第32話 メタン・ハイドレート
見事に晴れ上がった蒼穹の下を往くのは、真新しい白い塗装が水平線に映える大型双胴船であった。
船首側面に黒い文字で「第三開陽丸」と書かれたその船は、日本海メタンハイドレート採掘広域連合、通称JSMHGの所属の採掘船だ。
他の用途船からの転用ではなく、MH採掘専用の船舶として設計、建造されている。
そのフネのブリッジで、いつも以上ににこやかな表情をしているのは赤城顕博士である。
今日の赤城博士は、いかにもワゴンセールでワンコインで買って来たらしいTシャツを着ていた。黒地に白抜きの文字で「無計画」と毛筆風に染め抜かれている。
下はというとこれまたファストファッション店で買って来たと思しきカーキ色のカーゴパンツといった風体である。
頭を抱えたくなるファッション・センスだが、誰もが慣れっこになっているのか誰もツッコミを入れないのは優しさなのか、諦めの境地だろうか。
一応はJSMHGのロゴマークが入っている、白い工事現場で使うようなヘルメットを被っているからなんとか格好はついているが。
とてもメタンハイドレート研究の第一人者には見えない。もう10月も半ばを過ぎたのに、洋上は真夏日に近い気温であるから、軽装なのは仕方ないのだが。
「それにしても、案外揺れるな」
船橋の壁につかまりながら、青い顔をしているのは榛沢佑子。
界各地を飛び歩いてきた、油田開発の専門家で、いつもは社名いりのツナギ姿だが、今日は流石にその装いではない。グレーのタンクトップに、これまたデニム生地のブルー・カットジーンズといったラフな服装である。
それでも、出るところは出て引っ込むべきところは引っ込んでいるモデル体型の彼女が着ると、それなりにさまになっている。
典型的な胴長短足体型の赤城博士と榛沢女史の対比。
まさに素材の違いが生み出す残酷さと言えよう。
「無理せず休んでいればよかろうに。船酔いか?」
遠慮無くそう言うラノベ作家、菅生明穂はいつもどおりの制服姿である。
元々水兵の軍服を起源とするセーラー服は、ある意味においては海に相応しい格好かもしれない。
「この船にも医務室はありますから、休まれますか」
佑子に声をかけた一行の案内役である物部耀一郎は、憲法改正と国防軍設立に伴い陸上自衛隊三佐から国防軍少佐と改められている。
とはいえ、正式な辞令すらまだ受け取っていないため、本人も外部の人間もさしたる実感は伴っていない。なお、戦時中であることを理由に制服も階級章も一部の例外を除いて、そのまま流用されることになっている。
「余計なお世話だ。立っていられないほどじゃない」
気を使う耀一郎に対し、佑子は睨みつけながら拒絶する。
そう強がって見せる佑子だが明らかに顔色は蒼白のままだ。
「さて、それでは先日お約束したとおり、メタン・ハイドレート採掘の様子をお見せします。まあ、念のため再度説明しておきますと、メタン・ハイドレートは簡単にいえば可燃性ガスであるメタンと水が高圧で結晶化したものです。本船の目的地はそのメタハイ採掘を行う富山湾沖の採掘鉱床。現在位置からは、この船の経済速度で五分程度で到着します。到着次第、無人採掘艇を発進…」
滔々と説明しだす赤城博士に、榛沢女史は呆れ顔である。
今はグロッキーだからおとなしいが、体調が良ければ文句を言っているだろう。
「この採掘作業はいつから開始しているんだ?」
赤城博士の説明を遮り、明穂が遠慮なしに質問する。
傍若無人な態度の明穂に、赤城博士は言葉を切って丁寧に説明をはじめる。
「最初の採掘は平成24年ですから8年前になります。国や自治体の援助もありませんから、ポケットマネーと大学の補助ですよ。まあ、研究に理解を示す友人からのカンパもありましたが。」
「なんでまた。有望なエネルギーだというのなら、それこそ国家プロジェクトで取り組むべきだろうに」
