(4)
◆◆◆
「先輩のこと……ずっと好きでした」
そう告げたのは…11月の下旬だった。冬休みが明けたら、3年生は自由登校になってしまう。答えがもらえなくてもいいから、好きだと言う気持ちだけは伝えたくて告白をした。
好きな人、だった。
でも、もう過去の事になってしまった。付き合っていたのは3ヵ月に足らないほど。そんな短期間なのに、好きになったことを後悔するほどに、恐怖の対象になってしまった。どれだけ泣いたか判らないのに、それなのにまだ涙が出てくる。涙はどこから出てくるのか知りたくなった。もう涙が枯れる程泣いたと思っていたのに、いつまでもいつまでも、枯れてくれない。
不意にポケットの中で震えた携帯電話に翠はびくっと身体を竦ませた。携帯をポケットに入れっぱなしにしていたこと自体、すっかり忘れていた。ポケットの中から引っ張り出した携帯を恐る恐る開く。
メールが沢山きていたとしても怖い、何一つ届いていないのもまた…怖い。そんな心境だった。
届いていたのはメールが2件。今来たメールは、親友の美咲から。
『明日、暇だったら買い物しよう~♪』
もう一通は……差出人を見ただけで、開く前から胸が刺されたように痛い。ドキドキを通り越して、心臓が脈打つたびにズキンズキンと痛む気がした。震える手で開いたそれは、とても簡素なメールだった。
『お前にもう、用無いから』
あまりの虚しさに言葉もでなかった。ただ胸の中に広がっていく虚無感が全てを支配していく。ついさっきまで耳の奥で鳴り響いていた心臓の音すら聞こえない。
どうしてこんな所で泣いていたのか、今しがたまで胸が痛かったのかすら判らなくなるほどに、何もかもが虚しい。自分がここに居ることさえ、何一つ意味の無いことのように感じられた。
◆◆◆
「翠、大丈夫?」
向かいに座っていた愛香に声をかけられて我に返る。とっさに大丈夫と答えたものの、自分が今どんな表情をしているのかすら判らなかった。心配そうな眼差しを向けてきた愛香に、もう一度「大丈夫」と笑って、氷が解けて水の層が出来てしまっていたパイナップルフィズをかき混ぜて喉に流し込んだ。
ピリリと喉を刺激する炭酸とアルコール。急に摂取したアルコールにトクトクと速くなる心臓。隣でさやかが月曜日の合コンで仲良くなった人の事を、楽しそうに話しているのが漸く聞こえてきた。
去年のクリスマス前に当時付き合っていた彼に振られたさやかは、それ以来バレンタインまでには頑張るんだから! と気合を入れて合コンに挑んでいる。そのバレンタインまでも、もう一か月切った。ちゃんと彼氏が出来たらいい、そう思う。自分の事でなければ。
「ねーえ。翠はやっぱ合コン行かない? たまにはどう?」
隣のさやかの言葉に、いつもと同じ答えを笑って告げる。
「……行かない、かな」
もう恋なんてしない、そんな気持ちになる様な素敵な恋愛をしたわけじゃない。むしろ逆。
男の人の所有物になるなんて……そんなの、もうこりごりだった。
◆◆◆
夕焼けに染まる教室。憂鬱な気持ちで、翠は3年生の教室に足を踏み入れた。
「おせーよ」
浴びせられた声に心臓も身体も竦み上がって、凍り付いたように動かなくなる気がした。
「部活、無かったんじゃねーの?」
部活の先輩である道又には、部活の事情は筒抜けだ。
「クラスの……用事があって……」
部活は無かったけれど、HRが終わった後にクラス委員の子と話していたら、一緒に雑用を頼まれた。そのことはメールで伝えていたはずだ。待たせていることは判っていたけれど、いっそのこと先に帰っていてくれたなら良かったのにと、本当は思っていた。
「ごめんなさ……」
何が悪いのか判らないけれど、ごめんなさいというその言葉が震える唇から零れ落ちた。
「お前のその顔、そそられんな」
ニヤリと歪められた唇に、ゾクリと悪寒が背中を走り抜けた。
「そ……なつもり……」
そんなつもりは無い、そう言いたいのに、言葉を上手く紡げない。
「……誰も、居ないしな」
翠はふるふると首を横に振って「嫌だ」と後ずさるけれど、伸びてきた手に手首を掴まれてあっさりと阻まれる。
「声あげんじゃねーぞ」
どんな抵抗も無意味だと有無を言わさぬ言葉が、耳元で低く告げられる。それでも逃れたくて力を込めたけれど、道又の手はびくともしない。
