第15話 父帰る
神保町という街は、80年経った今もあまり印象は変わっていない。
道端に溢れるほど本が積まれ、好事家から学習書を探す学生まで幅広く受け入れる猥雑な街だ。
大竹将道がこの街を訪れたことは両手で数えられるほどでしか無いが、この街の思い出は脳裏に深く刻み込まれている。
この平成の御代にあってもこの街は戦中の空襲や戦後の再開発などの波をくぐり抜けてしぶとく生き残っている古書店がある。かつての記憶にあった古書店がそのままの店構えで商売をしているところを見ると、大竹も何故か嬉しくなる。
80年の歳月を重ねていても、確かにここは日本なのだ。帝国も陸軍もなくなったが、日本という根っこはしっかりと残っている。
勤め人の扮装は窮屈だったのか、今日の小柴はと黒地に白抜きの筆書きで「大和魂」と大書されたTシャツに、ジャングル迷彩柄のカーゴパンツ、それに黒のジャングルブーツといった出で立ちだった。どこから予算が出ているのかは知らないが、大竹たちを監視している政府の人間達は希望すれば大抵の物はそろえてくれた。
一方、大竹の出で立ちはと言えば、カンカン帽に白地の開襟シャツに紺のスラックスといった具合だ。昭和初期、つまり大竹の馴染み深い時代の
――昼休みのサラリーマンと、休日の自営業者といった風に見えているのだろうか。
古風な佇まいの喫茶店の硝子窓に映った自分たちの格好を見ながら、大竹はそんなことを思った。
それなりに流行っている店で、昼食時ともなれば学生や付近の会社のサラリーマンで埋め尽くされる。しかし、今日は平日で既に時間は午後の3時にさしかかろうという時刻のためか、閑古鳥が鳴いていた。
小柴は先にカランカランとドアベルを鳴らしながら店に入ると、店のカウンター左端の席に腰を下ろした。大竹も続いて入店したが、ふと入り口すぐのレジ脇で立ち止まる。続いて入ってきたのは、案の定いつも大竹たちを監視している黒服の男二人組であった。
二人はわざとらしい会釈を送ってきたかと思うと、小柴が座っているカウンターの右端の席に腰かけてアイスコーヒーを注文する。
大竹は内心身分の不自由さに嘆息し、数年前も尾行をはじめとする監視を受けたことを思い出す。
結局、誰による監視なのかは判然としなかったが、米国駐在経験から親英米派と疑われたとのだろうと判断した。そういえば、あの時小柴曹長は尾行者を縛り上げて意図を吐かせてやると息巻いていたが、今の曹長にそこまでやる気はなさそうだった。
無言の緊張感を漂わせる曹長と黒服の男たちは放っておき、大竹は店の奥のテーブル席へと歩みを進めた。
そのテーブル席には、身奇麗な格好の老婦人が座っていた。白いブラウスに紺色のAラインロングスカートといった出で立ちで、すっかり白くなった髪は短く綺麗にカットされている。口元にはうっすらと紅がひかれている他には化粧っ気はないが、全体的に上品さが漂っている。
「お父様、お会い出来るとは思いませんでした…お母様にもこのお姿をもう一度見せてあげたかった。」
「やはり…綾子か。私がお前に合ったのは五歳の頃だったか」
大竹の脳裏に蘇ったのは、沖縄に出かける際土産に甘いものをねだった姿だった。つい数週間前に会ったばかりの我が娘が、老婆になっているのは、わかっていたこととはいえ、衝撃的だった。
「政府からお父様に会えるというお話が来たとき、実は迷ったのです。なにしろお父様にとってはつい先日別れたばかりなのに、私は九十近いお婆さんになってしまっているのですもの」
「私も最初は迷った。だが、会える時に会っておかねばとこの写真に背を押されたよ」
そう言って大竹が取り出したのは、黒革の手帳のポケットに大切にしまいこまれていた家族の写真だった。まだ赤子の次女綾子を抱っこした大竹が微笑を浮かべており、妻の美佐枝がその隣で神妙な面持ちで立っている。長男の昭男が中央で敬礼の真似ごとをしながら笑顔を浮かべており、長女の妙子は母の手を握って頑なな表情で正面を睨んでいる。
「懐かしい。お父様も同じ写真を持っておられたのですね」