「榛沢さん、それは石油開発は国家プロジェクトにもなるでしょうが、メタハイに対する行政の態度はそりゃあ冷淡なモノでしたよ。国立の研究機関がちょっとばかり試掘を行うだけ。本格的に商用化が可能なレベルに持って行こうとする私たちのような研究者には、露骨な妨害工作まで行う連中までいるくらいです。それも私と同じエネルギー関連の研究者が、ですよ」
世間話をするかのように淡々と赤城博士は話す。その口調には怒りも何も感じられない。
かえってそれが事の深刻さを物語っていた。
「そういうクズはどこにでもいるんだな。しかし、わざわざ嫌がらせまでする動機は何だ?」
佑子の疑問に答えたのは、博士ではなく明穂だった。
「利権だろう?新しいエネルギーが実用化されては困る連中がな。新エネルギー利権に食い込むのは面倒だし、自国の領土から得られる資源であれば抜けるサヤは少ない。外国から高い値段で買われてくるのであれば話は別だ」
「エゲツねぇ…苦労して油田を開発している身としちゃ、ムカつく話だな」
佑子は目の前にその人物がいれば殴り倒してしまいかねない剣幕でまくしたてる。
「榛沢さんって、そういうところで熱くなれる正義感がいいですよね」
耀一郎は思わず考えたことをそのまま口に出して、しまったという顔をする。
「うっせぇ、黙れ」
榛沢女史は顔を赤くしながら否定する。
「すいません…」
「さて、話を戻しましょう。伊福部政権になってからメタハイ関連の行政はだいぶマシになりました。予算をつけて政府関連の研究機関による試掘も限定的ですが、行われるようになりましたからね。もっとも、私達のような民間の研究者は対象者外でしたが。それでもなんとかやってこれたのは、政府にも自治体にも必ず私達の活動に理解を示してくれる人が、わずかながらいたからです」
淡々と笑顔さえ浮かべて話す赤城博士からは恨み言の類を言い出す気配すらなかった。
「それで、今回の時震で試掘ではなく、採掘に踏み切ったわけですか」
耀一郎の問に、赤城博士はゆっくりとかぶりを振った。
「政府の援助なんて当てにしていたら、十数年経っても採掘まで持って行けなかったでしょうね。平成24年9月に日本海沿岸の10府県合同でJSMHGの前身である「海洋エネルギー資源開発促進日本海連合」が発足したのが大きかったですね。実際に採掘に踏み切ったのは平成28年の夏です。それから特に日本海側のメタン・ハイドレートを採掘してきました。その技術の蓄積があっての本格的な商用採掘に踏みきれた訳です」
赤城博士がそこまで話を進めたとき、いかにもベテランという雰囲気を醸し出している皺の多い顔に渋い表情を浮かべた船長が、船橋に轟くような声で機関の停止を命じた。その声に応じて機関が停止する。
続いて、船橋の上方にディスプレイアームで吊り下げられている液晶ディスプレイに、船橋からは直接視認できない、船体中央に鎮座していた、ずんぐりとした艇体の無人採掘潜水艇がデリックで持ち上げられていく。
潜水艇は海面に浮かべられると、ゆっくりとした速度で潜航を始めた。
続いて潜水艇のカメラ画像らしき映像に切り替わり、しばらくは変化のない海中の映像が続く。
「さて、先日渡した資料にもあったと思いますが、メタン・ハイドレートには二種類のものがあります。いわゆる砂層型あるいは深層型というタイプと表層型と呼ばれるタイプ。深層型は海底表面から100メートル前後の層に砂と混じって存在しています。一方、表層型は文字通りメタハイのある層から、ガスチムニーと呼ばれる経路を経てメタハイのある層から押し出されてきて、海底表面に塊として存在するメタハイです。深層型は太平洋に多く、表層型は日本海に多く分布しています。さて、どちらがより利用に適しているか、分かりますか?」
「それは表層型だろう。なにせ海底表面に突き出しているのだから、そのまま使える」
明穂があからさまなドヤ顔で応える。
「正解です。深層型の場合まず砂とメタハイを分離しなければいけませんからね。さて、肝心のハイドレートとご対面ですよ」
潜水艇が海底に到達したらしく、ライトに照らされた視界の中にゴツゴツとした岩のようなものが見えていた。そして、その岩の向こうには白い塊が視界の隅まで広がっている。
