第34話 野戦築城
硫黄島という島を、日本人は長く忘れ去っていた。
大東亜戦争に日本が敗れてから60年以上経つ21世紀初頭に俳優としても名を馳せたアメリカ人の映画監督が、とある島を巡る戦いを描く二部作の映画を作ると発表した。
その時、大半の日本人はその島――
硫黄島が
マリアナ諸島、サイパン島からでも日本本土の爆撃は、B-29
日本軍は劣っているレーダーや高高度性能の劣る迎撃機というハンデを乗り越えて、B-29を何機も撃墜してみせていたのである。
硫黄島を奪取出来れば、航続距離の短い戦闘機でもB―29の護衛につけることが可能になり、乗員の被害を大幅に軽減できると見込まれた。
だからこそ、多くの艦船や航空機を投入しての硫黄島攻略作戦――デタッチメント作戦――が行われたのである。
この二度目の歴史でも、硫黄島やサイパン島への米軍来寇は一度目の歴史を踏襲すると思われてはいた。
しかし、この「二度目の昭和17年」においては日本軍が早期にトラック島以外の南太平洋を放棄している。また、新型爆撃機であるB-29はようやく初飛行が終了したばかりであった。前線へ配備されるには(史実通りなら)2年後まで待たなければならない。
昭和17年現在のアメリカ陸軍航空隊が装備している爆撃機、B―17「
アメリカ軍はもぬけの殻となっていたグアム島を占領していたが、米軍がその後どこを攻略目標にするかは平成日本側にも読めないところがあった。
ただ、この二度目の世界のアメリカ軍が日本本土爆撃を可能にするためには、サイパン島、あるいは硫黄島の占領が不可欠であることは変わらない。そこで、平成日本は二つの島のいずれかでの決戦を強要するべくあえてグアム島を米軍に「進呈」したのである。
そして、サイパン島と硫黄島は米軍の戦力を誘引し、殲滅するための野戦築城が徹底的に行われていた。硫黄島の元山飛行場には国防軍のC2輸送機が離発着を繰り返している。
その輸送機の一便から降り立った硫黄島任務部隊指揮官、新藤義剛大佐は滑走路脇に集積されている補給物資の山を見ていた。ミネラルウォーターや戦闘糧食の缶詰類、弾薬に救急医療キットなど、ありとあらゆる戦闘に必要な物資が運びこまれている。
その物資の山をすり抜けるようにして走ってきた一台の軽トラが、急ブレーキで止まる。
勢い良く跳ねるようにドアが開かれ、いささか恰幅の良い体型だが袖の部分を捲り上げた作業着から突き出ている両腕は丸太のようながっしりとした太い腕をしている男だ。
「新藤大佐、お初にお目にかかります。島津建設の現場監督、犬飼忠市っちゅうもんです。硫黄島には隊舎の建築や補修作業で何度も来とります。硫黄島はワシにとっちゃあ庭みたいなもんですわ。といっても時震前の、ですがね」
痛いくらいの握力で握手してくるので、思わず新藤は顔をしかめる。
そんな表情をまったく気にしていない犬飼は豪快な笑顔を浮かべている。
「工事は順調ですか」
「問題ないですわ。最初に設計図を見せてもらった時は正直ありえへんと思うとりましたが。本土から苦労して持ち込んだシールドマシンも、最初は高温で故障したこともありましたが、今は順調に稼働しとります。丁度ええ、大阪山の方へ行ってみまへんか。あの辺の工事は大方終わっとります」
「分かりました。少し待って下さい。幸い次の予定まで間はありますが、連絡をしておきませんとね」
そう言うと、新藤は通信端末を取り出して司令部へ視察の件を通しておく。
「乗って下さい。少々窮屈なのは我慢してくださいよ」
ガハハと豪快に笑う犬飼に、新藤は思わず苦笑する。
正直なところ夕方の会議まで少し休んでおきたかったのだが、この強引な男の邪
気のない誘いはなんとなく断りずらかった。
軽トラでの移動はさほどの距離ではなかった。
硫黄島というのは基本的には平坦な島であり、障害となる地形がほとんど存在しないといっていい。
この風景を見ていると、米軍上陸を前に硫黄島守備隊の指揮を取ることとなった陸軍の栗林忠道大佐が、洞窟陣地を築いて持久体制を整えて戦うほかないと決断した理由にも納得出来る。
第二次世界大戦前、島嶼防衛では上陸から間もない敵兵を戦闘態勢が整わないうちに叩という、いわゆる「水際撃滅戦法」が主流であった。
しかし、アメリカ軍は艦砲射撃や艦載機による爆撃など、圧倒的な火力の投入によって、それを過去のものとした。 対抗して戦うには地下で砲爆撃をやり過ごし、内陸部へ侵攻してくる敵に肉薄して戦うほかなくなったのだ。
「しかし、先の戦争ではどないして洞窟陣地を作ったんでっしゃろな。重機や掘削機なんてものは無かったという話ですし」
「私も硫黄島については着任前にあわてて調べたクチですが…ツルハシやモッコ、スコップなどで作業していたようです。犬飼さんもご承知のとおり土質は火山岩ですから脆く、それだけでも十分掘削作業自体は出来ていたようですが…道具の不足は否めなかったようですな」
「難儀でしたなあ…それは」
犬飼は神妙な顔になると、軽トラのブレーキを踏んだ。
着いたのは、むきだしの岩肌が露出し、ところどころが緑に覆われた小高い丘だった。