「ああ、といっても家族の写真で持っているのはこの一枚きりだがね」
「私たち家族にとっては、この頃が一番幸せだったのかもしれません」
綾子は懐かしそうにその写真を眺めながら、どこか遠いところを見ている顔になる。
「聞かせてくれ。私が昭和17年の夏に沖縄から戻ってきた後のことを。」
「分かりました。お父様は戦局が悪化していくに従って家に戻られることが少なくなり、私もたまにしか顔をあわせることができなくなりました。そのたまの帰宅の時も、難しい顔で何事かを考えていることが多くて、とても話しかけられる雰囲気ではありませんでした。そして、昭和20年の正月でした。最後にお父さまにお会い出来たのは」
「おそらく、沖縄転属の辞令を受けた後のことだな」
「ええ、これから米軍が上陸してくるところへお父様が派遣されるということで、家族全員が今生の別れを覚悟していたと思います。お父様はほとんど何もおっしゃらず、お母様にこれを渡されました」
そう言って、綾子が差し出したのは封筒に入れられた一通の手紙だった。封筒には素っ気ない筆書きで、美佐枝殿江と宛名が書かれており、裏面には大竹将道とだけ書かれている。
中の書面を確認すると、これまた味も素っ気もない文章でく書かれていた。
『時局甚ダ悪化セリ。コレヨリ決戦地ニ転属ス。是ガ今生ノ別レと覚悟シ、以下ノ如ク申シ伝エル。
一ツ、貴女ハマダ若イノダカラ、自分ガ戦死ノ後直グニ再婚スベシ
一ツ、一男、二女ヲ残スダケガ心残リ。再婚後モ宜シク養育ノ本分ヲ尽クサレタシ。
一ツ、自分ガ戦死後モ自決ナドスルベカラズ。生キヨ。』
「確かに私の筆跡だ。それに、私が書きそうな事だな」
大竹は苦笑しながら、紙質の悪い便箋に筆で書かれた手紙を眺めた。
前の世界の昭和20年の自分は、やはり俺以外の何者でもないな。
この手紙を読んだ時、すんなりとそのことが腹落ちした。
そして、この老婦人は確かに俺の娘に違いない。
「長野県に家族で疎開していたおかげで、私たち残された家族は一人も欠けることなく、戦争を生き延びました。母はお父様の指示通りに新聞記者の方と再婚されました。昭男兄さんはその後、夜間大学を出て、陸上自衛隊に入られました。妙子姉さんはタイピストの仕事をしていましたが、後に見合い結婚で大蔵省の官僚の方と結婚されました。
残念ながら、正兄さんも妙子姉さんも既にこの世にはいませんが。親不孝とは言わないで下さいませ」
「誰が言うものか。そうか、美佐枝も、昭男も、妙子も戦後の日本を立派に生きたのだな。」
大竹はふと自分の手を頬にあてると、そこはしとどに濡れていた。
――そうか、俺は泣いているのか。
「私も看護学校を出て看護師として働き、結婚をして三人の子供も授かりました。そして、今や六人の孫のおばあちゃんです」
「そうか、そうか…」
言葉に詰まり、大竹は思わず天を仰いだ。
俺の戦死は、無駄ではなかった。
「戦後、『沖縄は本土を護るための捨て石にされた』という言説が巷間に流布しました。その話を聞く度に、私はこう言ってやりました。私のお父様は、沖縄県民を護るために立派に戦い戦死されました、と。まさか、今日お父様にお逢いできるとは思いませんでしたから」
気づくと綾子の顔も涙でぐしゃぐしゃになっていた。
木綿のハンカチを取り出し丁寧に涙を拭うと、綾子はなんとか笑顔を作って言った。
「お父様、これから何事かをなされるおつもりなのでしょう。そんなお顔をなされておられますよ。どうか、前の歴史で沖縄に赴かれた時のようにご存分におやりなさいませ。今日はお逢い出来て大変うれしく思いました。子供の頃の微かな記憶と、残されたわずかな写真でしか知らなかったお父様に、再び出会えただけで私は満足です」
そう言って、綾子は笑った。その笑顔に美佐枝の面影が重なった。
大竹は言葉を紡ぐことが出来ず、ただ敬礼をすることしか出来なかった。
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