第38話 レザーネック


             1942年12月14日03時55分 硫黄島沖

 

『ヒギンズボート』と呼ばれている上陸用舟艇の狭い船内では第四海兵師団の第一歩兵大隊に所属する小隊が波に揺られていた。周りを友軍艦艇に囲まれているとはいえ、ろくな装甲もない小舟に寿司詰めにされている気分はあまり良いものではない。


 あと一時間もせずに、彼ら海兵たちは日本軍の砲撃に晒されながらに敵前上陸を敢行するのだから。


「さすがのジャップも、あの爆撃と艦砲射撃の雨の中じゃあ、誰一人生き残ってだろうさ」


 その縁起が悪い名前ゆえに敬遠されている白地に赤い丸の柄が特徴的な煙草を、シモンズ曹長は旨そうにくゆらせていた。額に大きな傷痕のあることが印象的なその下士官は、誰彼となく毒舌を吐く性格で、侮られることはないが好かれもしない人物だった。 


「本当にそうですかね。ジャップどもは相当しぶといと聞いていますが」


 そう疑問を呈したのは先日一等兵へ昇格したばかりのテイラーは、海兵隊の軍服が似合わない神経質そうな青白い顔を強張らせていた。大学に行って研究者になるのが夢だったが、経済的理由で進学を諦めた結果としてこんなところで小銃を担ぐ羽目になっている。


「…貴様は上陸戦闘は初めてだったな。よく覚えておけ、戦場ではびびった奴から死んでいく。青瓢箪の貴様も誇りある海兵隊員レザーネックであることを忘れるな」


 テイラーは内心で納得できない思いを抱えつつ、上官に対して敬礼を返そうとする。


「曹長、上陸前で気が立っているのは分かるが、戦闘直前だ。兵を緊張させすぎるのも考えものだよ」


 そう言ったのはこのB小隊を率いるモーガン少尉だった。海兵隊の士官にしては珍しく教会の牧師を思わせるような物腰の柔らかい人物で、下士官や兵にも偉ぶることなく常に丁寧な口調で語りかける人物だった。


 シモンズ曹長は吸っていた煙草を輸送船の甲板に投げ捨てて足で踏みつけると、慌ただしく敬礼を返す。


「それに、日本人が簡単にこの島を諦めるとは思えないのだよ。君もグアムのことは知っているだろう。あそこで何が起きたか、知らないわけではないだろう」


 そう言われてシモンズ曹長は苦い顔で頷かざるを得なかった。


「しかし、フィリピンは簡単にカタがつきそうですがね」


 アメリカはこの硫黄島攻略作戦を発動する前に、フィリピン方面への上陸作戦を展開していた。

 本来なら苦労してグアム島を制圧した後は、もはや日本本土攻撃の布石としては戦略爆撃の拠点としてサイパン島や硫黄島を占領すればいいだけのことで、フィリピン方面の攻略は何の戦略的な価値を有しなかった。


 フィリピンを放っておいたところで、トウキョウをはじめとした日本の大都市を爆撃や艦砲射撃で破壊すれば、いずれ日本の息の根は止まる。少なくともアーネスト・キング作戦部長を始めとする海軍上層部も、あげくは陸軍参謀本部でさえフィリピン攻略には否定的であった。


 それでもマッカーサー将軍は国民的な人気を背景とした政治力を背景に「フィリピンへの帰還はフィリピン国民との約束である」と強硬に主張し、強引な政治取引でフィリピン攻略作戦を、軍上層部に認めさせた。


 当初、グアム攻略時と同様にまたしても機雷による輸送艦などの損害は無視できないレベルへと拡大した。それでも海軍は命がけの機雷掃海をなんとかこなし、レイテ湾上陸作戦そのものはズムーズに進んだ。拍子抜けすることに、日本軍の全部隊はフィリピン各地から完全に撤退していたからだ。


 日本軍は飛行機や船舶によって整然と撤退していったと後にアメリカ軍の聴取に応じた現地のフィリピン人は語ったという。そして、わざわざ米軍との戦闘に巻き込まれた際のフィリピン人の死傷者に対し、賠償金の支払いまでしていったのだという。


 日本軍は頑強な抵抗が予想されたコレヒドール島やバターン半島の元々アメリカ軍が建設した要塞群も放棄しており、フィリピン全土の占領は容易に進んだ。

 そのため、「フィリピン国民諸君、私は帰ってきた」で始まるマッカーサー将軍の演説はどこか白々しいものとして受け止められた。


 ともあれ、陸軍の上層部はマッカーサー将軍のワガママで始まったフィリピン攻略作戦が、成功裏に終わりつつあることに胸を撫で下ろしていた。


「ですが、フィリピン方面の輸送は潜水艦にやられまくっているという噂を聞いたことがあります。なんでも、兵士の食事が一日一食に制限されているとかなんとか」

 テイラーは昨日聞きかじったばかりの噂を思わず口にした。


 少尉の顔つきが厳しいものに変わったのを見て、まずいことを言ったかと思う。

 しかし、フィリピンへの船舶輸送は困難を極めていることは公然の秘密であった。いくら軍機とはいっても、輸送任務から帰ってくる船舶の数が驚くほど少ないことには誰もが気付かざるを得ない。 