「暴れんなよ。今更だろ」
耳元で囁く声が恐怖をあおりたてる。壁際に追い詰められた翠の制服のボタンを乱暴に外して、胸元に乱雑に手が突っ込まれる。下着の上から胸をまさぐられても、スカートの中に入り込んだ手が内腿を撫でるのも、感じるのは恐怖だけだった。
「嫌……お願い……」
せめて場所だけでも、そう思った言葉に道又が口元を歪める。
「別にどこだっていいだろ。避妊すれば」
そう言って取り出された避妊具に目を疑った。
嫌だ。
頭の中で、何かがはじけた気がした。
その後の事は、良く覚えていない。どうやって道又の手から逃れたのか、判らなかった。気がついたときには、夕暮れだった空には夜の帳が下りていて、物音一つしない暗闇の世界に独りで居た。
『お前にもう、用無いから』
届いたメールの言葉を思い出しただけで、虚無感が心を支配していく。何もかも、自分の存在自体も、薄っぺらくて意味のないものになっていく気がした。
不意にガラッと聞こえた扉の開く音に、翠は心臓が飛び跳ねた気がした。音は隣の部屋からだった。わずかに靴底と床の擦れる音が聞こえてきて、誰かが隣の部屋に居るのだと判って息を呑んだ。
この部屋に来る? お願い、来ないで……
下校時刻をとうに過ぎた時間にこんなことに居ることも、勝手にこんな奥にまで入ったことも、誰かに見つかったらきっと怒られる。
ここに居る理由を問われたら……?
そう思うだけで、あまりの虚しさに胸が軋む気がした。ぐっと唇を噛んだ翠の心を他所に、ガチャンとドアが開くのを拒む音が響いた。あぁ、内鍵をかけていたんだ……と安堵したのも束の間、鍵を差し込む音、次いでカチャンと言う軽いシリンダーの動く音が静寂の中に響き渡って、翠は絶望的な気持ちで膝を抱きしめた。キィと普段な聞き逃してしまう様なドアの蝶番が軋む音すら、耳に届く。パチンと小さな音がして……翠が居る部屋の明かりがついた。
絶対怒られる。
そうは思えど、どうしようもなかった。逃げられる場所も無い。隠れているのを見つからないことを祈るしか出来ない。だけど、無常にも足音は近づいてくる。
実験台の下に座り込んでいた翠からは、脚しか見えなかった。判ったのは、制服ではなくスーツを着ていること、履いているのはちょっとくたびれたスニーカーであること。
その人物は翠の隠れている実験台の前で足を止めた。
「なに……してんだ?」
降って来た低い男の声に、覚悟はしていたけれど身を竦めた。翠は顔を上げることも出来なかった。怒られると思うと怖くて。どうしてここに居るのかを問われるのが不安で。震える身体を小さく縮こまらせる事しかできなかった。
「一年……? 大丈夫か?」
聞こえてくる男の声に責める響きは全く無くて、心配するような、いたわる様な声音に漸く少しだけ顔を上げる。片膝をついて翠の前に居たのは、見たことすらない男だった。
翠の表情を見た後、さっと翠に視線を走らせてその人は立ち上がった。
「制服、なおしな」
その言葉にはっとして、翠は自分の胸元を見下ろした。乱れた制服の胸元からはキャミソールとその下の下着がわずかに見えているのが判って、慌てて手で胸元を抑える。こんな格好をしていたことにすら、気付いていなかった。
震える手でボタンをかけて見上げると、男は翠の方を見ずに缶コーヒーをマグカップに移し変えていた。そのまま、翠のほうに向かってきたかと思うと、翠が座り込んでいる実験台の上でなにやら音がする。ブゥンと聞こえてきたその音は、電子レンジの音のようだった。そして、ピピッとアラームがなった後、またガチャンと言う音。
「顔色ヤバイからとりあえず飲んどけ」
そう言って差し出されたマグカップが、とても熱く感じられて、翠は自分の身体が冷え切っていることに気がついた。
「飲んだら、送ってやるから」
カップに入っているコーヒーは苦くてなかなか飲めなかったけれど、両手で持ったカップの温かさに、やっと止まった涙がまた溢れ出した。
本当に、涙はどこから出てくるんだろう。いつになったら、枯れてくれるんだろう。
泣きながら飲むコーヒーは、苦くて……涙の味がした。
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