイツをつけ上がらせたのが原因だろうに。


 かつてハリファックス卿が大戦前夜のチェンバレン内閣の外務大臣であった時に、宥和政策に終始し結果的にドイツ第三帝国の伸長を許したことをシモンズは専門家として熟知していた。


その時、ドイツに対して軍事力の行使をも辞さない覚悟で臨んでいれば、今日の戦争もこれほど大規模化せずに済んだ。


 それがシモンズの見解であった。


無論、そんな結果論をこの場で持ち出す気はさらさら無かったが。

胸の内の天気が荒れ狂うのは避けられなかった。


「我が国としても、貴国に対する支援を打ち切るわけではございません。本国への代替輸送計画も併せて提案させていただいております。詳しくは後日、我が海軍を通じ協議させていただきますが」


「それでも、北アフリカ戦線への影響は避けられまい。いや、本国への輸送ルートですら危ういかもしれないぞ。我が国がドイツとの戦争を続けるために必要な物資は食糧だけでも百万トンを超えるのだぞ。我が国は自国で消費する物資を国内では賄いきれず船舶輸送に頼っている。今はチャーチル首相を支持している国民も、明日の食糧に事欠くようになればドイツへの降伏といった選択肢も眼中に入ってくるかもしれない。」


「重々承知しております。ですが、我が海軍を信頼していただくほかありませんな」

 シモンズは丁寧な物言いで、交渉の余地がないことを示して見せる。


「わかった。貴国にも事情というものがあろう。太平洋艦隊が壊滅したという情報は信じがたかったが、事実ということですな」


 ハリファックス卿の物言いはどこまでも丁寧だったが、表情はかつて外務大臣まで務めた政治家の凄みに満ちていた。


「私もイオージマ・フィルム見させていただいた。空想科学小説を特撮映画化したようにも見えたが、あれは紛れもない本物だということですな」


 シモンズは大使の質問に口を閉ざしたまま目をそらすという態度で答えざるを得なかった。


 イオージマ・フィルムの通称で呼ばれるカラーフィルムは、日本大使館が各国大使館へと大量に送り付けてきたフィルムの通称だった。その内容は硫黄島での日本軍がアメリカ艦隊を壊滅させた戦闘映像と、日本の首相からの停戦を呼びかけるメッセージで構成されていた。 


 その内容を連邦政府は日本によるねつ造された政治宣伝フィルムに過ぎないと発表していたが、それを頭から信じている国民もまた少なかった。


 そもそも、アメリカ国内には日本が気球で衛星回線テレビ受像機をばら撒いており、そのフィルムと同様の内容がすでに流布されていた。


敵国のプロパガンダを垂れ流すこのテレビ受像機を取り締まる法律をルーズベルト大統領は議会に提出していたが、未だ野放しになっている受像機も多かった。


 もちろん『愛国者』によって叩き壊される受像機も多かったが、密かに隠匿される受像機もまた多かった。


テレビ受像機の放送は、プロパガンダ映像は一日数回決まった時間に流されるだけで、大半はまったく政治色の無い日本のテレビドラマやカートゥーンアニメーションを放映していたからである。


 これらは特に娯楽の少ない地方部ではこっそりと歓迎されているところも多かった。


 戦時中とはいえ、流石は自由の国とため息をつかざるを得ない現実だった。

 その事実は、ハリファックス卿も当然知っているだろう。


 シモンズは首筋がひりつくような感覚を味わいながらも、淡々と演技を続ける。


「我が国の艦隊がイオージマで日本の新型兵器に壊滅させられたことは事実であります、大使閣下。大西洋から艦艇を呼び戻すのも、太平洋を守る艦艇が圧倒的に不足していることが原因であることもご推察の通りであります」


 シモンズの言葉にハリファックス卿は無言でパイプを弄びながら、試すような視線を友邦の外交官へ向けた。

 冷や汗が噴き出るのを感じながらも、シモンズは続ける。


「しかし、我が国の国内事情にもどうかご配慮いただきたい。すでに、国内ではヨーロッパの戦争など放っておいて、本土防衛に全力を注ぐべきだという意見がまとまった勢力を持ちつつあるのです。連合国への援助物資レンドリースを停止して、西海岸に日本軍を迎え撃つ要塞地帯を建設しよう、などという計画が持ち上がる始末です」


「こんな時に孤立主義の誘惑かね。貴国の政治も、なかなかに難儀らしい」


 一瞬だけ、ハリファックス卿の瞳に無力さに疲れた老人の顔が浮かんですぐに消えた。


「…了解した。貴国の申し出は本国に伝えよう。これは余談だが、日本が三国同盟を破棄したというのは本当かね。例のフィルムにもその旨を伝える場所があったが」


「は、我が国も目下調査中ではありますが、同盟の破棄はどうやら虚偽ではないようです。」


「枢軸国が勝手に分裂してくれるのは有難いが、どうにもうまい話に過ぎるような気がしてな。ドイツ人がロシア人と潰しあってくれている時に、時機よく日本が同盟を抜けるなどとは、ね」


「わかりました。この件はいずれ大使閣下に詳細な情報をお届けします。」


「そうしてくれればありがたい。さて、話は以上かね?本国に報告せねばならないことがあるので、この辺で失礼させていただきたいが」


「わかりました、大使閣下。貴重な時間をありがとうございます。」


「うむ、願わくばこの困難な時期を、戦後苦労話の一つとして若者に説教できる未来が訪れることを」


「大使閣下、我が国としましてそれは切に願うことであります」


シモンズは慇懃に頭を下げると、執務室を後にした。


我が祖国は困難のただ中にあるが、こんな時こそ外交官の能力が試される時なのだ。


そう自分に言い聞かせながら、憂鬱と緊張が入り混じる国務省へと戻るべく足早に大使館の廊下を急いだ。 

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