大阪山という名前が着いている割には、そこはどう見ても「山」には見えない。それもそのはず、標高はわずか110メートルに過ぎない。
そして、そこに大きな口を開けているのは国防軍の工兵部隊と民間業者が協力して築き上げつつある、地下陣地への入り口であった。
「今は開きっ放しですが、隔壁を閉じることも可能です。火炎放射器対策の排煙装置等、諸々の工事も完了しとります。しかし、軍人さんにこういうのもなんですが。75年前の軍隊にわざわざここまでの備えが必要でっか?上陸させる前に追い返すことだって可能でっしゃろ」
「あらゆる備えをしておく、とだけお答えします。政治的な要請もありますから」
新藤の奥歯にものがはさまったような言い方に、犬飼は何かを悟ったような顔つきになる。
「すんまへん、聞かなかったことにしておきますわ]
「そうしてくれると助かります」
新藤はすまなさそうに頭を下げる。
「大佐はんが頭を下げることやおまへん。将官たるもの、横柄くらいが丁度ええっちゅうもんです」
犬飼は新藤の肩をバンバン叩きながら、豪快に笑う。
新藤は苦笑しながら、大阪山から見える風景に目を移した。
視界の端にありえないものを見つけ、思わず二度見する。
そこにいたのは帝国陸軍の軍服に身を包んだ将官がいた。腰を低くして双眼鏡を睨んでいたその将官は腰に軍刀を下げている。
その将官の横顔は、たしかについ先日駐屯地の資料室の記録で見たばかりの、硫黄島の戦いで日本軍を指揮した男の顔だった。
いつの間にか、ついさっきまで南洋特有のぎらついた陽光が降り注いでいた硫黄島の空は、鈍色の雲に覆われ、周囲の風景は墨絵のようになっていた。
その時、犬飼と新藤は重砲の咆哮と機関銃の乾いた射撃音、軍刀の鞘走る音、砲煙弾雨と火炎放射器の劫火を確かに感じた。
犬飼は思わずその場に腹這いになり、耳を抑えながら頭を下げる。
一方、新藤は現実とは思えぬ光景に呆然と立ち尽くしていた。
魂消る絶叫と雄たけび、英語の罵声が交錯する。
指揮官の将官は一瞬、こちらを見て微笑んだ気がした。
その次の瞬間、幽鬼のような影だけの日本兵たちが二人の周囲に現れていた。
日本兵たちは真っ黒なシルエットしか見られなかったが、見るからに雑多な編成で突撃を開始した。銃剣や軍刀を振りかざしている者はいいほうで、中にはスコップを構えている者すらいた。
ぎらりときらめく指揮官の軍刀、耳を聾する轟音。
銃砲撃にさらされているらしい黒い影は、次々と斃れていく。
それから、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
すべての影は消え去り、いつの間にか南洋の日差しが新藤の首筋を焼いていた。
「平成の世では硫黄島で結構な年月仕事しとりますが、こんな体験は初めてですわ…」
犬飼はへたり込んだまま、絞り出すようにそう言った。
「…噂は聞いたことがあります。硫黄島では幽霊話は日常茶飯事だとか」
「まあ、確かにその通りですわ。食堂でご飯を食べている時に、ずっと立ち尽くしている兵隊さんを見たこととか、枚挙に暇がありまへん。正直、幽霊でいちいち騒いでいたら仕事になりまへん。…実は時震後のこの硫黄島でも兵隊さんの幽霊らしきものが見とったんですわ。現場でいるはずのない人影がちらついた程度ですが」
そう言って犬飼はややひきつった顔で笑って見せる。
「だけどおかしいんですわ。この昭和17年の硫黄島ではまだ誰も兵隊さんが死んどらんのでっしゃろ?あの幽霊はんたちは、平成の世の中からこっちの硫黄島に引っ越しでもしたんやろか」
「ああ、そういうことですか。時震前の世界ではすでに戦死している人が、この昭和17年ではまだ生存しているかもしれませんね。生きている人間の幽霊というのも変な話か」
「幽霊にもタイム・パラドックスっちゅうのはあるんですかねぇ」
犬飼がつぶやいた言葉に、思わず新藤は考え込んでしまう。
あれは幽霊なのか、はたまた犬飼と自分が集団幻覚でも見ていただけなのか。
分かっているのはどのみち結論など出ようがない、ということだった。
―そういえば、この世界での栗林忠道大佐は時震に巻き込まれて消えてしまったのだろうか。それとも、どこか外地の戦場にでも出ていて、こちらの世界のどこかにいるのか。
「まあ、そんなことすぐに分かる訳がないか…」
独り言をつぶやいている新藤を犬飼がどこか心配そうな顔で見つめている。
「さて、視察を続けましょう。地下への立ち入りは可能ですか?」
「問題ありまへん。空調装置は既に稼働しとります」
犬飼はどこか芝居がかった仕草でどんと胸を叩いて見せる。
新藤は頷くと、思考を無理矢理職務へと引き戻す。
しかし、あの心霊現象とも幻覚ともつかぬ、あるいはタイムスリップのような幻影が、たしかに前の世界で起こった出来事なのだと感覚で理解していた。
――あの悲劇をこの世界で再現させない。それが俺の使命だとそういうことなのか。
新藤はそう思わずにはいられなかった。
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