第2話 危機管理センター
平成32年7月22日11時28分
首相官邸地下一階にある危機管理センターは、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
日本各地から飛び込んでくる悲鳴のような報告が相次ぎ、三枝美穂子危機管理監が見つめている壁面備え付けの大型液晶ディスプレイの日本地図にも異常事態を示す赤いピンが次々と増えていく。
「山手線大崎駅付近で大規模脱線事故が発生中。羽田では滑走中の全日旅機がオーバーラン…酷い状況という言葉では言い尽くせないわね。この紫で表示されているところは通信不能な個所だったわね」
将来の首相候補と呼び声の高い彼女は女優でも通用しそうな整った顔に渋い顔を浮かべながら、刻々と表示されていく報告を眺めていた。
「ええ、そうです。とにかく、通信機器が軒並み故障してどうしようもありません。警察や消防に海上保安庁、各省庁の出先機関、各自治体、首都圏は軒並み全滅です。電磁パルス攻撃がここまで凶悪だとは…」
眼鏡をかけた韮崎という名字の職員が答える。たしかこの男は警察庁からの出向だったか。
「泣き言を言っている暇はないわ。とにかく少しでも情報を集めて官邸にあげるわよ。連絡が途絶えている各行政機関には、通信機器が復旧しなければ伝令を送りなさい。吉田君、あなたは防衛省からの出向だったわね。防衛省に無事な通信機器の予備を貸し出せないか交渉して」
「防衛省の装備品なら、電磁パルス攻撃対策が施されている物もありますね。直接出向いて掛け合ってみます」
指示を出しながら、三枝は紫と赤に染め上げられた日本地図を睨み付けていた。
「こんな時に首相が外遊中とはね。副総理は上に詰めているのよね?」
「はい、伊福部首相はバリでの会議を途中で切り上げて帰国の途についていますが、到着は3時間後とのことです」
「何もかもタイミングが悪いわね…尖閣紛争を思い出すわ」
尖閣紛争、二年前に日本と中国が尖閣諸島の領有権を争って衝突した紛争は、日本側の勝利で幕を閉じていた。当初から予測されていた通り、民間人の愛国活動家を装った武装民兵の上陸で始まった紛争は、伊福部誠三総理の決断による防衛出動で自衛隊が出動。
中国軍は空母「遼寧」を中心とする艦隊を派遣して紛争をエスカレートさせたが、アメリカ第七艦隊の出撃によって形勢は一気に日本側へ傾いた。
もっとも、日本側も島をめぐる逆上陸戦で戦後初の戦死者を出すなど、少なからぬ代償を払うことになったが。
「高高度核爆発まで起こしたのだから、中国軍は必ず動いてくる。問題はその目的だけど。」
高高度核爆発は、核ミサイルなどの手段で高度数百キロの高高度で核爆発を起こすことである。その目的は核爆発による放射線や高熱による破壊ではなく、その際に発生する
その強力な電磁波はありとあらゆる電子機器を故障させる効果を持つ。
特に通信機器やコンピューター、工場の生産設備や鉄道車両、航空機などに大きな被害を与える。コンピューターによる情報化、ネットワーク化が進められた軍隊は無力化されてしまう恐れが大きい。
アメリカも自衛隊も装備のEMP対策をまったくしていないわけではなく、最新鋭戦闘機をはじめ、対EMPシールドを施されたものも多い。とはいえ、軍事予算は限られており、すべてに手が回っていないことも確かであった。
「モニターに映像出します。ついさっきアメリカ軍から提供された情報によると、金門海峡付近に多数の艦艇が集結中とのことです。」
偵察衛星が撮影したらしい写真が、液晶ディスプレイに映し出される。
おびただしい数の赤い丸がつけられ、英語のキャプションで輸送艦、駆逐艦などと書かれている。どう考えても故宮博物院観光にしては物騒過ぎる代物ばかりだ。
「尖閣が駄目なら今度は台湾という訳か…」
尖閣紛争以降、中国共産党の支配はかなりの綻びが見え始めていた。これまで対外的強硬姿勢をもって国内の支持を取り付けていた張小虎政権は、経済政策の失敗で不満を募らせる国民の目を国内からそらすべく、『強い中国』をよりアピールする必要に迫られていた。
そんな背景もあって数カ月前から、台湾沿岸でのミサイル発射訓練を行うなど、独立志向を強め『日台同盟』を提唱する民権党の周美峰総統へ露骨な圧力をかけていた。
中国系初のアメリカ大統領であり、民主党の中でも筋金入りの親中派と目されるワン・デイビッド大統領は、尖閣紛争の時と同じように台湾への海軍艦艇の派遣を渋り続けていた。それでもつい先日のニュースでは、自らも二期目として立候補している大統領選挙の動向が怪しくなってきたことに加えて、国防省や共和党からの突き上げに抗しきれなくなり、第七艦隊のほぼ全力を台湾沖へと派遣することが発表されていた。
なお、日本の情報当局は大統領がサインをするはるか前から第七艦隊が出撃準備を整えており、命令が発効する時にはすでに洋上にいたことをキャッチしている。それだけ、アメリカ大統領と国防省の反目が激しくなっているといえた。
