第12話 失われた過去と奪い取る未来と

昭和17年8月2日13時55分 国立国会図書館


 国立国会図書館東京本館の第一閲覧室で、大竹は戦史叢書の一部をはじめとする戦史関連書籍の山を紐解いていた。


――妙な気分だ。かつて陸軍参謀本部に勤務していた自分ですら見ることが許されなかった機密電文や戦闘詳報を書籍として読むことが出来るのだから。


 今の大竹の服装は着慣れた軍服ではなく、サラリーマンを装うために濃紺のスーツに身を包んでいる。

 民間の洋服など久しぶりに着る大竹は、着こなしに苦労したものだ。


 格好だけはサラリーマンらしくなったが、客観的に見れば背筋がピンと伸びるなど姿勢が良すぎたり、眼光が鋭過ぎたり。

 あまり偽装として、褒められた出来ではない。


 小柴は何をやっているかと視線を送れば、ゴシップ記事やグラビア写真が中心の週刊誌を積んで、もっともらしく読みふけっている。

 しかし、その口角はいささかだらしない角度になっている。


 嘆息したあと、視線を戦史叢書第11巻、沖縄方面陸軍作戦と銘打たれた巻のある頁に再び落とす。


 大竹将道の名前は戦史叢書においてさほど大きく出てくる訳ではない。

 参謀本部勤務であった大竹は、かねてから沖縄防衛に関する研究を行っていた経緯から、米軍上陸の寸前に沖縄を防衛する32軍に参謀として派遣されている。


 そして、本土へ砲弾や燃料などの補給物資を輸送する要請を何度もしていることが、電文綴に出てくる。


 最後に名前が出てくるのは、沖縄守備軍の最高指揮官である牛島満第32軍司令官とともに摩文仁まぶにの軍司令部壕で自決した将校の一人としてである。

 

 もっともこれには異説もあり、僅かな兵士を率いて米軍陣地に突撃する姿を目撃したとする証言もあった。


 混乱した戦場でのこと、真実を確定することはほぼ不可能だろう。


――これが俺の未来という訳か。


 自分で想像していたよりもはるかに冷静に、他人事のような感覚でその記録を眺めた。

 後方で作戦を立案する参謀という立場とはいえ、職業軍人であるからにはいずれどこかの戦場で斃れる運命は、従容として受け入れる覚悟は出来ていた。


――その死が報われぬ犬死にであったと言うのならば、何のために戦ったのか。自分は沖縄県民もそして帝国も、結局何も守ることが出来なかったのか。


 後悔でも悔しさでもなく、ただ虚ろな思いが胸を満たしていた。

 待ち受けるこの無残な未来を書き換えることなど、果たしてできるのだろうか。


 ふと数日前の会見を思い出す。

 この平成の日本国を預かる宰相、桐生という男との出会いを。


 あの日、帝国ホテルのある客室で待っていたのは、桐生正尚と名乗る五十過ぎの男だった。

 大竹の感覚からすれば首相としては異例の若さに映るが、入念に鍛え上げられた体格と鋭い眼光からは首相としての貫禄が不十分ということはない。


 昼間だというのに窓にはカーテンが引かれており、部屋の隅には黒い背広に身を包み、耳に耳栓のような機器をつけた男が二人控えていた。


 小柴は檻の中に閉じ込められてストレスを貯めこんだ熊のような顔つきで黒服たちを睨みつけると、対抗するように部屋の隅へと移動する。黒服たちの、威嚇するような視線が気に食わないのだろう。


 小柴という有能な下士官の数少ない欠点は、やたらと喧嘩っ早いところだった。       

 特に権力をかさに着る憲兵と取っ組み合いをはじめようとして、慌てて止めたことも一度や二度ではない。


「このような場所にお呼びたてして申し訳ない」


「いえ、問題はないかと。自己紹介の必要はありませんね」


「そうだな。失礼ながら、貴官については調べさせていただきました。そして、この昭和17年の世界に現れた平成日本にとって、貴官が我々の味方となってくれる可能性が高いと判断した」


「買いかぶりですな。私にとって、あなた方平成の御代の人間はまるで異国の人間のようにしか思えない。しかし、連合国という脅威に囲まれている以上、同じ日本人同士で争う暇はないということは承知しているつもりだ」


 大竹はそういうと、桐生首相の顔を真正面から見据えた。

 その眼光に既視感に襲われる。


「失礼、桐生首相。貴方は軍人出身ですか?」


「海上自衛隊。すなわち、日本海軍の血脈を継いだ組織におりました」


――なるほど退役海軍将校か、経歴で言えば昭和の御代の米内光政海軍大臣あたりに相当するだろうか。


 そう考えると、なんとなくこの男の持つ雰囲気に納得がいく。


「自衛隊、なんとも奇妙な名前ですな」


「軍艦や潜水艦、航空機を保有しておりますが、憲法上は軍隊ではないとされております。昭和17年の方々から見ればなんとも奇妙に見えるでしょうが。まあ、脱線はこれくらいにして」


