第13話 2つの海軍
その日、山口多聞の姿は江田島、海上自衛隊第一術科学校の教育参考館にあった。
昭和11年に建てられたこの建物は日本海軍の歩んだ歴史、そのものとも言える。
横山大観の絵画「正気放光」が飾られ、海軍特別攻撃隊に参加した隊員たちの遺書などが展示施設に納められている。見覚えのある展示物もあるが、その多くは本来の歴史であれば多聞が知るはずのない歴史の遺物であった。
-飛行機で体当たり攻撃とは、なんと勇敢で悲愴なことか。
敢闘精神で後世に名を知られる多聞の眼にも、知らずと光るものがあった。
しばし、遺書の前で瞑目し、決然と展示室の奥へと進む。
「提督はご存知でしょうが、この遺髪室には英国海軍のネルソン提督、そして東郷平八郎元帥の遺髪が納められております。そして、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死を遂げられた後は、長官の遺髪も納められております。」
折り目一つない海上自衛隊幹部の制服-ちなみに正式名称は幹部常装第三種夏服という-を着た五十過ぎの男は、敬意を感じさせる口調で多聞に話しかける。この男の名は仁藤昌弘。海上自衛隊呉地方総監、つまり海上自衛隊呉基地のトップという役職にある。
多聞はその言葉に表向きは反応を示さず、無言のまま閉じられている遺髪室の正面扉を見つめた。
その正面扉にはバルチック艦隊の正面で世に名高い『東郷ターン』を決める連合艦隊の勇姿や、東郷平八郎元帥が佐世保病院に入院していたロジェストヴェンスキー提督を見舞う場面などが彫刻されている。
日本海軍が世界を驚かせた
「山本長官とは出航前に呉でつい先日別れたばかりだ…それが、亡くなられたというのか。」
やっとそれだけ絞りだすように言った多聞に、仁藤は穏やかな顔で頷いた。
「我々の知る歴史では昭和18年4月に前線視察の最中に、ブーゲンビル島上空で暗号を解読して待ち伏せていたアメリカ軍のP―38ライトニング戦闘機に山本長官が座乗した一式陸上攻撃機が襲撃され、山本長官は戦死を遂げられました。無論、これは我々平成の人間の知る歴史です。」
「そうだった。私が生き残っているのも、貴様達平成の人間の知る歴史からすれば、おかしなことなのだったな」
先日見せられた動画で得た知識を、多聞は思い出していた。平成の人間が知る歴史では、ミッドウェー海戦で沈みゆく『飛龍』と運命を共にするはずだったのだという。
-ならば、あの時生き残ってしまったこの自分は、さながら足の付いている幽霊ということか。そのかわりに、本来生き残るはずの南雲中将が戦死されたというのは、なんたる皮肉か。
「これはあくまで私の推測ですが、昭和17年の呉にいた山本五十六長官は、私たち平成の時代の日本列島と『入れ替わった』のだと思います。」
「入れ替わった…か。その入れ替わった昭和17年の日本列島はどこにいったのだろうな」
「それは私にも分かりません。科学者がこの時震に関しては解明を試みているようですが、その学説は百家争鳴の状態で原因すら不明ですからな」
「平成の時代の専門家ですら解明出来ない現象か…考えるだけ無駄ということだな。」
「ええ、原因や現象の解明は科学者に任せておけばいい。問題はこの戦争をどう切り抜けるかということです」
-勝利する、と言わないのがこの平成時代の人間と昭和の人間の違いだな。昭和の
海軍軍人ならば、必勝の信念とか歯の浮いたような言葉を真面目に語る者もいた。
その時、展示室の静謐さを破る大きな足音に、多聞と仁藤は振り返る。
「どうした、騒々しい。場所をわきまえなさい」
温厚な人柄で知られる仁藤には珍しい叱責に、駆け込んできた仁藤と同じ海上自衛隊の制服の幹部、は慌てて敬礼し、非礼を詫びる。
「申し訳ありません。ですが、少々厄介な事態になりまして…」
「国民にご迷惑をおかけするのは不味いな」
その幹部自衛官の報告に、仁藤の顔つきが険しくなる。
「ふむ…まあ、元気が有り余っていてよろしいが、少々羽目を外しすぎのようだな。ここはやはり、上の者が尻拭いをせねばなるまい」
多聞は仁藤とは対照的に、愉快そうにニヤリと笑った。
呉市音戸町坪井 老舗割烹名櫻亭
「てめぇ、もういっぺん言ってみやがれ」
そう言って凄んで見せたのは日本海軍の下士官の軍服を着こんだ、背は低いががっしりとした体型の男だった。年齢はと言えば見た目三十代に入ったばかりといったところだろうか。
