第7話 桐生内閣

―首相公邸、執務室。

 

桐生首相は筆を構えたまま、何を書くべきかを思案していた。

分刻みのスケジュールで動く大国の首相とはいえ、今このわずかな時間だけは静寂の中にいることを許されている。

 決意した桐生は、筆を紙に落とすやいなや、電光石火の筆運びで紙に筆を走らせる。

 墨痕鮮やかに大書されたのは「自らかえりみてなおくんば、千万人せんまんにんいえども、吾往われいかん。」であった。

「吉田松陰ですか」

 足音をほとんど立てずに入ってきたのは隣の部屋で控えていた秘書官であった

「元は孟子らしいがね。」

「首相、時間です。官邸で会議のメンバーがそろったそうです」

「わかった。すぐに行こう」

「この書は、あとで軸にして飾れるようにしておきますよ」

「頼む。それでは、行こう」

 秘書官に微笑みかけると、椅子の背もたれにかけたままにしていた背広の上着を羽織った。その時には柔らかな笑みは消え、一国を預かる宰相の貌になっていた。


 桐生首相が会議室内に到着したのは余裕をもって公邸を出発したにも関わらず、5分程度遅れていた。

 官邸ロビーの「ぶらさがり取材」を拒否して通り過ぎようとしたところを、報道陣が取り囲んで立ち往生したからだ。結局衛視とSPが強引に引きはがした隙にようやく抜け出すことができたが、まさに異例の出来事であった。

「全員揃われたようですね。戦略偵察局の猪口です、始めます。先日打ち上げたばかりの偵察衛星が撮影した衛星写真です。幸い種子島宇宙センターは無事で、また衛星の寿命による定期交換を予定していたのが幸いしました。まず、沖縄を見てください。」

禿げ上がった頭と鋭い眼光が特徴的な男は、手元のタブレット端末を操作する。猪口兵輔、公安調査庁を長年勤めあげた鵺のような男であった。

彼が率いるのはわずか二年前に発足したばかりの戦略偵察局、通称日本版CIA。日本に戦後はじめて発足した情報機関である。日本をはじめとする世界各国に対する情報工作、破壊工作など合法、非合法問わないスパイ活動を行う機関であった。

「ご覧ください、一目瞭然だとは思いますが。あるべきはずのものがありません。」

沖縄の全体写真が表示されると、会議室内に驚きの声があがる。

「嘉手納基地、那覇空港、モノレール。主だった建造物のすべてがないですねぇ。」

 羽生田外相の緊張感のない声があがる。

「市街地の規模も我々が知っている沖縄と桁違いに小さいのです。左に昨年撮影された沖縄の画像を出します」

比較が容易なように、ディスプレイの左側に昨年撮影された沖縄全図を出す。まさに、一目瞭然で、偵察衛星が写した沖縄は見知らぬ沖縄であった。

「次にこれを見てください。場所はチューク諸島。かつてトラック諸島と呼ばれていた場所です。この環礁は天然の良港であり、先の大戦では日本海軍の一大根拠地となっていた場所です。環礁を拡大します。艦艇群が確認出来ると思います。さらに拡大。これが何か…いちいち説明するまでもないとは思いますが」

「戦艦…間違いない。大和型戦艦だ。二隻ということは大和と武蔵か。」

いささか興奮気味に峯山防衛大臣がなかば叫ぶように言う。

「他にも証拠となる写真はありますが、キリがありませんので割愛します。先日の会議に招かれたという作家さんの推測は間違いなく当たっております。なお、中国東北部満州及び朝鮮半島のラジオも傍受しました。記録と照らしあわせて、戦時中、昭和171942年の放送内容と一致します。以上のことから、戦略偵察局は『何らかの理由』により、今現在この平成日本は昭和17年の地球に存在する。信じがたいことですが、事実として認識せざるを得ないということです。」

 会議室内が急に静まり返る。

 国会議事堂を取り囲む「憲法9条を守れ!」とか、「平和の敵、桐生政権を許すな」という反戦デモ隊のシュプレヒコールが、遠雷のように響いてきていた。

「これではっきりしたな。これ以上の議論は不要。原因はともかく、我々が直面するのは昭和17年の世界ということだ。」

「アメリカやイギリス等の連合国とは交戦状態、国際的には孤立している状態ということですか。交渉できる相手がいないとは」

 羽生田外相はお手上げだと言わんばかりに肩をすくめる。

「まずやるべきことは、憲法の緊急事態条項に基づいて緊急事態宣言を出すことだ。ただし、これには事態を国民に説明して理由に納得してもらうことが必要となる。また、事後でいいとはいえ、国会の同意を取り付けなければならない」

 室井官房長官の言葉に、桐生は重々しく頷く。

「いずれはやるべきことだ。国民には私自ら記者会見を開いて説明しよう。そして、その上でアメリカをはじめとする連合国に停戦交渉をする」

「果たしてアメリカが応じますかねぇ。いや、よしんばアメリカが停戦に応じる意志があったとしても、1942年1月1日の連合国共同宣言では、単独不講和が取り決められているはずです。つまり、停戦するとしても、連合国に所属する諸国が納得しなければ、講話は不可能ということです」

「たとえ困難な交渉でもやらねばならない。少なくとも我々の側にはアメリカと戦争をする理由はないのだから」

 羽生田のどこか投げやりな言葉に、桐生首相はにべもなく応える。

「一応、無条件降伏という手もありますね」

「ポツダム宣言も登場していないこの時点で論ずるべきではないな。猪口局長、この件についてどう思う」

「あくまで文献などの資料からのプロファイリングですが、アメリカという国の性格上、停戦交渉、あるいは無条件降伏に応ずるとは思えません。太平洋の島々やフィリピンを占領しても、日本本土そのものを灰燼に帰すまでアメリカは止まりません。イラク戦争がいい例です。止めるならばベトナム戦争の北ベトナムのように『勝つ』しかない。

 ただし、それは至難の業です。80年後の我々が『未来技術』で、アメリカに対して圧倒的に優位にあるとはいえ、元々の国力が違い過ぎます。」

「わかった。停戦交渉は行うが、最悪の事態にも備えよう。やはり、憲法改正しかない。このままの憲法では、最悪の事態の時に国民を護れない」

「しかし、先の選挙で我々は参院、衆院ともに3分の2の議席を押さえていません。先日の公正党の連立離脱が響いています」

 そう言ったのは三科交通大臣。この内閣の中でももっとも背が低く、存在感も薄い男だった。ただ、これで選挙には滅法強く、党内の根回しにかけては右に出るものが居ないというのだから不思議なものである。

「困難な状況はわかっているよ。だが、国家存亡の危機の今こそやらなければ。」

その言葉に、会議室のメンバーの顔が一気に引き締まった。

「首相が腹を決めたなら、やりましょう。野党を切り崩して、3分の2を確保する。困難だが、やるしかない」

 室井の言葉に、会議のメンバーは深く頷いてみせた。

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