第29話 ガダルカナルで休日を

1942年10月25日 13時44分(現地時間)ガダルカナル島 


 あの悪夢の夜から、はや二か月近い歳月が流れた。


 連合軍将兵は、日本軍がまるで潮が引くように撤退していくさまを、狐につままれたように半信半疑で見送った。日本軍の撤退の手際は迅速かつ隠密であり、連合軍が追撃する暇すら与えることなかった。


 とはいえ、連合軍もけして手をこまねいていた訳ではなかった。


 このガダルカナル島をはじめとするソロモン諸島、ニューブリテン島、ラエなどのニューギニア方面を占領。


 補給物資を大量に送り込み、日本軍の反撃に備えて一部を要塞化するなどの作業に追われていた。


 アメリカ軍内部では、日本海軍泊地があるトラック諸島や、あるいは日本本土爆撃の基地になりうる硫黄島積極的に攻勢をかけるべきであると主張する積極派。


 日本軍が戦線を整理したうえで戦力を温存し再起を図っている以上、戦力の充実を待ってから攻勢をかけるべきであるとする防衛派に分かれていた。


 どちらにも一理があるだけに、論戦はなかなか収まらなかった。


 かつてのアメリカ軍であれば、積極策が特段の議論もなく採用されたであろうが、日本軍のあまりにも早すぎる撤退が逆に警戒心を呼び起こしていた。


 また、先日のソロモン海戦の翌日に哨戒を行っていた偵察機によって日本海軍の新型空母四隻が目撃されたという情報も大きく影響していた。


 距離が遠かったのと、相手が信じられない速度で離脱していったのとで、写真撮影が間に合わず目視だけの情報でしかない。しかし、上層部に深い憂慮をもたらしたのは確かだった。


 仮にその空母が誤認だったとしても、時速30ノット近い速度で進むことのできる軍艦がいたことは事実なのだ。

 

 翻ってアメリカ海軍にはたった二隻の空母、ホーネットとエンタープライズがいるだけ。新型空母が本国で何隻も建造中ではあるが、現時点では、まだ書類上の数字でしかない。

 

 加えて、航空偵察ではトラック諸島の泊地に投錨している艦艇が激減していることが航空偵察で判明していた。トラック泊地は中部太平洋、あるいは南太平洋へ戦力を展開することが可能な日本海軍の要衝である。


 そこに戦力がいないというのは、ミッドウェー海戦の損害からの戦力の立て直しに力を注ぐためであるというのは自然な推論だった。


 であれば無理押しする必要はない。


 時間が経てば経つほど戦力が強化されていくアメリカに対し、オランダ領インドシナ蘭印の油田を制圧しているとはいえ、燃料入手に苦労している日本軍のほうは先細る一方だ。

 

 時間はアメリカの味方という認識は間違いではない。


 いずれ、しびれをきらした日本軍はいずれ積極攻勢に転じるはず。


 それをカウンター攻撃で致命傷を負わせる。それが防衛派の言い分だった。


 無論、防衛派も日本軍への攻撃を全くやめてしまうべきだと主張している訳ではない。 

 潜水艦による通商破壊を積極的に行って、日本軍のアキレス腱である燃料事情を悪化させるべきだというのは、積極派と防衛派の共通認識であった。


 しかし、特にここ二ヶ月の間にアメリカ潜水艦隊の未帰還数は大きく上昇のカーブを描き始めていた。

 

 特に、日本本土近海や、マリアナ諸島方面、トラック泊地方面へ派遣した潜水艦に至っては、ほぼ例外なく未帰還となっている。


 慌てた海軍上層部が潜水艦の同方面への派遣中止を決めるほどだった。

 

 ひるがえって積極攻撃派は、日本軍を侮るべきでないと主張していた。


 時間を与えるということは、攻撃する場所を自在に選ぶ権利を与えるということに他ならない。


 真珠湾で我々はその危険性を手痛い代償とともに学んだではないか、と。


 トラック泊地に艦艇がいないというのも、合衆国の拠点に奇襲を仕掛けるためかもしれない。だからこそ、こちらから積極的に打って出て、戦争の主導権を握るべきである。


 たしかに、こちらも説得力のある言い分ではあった。


 とはいえ、前線の兵士たちにとって、そんな上層部の論争は雲の上の出来事だ。


 兵士達の中で運の良い者たちは、ローテーション配置により安全な後方に下がって休養を取るという贅沢に預かれた。

 