「何度でも言ってやらあ。海軍軍人だからと偉そうに。所詮はミッドウェーでアメリカにボロ負けして逃げ帰ってきた腰抜けじゃねーか」
一方、負けずに言い返したのは海上自衛隊の制服を着ているがヒョロっとした体格の男、清水三曹だった。
短く刈り込んだ髪の頭に三白眼、カミソリで整えられた眉毛という風貌は、海自の制服を着ていなければヤンキーそのものである。年の頃はまだ二十歳になったばかりということもあってか、迫力といった点では海軍の男にいささか劣る。
「なんだと?一度も実戦で戦ったことのない人間が知ったふうな口を聞くな」
水兵に手負いの獣が吠えるような声で怒鳴られ、自衛隊の制服の男の肩がびくりと震える。
―畜生、喧嘩はビビった方が負けだ。シャキッとしろ、俺。
清水三曹はかつて高校時代の先輩に教わった喧嘩の極意を自分自身に言い聞かせ、おっかない海軍軍人の眼を見据える。
ここは、呉の街中にある居酒屋「名櫻亭」であった。居酒屋の割には二階に二部屋宴会が出来る座敷があり、階段を上がってくると左右に座敷の襖があるといった構造になっている。トイレはその廊下の突き当りであった。
いい感じに出来上がってきたところで、ふと催してトイレに行ったのがついさっき。用を済ませて出てきたところへ、思い切り肩をぶつけられたのがこのがっしりとした体格の海軍軍人だった。
もともと宴会の最中に、自分たちの部屋にまで響くような大声で詩吟を吟じたり、どこから持ち込んだか三味線をひいたりと、少しばかり度を越したばか騒ぎが気に障っていたところだったので、喧嘩沙汰になるのに時間はかからなかった。
一方、がっしりとした体型の下士官、迫水一飛曹も内心は面倒なことになったと思っていた。
空母「瑞鶴」の零式艦上戦闘機搭乗員である彼は、あのミッドウェー海戦を切り抜けた歴戦のパイロットであった。戦闘こそなかったものの厳しい訓練を潜り抜けてきただけに、少しばかり命の洗濯がしたいという気持ちは強かった。
しかし、母港に帰ってきたかと思えばそこは平成の日本。第一艦隊の将兵は、仕えるべき司令部を失ってしまった。そして、呉には80年後の日本海軍の子孫である海上自衛隊なる組織が幅を利かせていた。
なんとも微妙な立場に立たされた第一艦隊は、やむなく呉に艦を係留したまま、いつ終わるともわからない待機状態に置かれていた。
その上、本来母港で許される半舷上陸、つまり所属艦から外出して命の洗濯をするという唯一の楽しみを取り上げられてしまったのである。
新たな日本での処遇が決まるまで、街に出た水兵たちが問題を起こされては面倒になるという艦隊上層部のある意味自然な判断の結果であった。
自然、不平不満は溜まりに溜まる。懲罰覚悟で艦を抜け出るものも、当然出てくる。その筆頭が恐れ知らずの戦闘機搭乗員、迫水たちであった
「ちょっとばかし、痛い目に合わなけりゃあ、わからないようだな」
迫水の身体が沈み込んだと思った瞬間、清水の身体は一本背負いを決められて廊下の柱に叩きつけられた。そこそこ喧嘩慣れしている清水ですら、いつ懐に入られたか認識することすらできなかった。
「おい、何を騒いで…清水、おいどうした」
大きな音に異常を感じた清水の同期達が駆けつけ、背中に衝撃を受けてせき込んでいる清水を助け起こす。
一方、反対側の座敷がガラリと開いて、迫水と呑んでいた海軍飛行兵の連中が顔を出す。
「どうしました、迫水一飛曹長。喧嘩ですかい」
「なに、ちょいと若い連中に礼儀を教えてやろうと思ってな」
迫水は腹をくくった。
-どうせ喧嘩が避けられないのならば、不名誉なことは御免だ。
ほどなくして、座敷二階廊下での大乱闘が始まった。
襖が破れて、障子が穴だらけになり、酒瓶や銚子が転がる。
「そこまでっ!全員整列っ!!敬礼!」
不意に階段の下から響いてきた大きな声に、取っ組み合いをしていた男たちは慌てて酒を飲んで暴れたためにふらつきながらも、廊下の両端に整列し、指先をプルプル震わせながらも敬礼して見せる。
「まったく、元気が有り余っているな貴様ら。」
階下から顔を出した山口多聞の顔を見て、迫水の顔が蒼白になる。
「誰ですか?」と、小声で聞いてきた迫水の部下に、迫水は呆れた顔で返事する。
「馬鹿もんっ、艦隊司令の山口中将だ。そうか、お前はミッドウェーの後に補充されてきたクチだったか」
部下は敬礼しながらも、あんぐりと口を開ける。
一搭乗員にとって艦隊司令と言えば、それこそ雲上人。滅多に顔をあわせる人物ではない。
「元気なのは結構だが、座敷の主人に迷惑をかけるのはいかん。あと、お前らここで遊ぶカネをどこで手に入れた」