 独航船は禁止され護送船団コンボイによる輸送が義務付けられたが、それでも日本海軍の潜水艦はそれを嘲笑うかのように輸送船を撃沈して見せた。


 「音無き殺人者」と呼ばれるようになった日本海軍の潜水艦は、中世における魔女のような恐怖感でもってアメリカ軍の快進撃に影を落とし始めていた。

 そのため、上陸当初は意気軒昂だったフィリピンのアメリカ陸軍兵士の士気は、下降線の一途をたどっていた。


 一部ではフィリピンの現地住民への無理な食糧徴発が行われ、日本軍の軍政への反発などもあって全体的には親米的だったフィリピン人の対米感情は反転し、悪化の一途をたどっている。まさに貧すれば鈍するといった現状であった。


「さあな。どれも噂だ。本当のところは軍機だろうし、俺たち兵士があれこれかんがえても本当のところなんて分かるわけがないさ。ですよね、少尉。こいつはただの軽口ですんで、咎め立てせんでくださいよ」


 シモンズ曹長の言葉に。少尉は何も聞かなかったことにするさ、と言ってわざとらしく肩をすくめた。


「それより、噂と言えばこの作戦が成功したら本当に航空隊の連中はトウキョウを焼け野原にしてくれるんだろうな?航空隊の爆撃機がトウキョウに向かって帰ってきたためしがないって話だが。島は奪ったが、航空隊は全滅じゃあ、戦う甲斐がないってものだぜ」


 シモンズ曹長の言葉に応えられるものは、その場に誰もいなかった。

 奇妙な沈黙。上陸用舟艇の発動機の音と波の音、そして吹き付ける潮風の音がやけに五月蝿く感じられる。


「つまるところ、、どちらなんでしょうね」


「決まっている。テイラー一等兵、我々は勝っている。その証拠に俺たちが目指すイオージマは古来からのエンペラーの土地だ。俺たちがそれを土足で踏みにじるのだからな」

 シモンズ曹長は得意気にそう言ったが、テイラーの心の中のわだかまりは容易には消えなかった。


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 テイラー一等兵は全身にまとわりつくような倦怠感のなか、意識を取り戻した。こわばった身体をなんとか引き起こすと、両手で全身に降りかかった土砂を振り払う。

 M1ガーランドライフルを探すと、自分が土砂塗れになっていた場所から数メートル前に落ちていた。しっかりと握りしめていたつもりが、爆風にやられたときに放してしまったらしい。


 小銃を取ろうとかがんだ時に、土砂に埋もれた何かに気づく。

 そっと土砂を払いのけてみると、それはついさっきまでテイラーたち兵隊を叱咤する怒鳴り声をあげていたシモンズ曹長の恨めしそうにカッと目を見開いている生首だった。


「ひっ!」

 テイラーは思わず後ろへ飛び退ってしまう。

その次の瞬間、尻の下に何か柔らかく濡れたものを感じて、慌ててそこからも飛び退く。 そこには見覚えのあるシルバーの指輪が薬指にはまっている左手の二の腕から先が転がっていた。


 婚約者との婚約指輪だということを、テイラーはかつて珍しくはにかんだ顔で、その指輪の主である少尉から直接聞いたことがあった。

 声にならない悲鳴をあげながらどこもかしこも砲弾の雨で掘り返された、硫黄島の地面の上を転がりまわる。


 その間も機関銃弾や榴弾が周囲に雨あられと降り注いでいたが、それで致命傷を負わなかったのは何かの奇跡だった。


「おい、貴様。B 小隊の生き残りは貴様だけか」


 不意に後ろから声をかけられ、泣き顔を慌てて泥だらけの両手でぬぐい、形ばかりの敬礼をしようとする。


「おい、敬礼なんぞはいい。どこもかしこも酷い有様だ。畜生」

 ぶっきらぼうにそういい捨てたのは、見覚えのない顔の伍長だった。

 匍匐姿勢のままM1ライフルを構えている。


 彼の背後には、他にも5名の兵士が同じように匍匐姿勢で控えていた。


「どこもかしこも酷い有様だ。あれだけ砲撃や爆撃を浴びせたってのに。ジャップは悪魔と死神のどちらかだな」


 伍長は悪態をつきながらどこもかしこも酷い有様のこのちっぽけな島を見つめた。

 今彼らがいるのは摺鉢山にほど近い、海岸線から数百メートル内陸へ入り込んだところだった。作戦前の攻略区分では緑と命名されていた浜辺の近辺である。

 

