第17話 一木支隊
まんじりともせず過ごした、ガダルカナル島の夜が明けた。
南洋特有の刺すような陽光に目を細めたとき、その光に
一木清直大佐の脳裏には、先程までの戦闘の様子が蘇っていた。
米軍の野戦砲や重機関銃による猛烈な攻撃で、彼は右脚と左眼を失った。
意識を取り戻したのはつい先刻。
記憶の中にあるのは、飛び交う曳光弾と悲鳴、砲弾の炸裂する音、身を守ってくれるはずの夜闇を剥ぎ取る照明弾の閃光、魂消る悲鳴。
思い出したくもないその光景を振り払うために激痛をこらえながら煙草に手を伸ばしかけ、敵軍が展開している島で位置を知らせる愚にようやく思いが至る。
火をつけることも、煙を立ち上らせることも、自分だけではなく部隊全体を危険に晒す行為だった。
――この島でこんな苦戦を強いられるとは、考えもしなかった。
そもそも、ガダルカナル島の戦いが始まったのは八月二十日のことであった。その時点で島に展開していたのは海軍の第十一設営隊と海軍陸戦隊。
日本軍はオーストラリアとアメリカの連絡を遮断することで連合国からオーストラリアを脱落させるという、いわゆる「米豪遮断作戦」を進めていた。
ガダルカナル島はオーストラリアとアメリカの連絡輸送路上で
飛行場を設営して海軍の戦闘機隊と陸上攻撃機隊を進出させて制空権を確保。そのうえで海上輸送を遮断し、オーストラリアに圧力を加えるのが狙いであった。
兵器や食料を輸入に頼るオーストラリアはアメリカからの輸送船団が途絶えれば、枢軸国側につく可能性もあると考えられていた。
そんな中、大本営から緊急情報が入った。一万名規模の米軍の大兵力が上陸作戦を敢行してくるという情報であり、海軍側は急遽陸戦隊千名ほどの増派と現地での陣地構築を開始した。
本来なら奇襲攻撃となるはずだった米軍の攻撃は、しかしスコップとモッコで作った急造陣地をやすやすと突破された。わずか百数十名にまで減った第十一設営隊と海軍陸戦隊は飛行場からの撤退戦を敢行し、敵包囲を突破してジャングルに逃げ込んだ。
ここにガダルカナル島の要地、ヘンダーソン飛行場は米軍の手に落ちたのである。
元々日本軍はガダルカナル島の戦略的価値と米軍の兵力を見誤り、米軍の来襲は少なくとも来年以降とたかをくくっていた。
日本の通弊である陸海軍の対立も、この島の戦闘に陰を落としていた。
海軍側がガダルカナル島に航空基地を建設していたにも関わらず、その情報は陸軍上層部の一部に伝えられていたに過ぎない。
現地の陸軍部隊は、ガダルカナル島に海軍が飛行場設営をしていることすら知らされなかったのである。陸海軍が最低限の情報共有すら行わなかったことの悪影響であった。
飛行場を奪取されたことに慌てた海軍は、そこでようやく陸海軍協定に基づいて陸軍に協力を求めた。陸軍側はその要請を受けて、ガダルカナル島に飛行場奪回部隊を送り込んだ。
それが一木清直大佐率いる一木支隊である。
とはいえ、一木大佐の元には米軍の規模や装備などの情報はほとんど知らされることなく、ただ「米軍の上陸部隊を撃退せよ」としか知らされていなかった。
それに加えて一木支隊は輸送艦ではなく、搭載量の限られた海軍の駆逐艦で輸送されたこともその事情に拍車をかけた。
迫撃砲や対戦車砲など、火力のある重装備は積むことが出来なかった。
そのうえ、武装の大半は一回撃つごとに弾込めをしなければならない三八式
わずかに九六式軽機関銃や八九式重擲弾筒などの装備があるきりで、榴弾砲や山砲などの重装備は望むべくも無かった。
そのような中、支隊は二日前にガダルカナル島北東部のタイポ岬に上陸した。
そして、昨晩攻略目的であるヘンダーソン飛行場まで約3キロの地点にある、イル川西岸の米軍陣地に夜襲を試みた。
軽装備でろくに陣地攻略に適した装備を持たない支隊は、900名だった兵員の半数近くを失った。挙句には指揮官が人事不省に陥り、やむなく部隊は撤退した。
米軍は何故か追撃をしてこなかった。こちら側の戦力を過大に見積もったか、増援を警戒したのか。