 運悪くそのまま前線勤務を続ける者たちですら、たまに日本軍の偵察機が嫌がらせのように飛来する程度だった。


 この時期のソロモン諸島は、押しなべて平穏であった。



 アレクサンダー・ヴァンデグリフト准将にとって、この月日は質の悪い冗談のような歳月であった。


 あの夜、何か打開策のきっかけになればという思いで出撃させた戦車を含む偵察隊は、瞬く間に戦闘不能に陥った。


 死者こそ出なかったもの前線での戦闘復帰が不可能と医師に判断された者は数多かった。


 偵察隊の指揮官であるアーロン中尉の報告によれば、敵は月明かりがあるとはいえ密林の中から正確に狙撃をしてきたという。


「それなのに、敵はとどめを刺すことなく逃げ去った。追撃すれば偵察隊を全滅させることすら可能だったろうに」


 その不可解さが、准将の中でずっと手のひらに突き刺さった棘のように引っかかっている、

 形の上では日本軍を敗走に追い込んだという栄誉を得たものの、何の高揚感も無かった。一歩間違えば、我々もイギリス人のダンケルク撤退戦のような羽目に陥っていたという確信だけあがった。


「准将、そろそろです」


 傍らで控えていた参謀の大佐に声をかけられ、目の前の現実に引き戻される。


 演習形式の上陸訓練が始まろうとしているのだった。


 准将たちが訓練を見守っているのは、砂浜の最奥部に位置する通信機材や地図、書類の山で占領されている大型天幕の一角であった。


 ガダルカナル島の戦い以降、休養と訓練を兼ねて島に留まっている第一海兵師団の訓練用臨時指揮所である。


 天幕の前面は大きくまくりあげられ、レッドビーチの砂浜が一望出来るようになっていた。目の前に広がっている光景は壮観だった。


 歩兵や戦車を搭載した上陸用舟艇がずらりと勢ぞろいし、中には最新鋭の戦闘車両である水陸両用戦車LVTまでいる。

 

 本来ならもう少し多くの舟艇が増派されるはずだったが、浮遊機雷への触雷で大きな被害が出たという話を海軍の連絡将校から聞いた。


 なんでも、日本軍は機雷敷設をニューギニア方面やソロモン諸島で積極的に行っており、無視できない被害が発生しつつあるのだという。

 

 機雷の被害にあっているのは輸送船だけではなかった。


 なんとも気になる話だが、今は目の前の訓練に集中すべきだった。

 

 舟艇群は一斉にガダルカナル島のレッドビーチと呼ばれる海岸に接岸すると、満載した兵士や車両を下し始める。

 日本軍が飛行場を設営していた頃に奇襲上陸したあの日を、投入兵力を倍にして再現したような光景だった。


 怒号のような指令と、悲鳴のような悪態が交錯する。


 ほぼ半数の兵士は先日の上陸戦に参加しているために手慣れたものだ。


 あとの半数は実戦経験のない新兵や前線から遠ざかっていた兵が混じっているため、どこか動きがぎこちない。


「頭を猫のように低くしろ、このうじ虫ども!死にたいのか!」


畜生バスタード!ジーザス!」


「砂を食らうか、鉛弾を食らうか好きな方を選べ!」


「GO!GO!GO!!」


 兵士たちは悪態をつきながらも砂だらけになりながら水際を匍匐前進し、ようやくのことで砂浜を抜けてゴールに指定されている密林へと飛び込んでいく。


 揚陸艦から降りた戦車の中には最新鋭のM4中戦車シャーマンの姿がわずか三両ではあるが確認できた。


 戦車部隊にも厳しい判定が待ち受けていた。少しでも陣形が乱れようものならすぐに無線で叱責が飛ぶ。


「兵の練度はこの短期間にしては向上している方かと。無論、向上させなければならない面は多々ありますが」


「そのようだな。だが、日本軍を侮ってはならん。奴らは練度が高く、狡猾だ。その

うえ、得体の知れない新兵器の情報もある」


 双眼鏡をのぞきながら、准将はたしなめるように言った。


「闇夜からの狙撃を可能にする暗視装置ですか。我が軍にすらないものが…」


「だが、奴らは有色人種にマトモな戦闘機など開発できるはずがないと侮っていた我々をゼロ・ファイターで圧倒してみせたぞ」


 准将の言葉に、参謀の大佐は言葉に詰まる。


 それと同時に、従兵が駆け込んでくる。


「本国の司令部より入電です。第一海兵師団は28日までに出撃準備を整えよ。なお、これより開始される作戦は三叉槍トライデントと呼称する」


「やっと出撃命令が来たな。各部隊は訓練をそのまま続行し、明日一日は休養。その翌日から出撃準備に入る。司令部要員は訓練と並行して、物資の搬入や輸送計画について取りまとめる。忙しくなるぞ。出撃まで満足に寝られないと思え」


 准将の言葉に、幕僚スタッフたちの顔が引き締まる。


「ようやく出撃ですか。新型空母が投入されるというのは本当なのですかね」


「さあな。だが、海軍の連中も成算のない作戦はしないだろう。」


「作戦目標はトラック泊地ですかね。それともマリアナ諸島?」


「さあな。どのみち、作戦の詳細が分かるのは時間の問題。我々は戦通りに動くだけだ」


 准将は南洋の厳しい日差しに目を細めながら制帽をかぶり直すと、上陸訓練を続ける将兵に双眼鏡を向けた。

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