どことなく心細くなったのか。ふとテイラーは背後に位置するはずの友軍艦隊を、背後の海上に探した。 しかし、どこにも見つからなかった。


「あの、海軍のフネは…」

「残らず吹き飛んじまったよ。俺たちに帰るフネなんてない」

 伍長は青ざめた顔で吐き捨てるように言う。


「吹き飛んだって…大小数十隻はいたフネがですか」


「俺が知るか。ジャップの魔法、としか言いようがない。次から次へと爆発を起こして沈むか、はるか沖合に退避しちまったよ」


 絶句するテイラーをよそに、伍長は匍匐前進を開始する。

「帰る場所がないからといって呆けている訳にもいかん。おいハーパー、無線はまだつながらんか」


「どの周波数もダメですね。酷い妨害電波だ。大隊司令部どころか輸送艦隊司令部にも繋がりません。周囲の友軍への無線連絡は不可能です」


 受話器を耳に当てながら無線通信機の周波数ダイヤルを操作していたハーパーは、ため息を吐きそうな顔で伍長に応じた。ハーパーの軍服にどうにか付いている千切れかけた階級章からは、一等兵であることが見てとれた。


「クソッタレめ。航空支援だのと贅沢を言うつもりはなかったが、友軍との連絡もつかないとは。上陸した部隊の中に俺たちのように無事な部隊がいるものと信じるしかない。貴様は俺たち第三小隊に合流しろ。作戦計画通り、あの山を落とす」


 伍長はそう言いながら、まだ衝撃から覚めやらないテイラーの肩を乱暴に叩いた。

 テイラーにその命令を拒否する権限は無かった。

「了解しました。配置は?」

「とりあえず貴様は俺の後ろでバックアップにあたれ。貴様の射撃の腕も度胸も知らんのでな。面倒は御免だ。」


 テイラーは無表情のまま伍長の背後に回りこみ、匍匐姿勢になる。

 その時、不意に後方からエンジン音が聞こえてきた。

アムトラックLVTだ、畜生、生き残りがいやがった」


 歓声に近い声をあげたのはポイントマン前方警戒要員を務める髭面の海兵だった。無限軌道独特の走行音を響かせながら走行するLVTの頼もしい姿を、半ば呆然と見送る。LVTは太平洋戦線において上陸作戦を想定して作られた水陸両用の装甲車である。装甲車とはいっても前面装甲ですらたかだか12ミリ程度の「紙装甲」しか施されていない。水上を進むための機構のために、どうしても重くなる装甲板を施す余裕がなかったのである。


 ガダルカナル島でも後方支援には用いられていたが、正面戦闘に用いられるのはこの硫黄島が初めてだった。

 しかし、希望に見えたLVTはわずかな距離を進んだだけで、戦車砲弾の直撃を受けて吹き飛んだ。

―あれほどの砲爆撃を受けながら、日本軍はどこに無事な戦車を隠していたというのだ。 


テイラーはポーカーで明らかなイカサマをされながら、そのタネが分からない時のような気分だった。

 しかもいくら匍匐姿勢を取っているとはいえ、有視界外からの攻撃を一撃で決めるあたり日本兵の射撃精度はどうかしている。わが軍ならば命中までに何発の砲弾を消費しただろうか。


 どちらにせよ、重装備をもたないわずか数人の歩兵部隊に出来ることは限られていた。 匍匐姿勢のまま小銃を構えるが、どちらに向けて撃っていいのかわからないありさまだった。


 結局、テイラー一等兵が小銃を撃つ機会は訪れなかった。

 わずか数分の間に、戦車十数両を含む日本陸軍の部隊に包囲されていたからである。


「「貴官らは包囲されている。もし、投降するならばハーグ陸戦法規に則った扱いを約束する。武器を放棄して投降せよ。繰り返す、武器を捨てて投降せよ。」


 なまりの強い英語で投降を呼びかける声に、まだ戦意を残していた伍長の心が折れる音が聞こえた気がした。十を超える戦車砲で睨まれてはいくら勇猛な海兵隊の下士官といえど、抵抗の無為を悟らざるを得なかったのだろう。こちらには対戦車砲はおろか迫撃砲の一つさえ無いのだから。


 友軍の支援が得られる可能性のかけらも、どこにも見当たらなかった。


「撃つな。降伏する。俺がこの部隊の指揮官だ」


 両手を高くあげながら吠えるような大声で伍長が応じると、見慣れない形の小銃を構えた数人の日本軍兵士が音もなく伍長たちに近づいてきた。

 テイラーたちも伍長に倣って小銃を地面に放り投げると、両手をあげて投降の意思を示した。


 幸い日本軍の兵士は拍子抜けするほど紳士的であり、治療の必要性がある兵士がいるか聞いてくるなど、捕虜の扱いは心配したほどではなかった。

 この戦場に来る前に見させられた軍の宣伝映画に出てきたような悪鬼のような残忍さはかけらも見られなかった。

 こうして、テイラー一等兵を含む海兵隊員は、硫黄島における捕虜第一号となったのである。

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