だが、今は追撃がなくとも、いずれ米軍は一木支隊を殲滅するべく、兵力を送り込んでくるだろう。
「なんとも不名誉なことだ…」
一木大佐は、昨日の自分の失態に思わず唇を噛む。
「大佐殿。我々は敵軍をあまりに侮っていました。上陸した米軍の兵力を過小評価したうえ、軽装備に過ぎた。
「馬鹿な。確かにあの陣地は強力だったが。それほどまでの兵力はどこから来た」
「そこまでは…ただ、あの堅固な機関銃陣地が厄介なのは確かです。どのみち、あれ以上の夜襲は不可能だったと思われます」
「日浦軍曹。それは確かなのか。臆病風に吹かれたのではあるまいな」
大佐は、無愛想な顔でこちらを見つめている日浦軍曹を睨みつける。
背が低く風采のあがらない村役場の係長といった風体の日浦軍曹は、感情の見えない顔でかぶりを振った。
イル川の戦いで大佐以外の多くの将校や下士官が戦死するか負傷するかしており、日浦軍曹はまともに動ける唯一の下士官となっていた。
支隊本隊が攻撃された時に、撤退を命じたのはその場で最上級者であった日浦軍曹だった。故に、一木大佐は素直に軍曹の言葉を聞き入れることが出来なかった。
「いいえ、確かです。私が確認した限り、敵軍は対戦車砲や榴弾砲などの砲兵に援護されており、加えて複数配置された機関銃陣地は厄介です。わずか500名に満たぬ規模となってしまった我々が攻略できるとは思えません」
軍曹の言葉に思わず頭に血が上りそうになった一木大佐は、ぶり返した傷口の痛みに顔をしかめた。先ほどまでいくらかマシになっていた痛みが、急に耐えられないほどになる。
――畜生、モルヒネが欲しい。だが、そんな物はあるはずがないか。
軍曹の視線を無視して、周囲の兵士たちを見渡す。
生き残った殆どの者が負傷しており、大佐の負傷など軽傷のうちに見えるほどだった。
度重なる戦闘で400名近い兵員が戦死し、また装備品のほとんどを失った。
包帯や薬品の手持ちなどあろうはずがない。
幽鬼の群れのようにも見える敗残の兵たちは、恨みつらみをこめた表情で大佐を見ている。少なくとも大佐の目にはそう映っていた。
「確かに我が方の損害は甚大だ。このまま進撃というのは蛮勇だろうな」
不承不承といった感じで、一木大佐は不利を認めた。
日浦曹長は幽霊でも見てしまったかのような表情で驚いている。
それもそのはず、昨晩の夜襲では斥候隊がほぼ全滅したにも関わらず戦場から離脱してきた兵士を叱り飛ばし、部隊全員に「すぐに敵を捜索して攻撃せよ」と命じていたからだった。
兵力を再編成して再度攻撃をかけると言い出しかねない、そう日浦軍曹は覚悟を決めていたほどだ。
「私もこの負傷のおかげでいくらか冷静になった。確かにあの陣地を落とすのは不可能だ。まして兵力の半減した今となっては…」
「大佐殿、大丈夫ですか」
一木大佐は不意に、目の前の景色が暗くなるのを感じた。
-いや、違う。血を失い過ぎたのが、今になって響いてきたのか。
大佐は急に寒気を感じて、肩を震わせる。
「軍曹、俺はいよいよまずいらしい。意識が朦朧としてきた。今後は俺に変わって部隊の指揮を取れ」
「…了解しました。日浦軍曹、部隊の指揮を預かります」
敬礼を交わした一木大佐はぐったりと首を垂れて動かなくなった。
軍曹が近寄って確認したところ、呼吸はしているようだった。
「まだ息はあるか…坂上一等兵、負傷者の様子を確認しろ。日のあるうちに、移動せねばならない」
「動けない負傷者はどうしますか」
三十過ぎのはずだが、少年を思わせる顔立ちの坂上一等兵が敬礼をしたまま、一木大佐の方へ視線を送る。
「可能な限り連れていく。どのみち、米軍相手に戦えるだけの装備は我々にはない。せめて機関銃の一つでもあればな」
「足手まといになりますが」
「それでもだ、坂上一等兵。すぐに作業を開始しろ」
「はっ!」
敬礼をすると坂上一等兵は発条仕掛けのように飛び出していく。
軍曹は再びその場に座り込み、一木大佐の背嚢に手を伸ばし、地図を取り出す。
きわめていい加減な測量の地図であり、およそ上陸作戦をやる軍隊が持つべき地図ではない。
その地図を見ながら、軍曹は考え込んだ。