「この白い塊がすべてメタン・ハイドレートです。採掘艇を遠隔操作してハイドレートを内蔵されている圧力容器に回収します」
「これがすべてメタン・ハイドレートなのか」
明穂にしては珍しく二の句を継げない様子で、ただ液晶ディスプレイを見つめている。
「メタン・ハイドレートの埋蔵量は日本周辺海域を合わせたものだけでも6兆立方メートルに及ぶと見積もられています」
「それは日本の天然ガスの消費量をどれくらい賄えるんですか?」
耀一郎の質問に、赤城博士は予期していたのかすぐに応える。
「あくまで概算値でしかありませんが、日本の一年間の天然ガス消費量から考えて、100年分の量があると言われています」
「100年分!その量ならば日本が天然ガスの輸出国になることも可能な額だな。さすがに今は戦争でそれどころじゃないがね」
興奮気味に言う明穂に、赤城博士はゆっくりとした動作でうなずいて見せる。
「今提示したデータは時震以前のものですが、最新の採掘調査ではメタハイの埋蔵量
自体は時震以前とさほど変わりないという結果が出ています。つまり、天然ガスは外国から運んでくることなく、国内で確保することが可能ということです。ここ、富山湾で採掘されたメタハイは陸上の施設で天然ガスとして利用できる形に転換され、パイプラインで東京や阪神神戸へ送られます。パイプライン自体は既存のものを出来るだけ利用するかたちですね。エネルギーとして利用する際も、例えば既存の火力発電所でそのまま燃料として使える、これはメタハイの大きな利点です」
「採掘する物質としては新しくても、利用するだけなら既存技術かつローコストで運用出来るということか。大きな利点だな」
「ええ。採掘コストはまだ高いのですが、なにより自前で自由に使えるエネルギーはこれしかない。試算では輸入した天然ガスの備蓄が尽きる前に、火力発電の燃料はすべてメタハイに切り替えられるはずです。
なにしろ今は戦時中。すぐ使えるエネルギーは貴重ですからね」
エネルギーの専門家らしい観点から述べた佑子に対して、赤城博士はタブレット端末を操作しながらうなずく。
「最近普及の始まった発電効率のいいコンバインドサイクル発電と組み合わせれば、わずかに残った石油火力発電所はいよいよ廃止されるだろうな…」
「さて、それでは実物を見てみますか。会議室に用意してありますから」
赤城博士に促されて、船橋から移動した先は小さな会議室だった。乗組員同士のブリーフィングに用いるその部屋は10人も入ればいっぱいになってしまうほどの広さしかない。
その会議室中央の床に固定されたテーブルの上には、銀色に光る格納容器といくつかの実験機器のようなものが載せられている。赤城博士は格納容器の蓋を開けると、中から円筒形の容器を取り出す。さらに、容器の蓋を開けて、その中身を金属製の三脚の上に載せられているセラミックつき金網の上に取り出す。 一見すると、それは白い氷の塊のように見えた。
「どうぞ、触って構いませんよ。人体に害があるものではありませんから」
好奇心を刺激されていることがひと目で分かる顔をしている明穂は、その白い塊を手の平に載せてみる。そしてあろうことか。ぺろりと小さな可愛らしい舌で舐めてみる。
「人体に害はないとはいえ、大丈夫なんですか」
「ははっ、問題ありませんよ。たまにこういうことをする人はいますから」
ややあきれ顔の耀一郎に、赤城博士は動じる様子もなく答えた。
「さて、それではお約束ですが、実際に燃やしてみましょうか」
赤城博士はテーブルの上に載っていたガスライターのスイッチを押すと、炎をメタン・ハイドレートへ近づける。すると、たちまち白い塊は青白い炎をあげて燃え出した。
「これが資源輸入を断たれた日本の起死回生の切り札です。他国に頼ることのない、自前の資源です」
赤城博士は静かにそう言いながら、その炎を見つめていた。
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