三枝は昨今のアメリカと中国、そして日本の水面下の動きを思い出しながら、考える目をした。
「まさかとは思うけど、台湾海峡に目を引きつけておいてまた尖閣に手を出してくるということも考えられる。警戒するべきだと…地震速報?こんな時に地震まで…」
三枝のPCに地震速報のアラートを示すバナーが表示される。
そこに示されている予測震度は6。
とはいえ総理官邸は免震構造、しかも地震に強いとされる地下だ。
三枝は落ち着いた表情でノートPCをたたむと、念のために胸元に抱えた。
その直後、揺れが危機管理センターを襲う。
とはいえ、事前の予測通り揺れ自体は大したことはなかった。
しかし、三枝の表情は大きく驚きにひきつることになった。
机や液晶ディスプレイなどのセンターの備品、そして紺色のスーツに包まれた自分自身の身体、そしてセンターに詰めている職員たちまですべてぼんやりとした光に包まれていた。その発光は次第に強くなり、自分自身の手のひらさえ見ることができないほどまぶしく白い輝きを放ちはじめる。
そして、次の瞬間座っていた事務用の椅子から天上まで跳ね上がったかとおもうような衝撃を感じた。壁面に固定されているはずの液晶ディスプレイがガタガタと音を立てて鳴動し、出処不明の耳障りな高周波音が部屋の中に響き渡る。
三枝にとっても想定外の事態であり、思わず目をつぶってしまう。
瞼の裏で光が収まっていくのを感じ、三枝は目を見開く。
呆然と手のひらを握ったり、開いてみたりして、自分の身体が問題なく動くのを確かめる。
何だったのだ、今の現象は。過度のストレスによる錯覚か、集団催眠か。
それにしてはあまりに生々しかったが。
周囲を見渡してみると異常な状況に襲われていたのは自分だけではないらしく、未だに床に突っ伏しているもの、頭を押さえながら頭痛に顔をしかめているものなど、誰もが身体の不調を訴えていることが見てとれた。
「韮崎君、今詰めている全員の健康状態を把握。少しでも勤務に支障があると判断した場合は医務室へ連れていきなさい。」
「了解。直ちに」
韮崎が周囲の職員に声をかけてまわっているのを見ながら、三枝は自分のノートPCを念のために再起動して、NSC-国家安全保障会議に提出するための報告書作成の続きを始めた。先ほどの異常な現象を報告に入れるか迷ったが、構わず体験した通りをつづることにする。
「頭痛が酷く勤務不能なものは2名、医務室へ行かせました」
「ご苦労。韮崎君、今の奇怪な発光現象を感知した?
「ということは管理監も目にされたのですね。私も正直、自分自身がおかしくなったかと疑いました。集団催眠ということでもなければ、あれは事実ということになりますね」
「…どちらにせよ、さっきの現象を解明している暇はないわ。今はとりあえず現象の解明はおいておきましょう。それより、各地との通信を復旧させるほうが先だわ。
三枝の指示とともに再び活気がセンター内に戻っていく。
そんな中、一人の職員がIDカードを左右に揺らしながら、慌てた顔で飛び込んでくる。
「大田です、海上保安庁から伝令で戻りました。少し気になる情報がありましたので、通信記録をテキストでディスプレイに出します。」
その通信記録は「海の110番」として有名な海上保安庁の緊急通報番号118番に寄せられた通話記録だった。118番は海難事故や密輸事件の通報先として有名だが、不審船の通報もその対象である。
発信者は東京湾沖で操業していた中型漁船の乗組員。
謎の軍艦を発見して攻撃を受けている様子が記録されていた。航空母艦と思しき平型の艦艇2隻と大砲を積んだ数隻の軍艦に発見され、発砲されて逃げているという通報内容だった。
「アメリカ軍が民間漁船を襲う?なんなの、これは」
「荒唐無稽過ぎていたずらかと思いましたが、いたずらにしては手が込んでいます。通報内容も緊迫した口調の半面やけに具体的で。なお、この通報を寄せてきた漁船、第3日東丸はこの通信のあと通信がとれないようです。この通報の漁船だけはなく、複数の漁船が付近の海域で消息を絶っているという報告もあります」
「確かに気になるわね。通信を断っているというのは通信障害かもしれないから断言は危険だけど、気になる。」
「音声データもありますが、確認しますか?」
三枝は再び考えこんだ。
情報は錯綜し、現場の混乱の熱気にあてられそうな錯覚まで覚える。
しかし、彼女は尖閣紛争やテロ事件で揉まれた、稀有な現場派の政治家だった。
「君はこの件を早急にこの後のNSCに回せるように報告書にまとめること。首相到着まで時間がないわ、急いで」
三枝をはじめ、日本の安全保障を預かる官僚や政治家たちは、尖閣紛争の経験をもとに最善を尽くしていた。しかし、この後最善を上回る驚異に見舞われる日本の運命を、流石に彼女たちが知る由もなかった。
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