――第二梯団とうまく合流できるだろうか。そもそも合流予定地点を決めていたわけではない。加えて相手は同じ陸軍の部隊ではなく、海軍陸戦隊。
上陸戦闘のプロではあるが、相手も陸軍部隊との共同作戦の経験は少ないだろうし、そもそも、米軍の襲撃を受けた可能性もある。
それでも、ろくに装備品もない現状よりはマシか。となれば、敵航空機や追撃部隊の目を避けつつ、合流しなければ。
軍曹がそう決断を下した時だった。
「敵機襲来!!」
兵士の誰かが大声で怒鳴った。
敵航空機の接近にしては爆音がろくに聞こえないことを訝りながら、軍曹は木に立てかけていた三八式歩兵銃を取る。
仰角を高めに取りながら目標を探すと、思ったよりもはるかに低空を飛んでいた。ジャングル特有の背の高い樹木の葉すれすれの低空を、灰色に塗装された航空機が飛んでいる。
しかし、その大きさがおかしい。
操縦席らしいものも見当たらず、そもそもプロペラもなしにどうやって飛んでいるというのか。
ともすれば墜落しかねない危険な操縦にも関わらず悠然と飛んでいた。
「なんだ、あれは。米軍の航空機じゃないな。」
「主翼に日の丸が見えます!味方です」
「いや、味方の飛行機にあんなのあったか?」
銃を構えている兵士も発砲することすらせずに、その奇妙な航空機を唖然と見送る。
少なくともこちらを攻撃しょうとする意志を見せなかったせいでもあるが。
「何か投下したようですね、回収しますか」
何時の間にか傍らに戻ってきていた坂上一等兵が、軍曹に問いかける。
「よし、回収する。あれが何かは、それを見ればはっきりするだろう」
謎の航空機が投下したものは、存外に早く発見された。
それは赤い日の丸が大きく入った濃緑色のコンテナであった。蓋らしき部分をこじ開けると中には厳重に緩衝材に包まれた機械と缶詰が大量に入っていた。
「なんだ、これは。牛缶にたくあん缶だと?」
「軍曹殿、こちらは通信機のようです。ご丁寧に使用方法の解説書付きですよ」
予想外の内容物に呆気にとられ、軍曹は絶句した。
「まあ、少なくとも味方の救援物資とみるほかはないだろうなあ。この日の丸と糧食を見る限りは。」
早くもこの貴重な物資に目を付けた兵士がもの欲しそうな視線を缶詰の山に送っている。
日浦軍曹は咎めだてする気にもなれず、視線だけで兵士たちに釘を刺す。
一方、坂上一等兵は缶詰の山には目もくれず、無線機をためつすがめつしながら見入っていた。
「この通信機を見てください、軍曹殿。我々陸軍が使用している通信機とはまったく違うものです。試してみないことにはわかりませんが、性能も良さそうに見えますし、なにより軽くて小さい。新型でしょうか」
「坂上一等兵、貴様は機械いじりが趣味だったな。なんとか使えるようにしてくれないか。好きなようにやってくれてかまわん。生き残りの中に通信兵はいないからな」
「私も無線機に触ったことはありませんので、結果は保証できませんがやってみます。」
坂上一等兵は目を輝かせながら、解説書と無線機を見比べながら興奮した面持ちで作業を開始した。
その様子を呆れ半分、頼もしさ半分で見守りながら、日浦軍曹は先ほど飛び去った謎の航空機のことを考えていた。
確かにあの航空機に敵意はないどころか、わが部隊を支援する動きすら見えた。
だが、あの日の丸をつけた航空機は海軍のものでもなく、ましてや陸軍のものでもない、はずだ。だとするなら、あれを飛ばしてきた連中はどんな連中なのか。
すべてはこの無線機が使えれば氷解する、そのはずなのだが。
「まあいい、まずは腹こしらえか。」
日浦軍曹はいくら考えても答えの出ない考えをいったん放棄して、目の前の缶詰に視線を移す。
飯をどう配分するか、これも一つの戦いだな。
ついさっきまで、悲壮な戦死を覚悟しつつあった自分がそんな愚にもつかないことを考えているのに苦笑しつつ、軍曹は決意した。
――なんとしてでも、この地獄の島を生き残ってやる。
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