 桐生首相はそこでテーブルの上に載っていたグラスを手に取ると、水を口に含んだ。 飲み込んで一つ息をつくと、決意の表情になって口を開く。


「今、日本政府は南太平洋全域や中国大陸に展開している陸海軍部隊を撤退させようと考えています」


「南太平洋方面や中国大陸から撤退する……おそらく現地の部隊は猛反発するでしょう。平和な時代に生きているあなた方ならともかく、戦友の死と引き換えに獲得した占領地を命令一つで手放せと言われても、現地の部隊は容易に納得しない。通常の皇軍なら考えづらいことではありますが、反乱が起きかねない。」


「やはり、そうですか。だが、私たちはやらねばならない。何故なら、今後アメリカは『飛び石作戦アイランドホッピング』という作戦で本土に迫るからです。」


「飛び石作戦…どんな作戦ですか」


「ラバウルやトラック諸島というような要塞化された堅固な島は無視して、重要な位置にある防備が手薄な島を占領。その島を起点とし、また手薄な次の島を占領していく。例えばペリリュー島やサイパン島、硫黄島などです。」


 大竹は脳裏に太平洋の島々を思い浮かべながら、米軍の侵攻路を示す矢印がうねうねと蛇行しながら島伝いに本土へ向けて伸びていく様を思い浮かべる。

それは何度も見た映画のワンシーンのように簡単に思い描くことが出来た。


 日本軍なら背後を突かれる危険性を懸念して躊躇する作戦だ。

 しかし、制空権や制海権さえ取ってしまえば、島に孤立した部隊は何も出来ない。

 道理には適っていると感じた。


「確かに、何かにつけて贅沢な戦争をする米軍ならやりかねない。実に合理的で無駄がない。兵力と兵站、両方に劣る日本軍には真似ができない」


 改めて口にすると合衆国の凄まじさがよく分かる。未来の歴史を知っている立場からは、それが『史実』として見えているのか。


大竹は密かに慄然とする。


「我々の知る歴史では、攻略されなかった島は補給線を断たれて孤立無援、遊兵と化した。兵士の死因では戦闘での死者より、餓死や病死のほうが多かったという調査もあります。無論、攻略の矛先となった要地の部隊は……言うまでも無いですな」


 大竹は瞑目し、これから見知らぬ戦場で斃れていくことになる兵士たちのことを思った。


 平成の御代に生きる彼らからすればこの時代ははるか昔に過ぎ去った過去にすぎないが、自分にとっては今そのものだ。そして、その今と未来は変えることが出来る……そのはずだ。


「……ここに来るまでに見た映像では、日本軍はミッドウェー海戦での大敗北以降、消耗戦に引きずり込まれ、敗北に至る。そうですね」


「そうです。ですから、今南太平洋に分散している日本軍を撤退させる。そのうえで、アメリカ軍が侵攻してくるならば、南部や中部太平洋ではなく、本土近くの硫黄島あるいは択捉島などの近海外縁部で迎撃します。」


「だがそれでは、本土がアメリカ軍の空襲にさらされかねない。…いや、未来技術での防空体制ならば防ぎきれるのか」


「確かに平成の世の技術は優れてはいますが、万能でありません。ですから、政府はあくまでアメリカをはじめとする連合国との停戦、講和を目指します。フィリピンをはじめ、占領地はすべて手放してでも。それでも、アメリカがあくまで戦争を続けるのならば、その時は戦わざるを得ませんが」


「講和…か。アメリカ側が果たして応じるかな」


 大竹は戦争の趨勢を頭に思い描きながら、それがいかに難しいことであるか考えざるを得なかった。

 アメリカとすれば、ミッドウェーで日本海軍の空母機動部隊を打ち破ったとはいえ、まだ日本海軍の戦力は残されている。


 そのうえ、アメリカの実質的植民地であるフィリピンは日本軍の手に落ちている。


――だが、今の日本の強みはそこか。必要とあらば形式的に敗北を認めてでも、平和という実利を追求できる。それにひきかえ、我々昭和の日本は勝利という大義名分がなければ戦争を止めることすらできなかった。

 ああ、だがアメリカもそれは同じなのか。


「どちらの結果になるとしても、これからガダルカナル島やニューギニアで無為に死にゆく兵士を救わねばならない。協力をお願いできますか」


「つまり、それは私に平成の御代みよの日本人となれ、ということですか。」


 試すような大竹の視線を真っ向から受け止め、桐生は言った。


「我々は日本人です。昭和も平成もない。今救わねばならない将兵を救う、それに理由が要りますか」


 桐生の目はどこまでも真っ直ぐだった。

 守るべきものを認識し、必要とあらば我が身を挺することも構わないものの目だった。


「同じ、日本人か…」


――くだらないことにこだわっていたのは、どうやら俺のほうか。平和な時代の人間にそれを教わるとはな。


「分かりました。協力しましょう。確かに連合国との戦争状態にある今、皇軍相撃こうぐんあいうつという事態は避けねばならない。同じ日本人同士なのだから。」 


 大竹はそう言うと、桐生に手を差し出す。

 桐生はその手を強く握りしめると、深々と頷いた。

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