「それぞれが所持していた硬貨や紙幣を市内の古銭買取り業者に持ち込んだのでありますっ。お守り代わりに持っていた記念硬貨などもありましたので、いい金になりましたっ」
迫水は誤魔化してもしょうがないと思い、白状する。
「ほう、なかなかの知恵者がいたものだ。だが、その知恵は米軍を叩くために使え。」
「はっ、申しわけありません」
迫水は敬礼をし続けながらも、多聞と目を合わせられない。
「喧嘩はいけないな。なにより国民に迷惑をかけることが一番いかんよ、君。」
多聞の後ろから顔を出したのは、仁藤昌弘総監であった。
白さが際立つ海自の制服を着て、制帽を目深にかぶっているのが、居酒屋の廊下とはなんともミスマッチに見えた。
「仁藤総監っ、失礼しましたっ」
今度は清水三曹をはじめ、海自の隊員たちが冷や汗をかく番であった。
滅多に顔を合わせることのないお偉いさんではあるが、温厚篤実な大人物という話は彼らの所にも届いている。そのうえ、海将補の肩章に思わず敬礼の手先が震える。
「さて、喧嘩両成敗というのは昭和も平成も変わらない。この落とし前をどうつけようか、仁藤さん」
「幸い、この名櫻亭の今の主人は元海自の人間です。警察にも通報せずにおいてくれたようですし、壊したものを諸々弁償するだけでいいと言ってくれました。さすがに処分がそれだけでいい訳ではありません」
仁藤総監の言葉に、清水は思わず生唾を飲み込む。せっかく入隊してから初めての昇進祝いで、処分を受ける羽目になるとは。自業自得とはいえ、自分の境遇を呪わずにはいられない。
しかし、よくよく仁藤の顔を見れば、悪戯を企んでいる悪童のような顔で笑みを噛み殺している。
「たしかに処分が何もなし、とはいかん。とはいえ、海自と海軍の間での喧嘩という事実を明るみに出す訳にもいかん。困ったな、仁藤さん」
「ええ。とはいえ、ここの主人にも若い者に厳しい処罰は下してくれるな、と言われていますからね」
多聞のわざとらしい笑顔に、仁藤は片目を瞑って見せる。
「よし、貴様ら明日の朝まで俺たちの酒に付き合え。無論、全員だ」
「異論は、ありませんね」
仁藤は『ホトケの仁藤』のあだ名通りの仏顔で、屈託のない笑顔でからからと笑った。
「そうか、親父さんが病気で倒れて一念発起して海軍へ志願したのかっ!貴様、なんと立派な奴だっ!!」
迫水一飛曹に背中をバンバン叩かれて、清水三曹は慣れない日本酒にむせる。
「だから、海軍じゃなくて海上自衛隊ですって」
「そんなことは、どーでもいいっ!俺は貴様の心意気に感動しておるんだっ!」
迫水一飛曹の暑苦しい顔がぬっと近づいてきて、思わず手で押しのける。
すると、今度はまた大きな手でバンバンと背中を叩かれる。
「そうはいっても、俺親父が倒れるまでは喧嘩やいたずらで警察の厄介になることもあって…まあ、ろくでもない奴で。でも、親父が倒れてお袋がパートで働き始めたけど元々身体が弱くて、それに妹も大学に通わせてやりたくて。あいつは馬鹿な俺と違って頭いいから、いい大学に通わせてやりたいんス」
-あれ、俺こんなことを何でこんなおっさんに話してるんだろう。まあ、酒が入っているからなあ。
ふと座敷を見回すと、自分たち以外にはほとんどの人間が酔いつぶれていた。
さっき乱闘騒ぎの後始末で一旦片付けたはずの部屋には、また酒瓶や銚子が転がり、だらしない姿でよれよれになった制服の男たちが死屍累々といったふうで転がっている。
そんな様子を楽しそうにニコニコと笑顔で眺めながら、猪口を煽っているのは仁藤総監である。飲み始めてからずっと同じペースで飲み続けているはずだから、相当のザルである。
それに付き合っていた多聞長官はというと、さすがに眠気が襲っているのかウトウトとし始めていた。
「俺は感動したっ。よしっ、今日はとことん飲むぞっ!」
「いや、さっきからさんざん飲んでますよ」
また背中をバンバン叩かれて辟易しながらも、清水三曹はそれがあまり嫌ではなくなっている自分に驚いていた。
-そうか、この人なんとなく親父に似ているんだ。顔も背格好も年も全然違うけど。八十年前から来た人なのになあ。
それがひどく不思議なことに思え、清水三曹はグイッと日本酒をあおった。
焼けるような感覚が、何故か心地よかった。
ふと窓にひかれているカーテンの隙間から、朝日が差し込んできていた。
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