(3)


 今日は同期の飲み会だと言うのに、空は夕方に近づくにつれて薄暗くなっていく。刻一刻と雨の気配を強めていく空に憂鬱な気持ちを募らせていると、その気持ちに応えるかのように就業間際にはポツリポツリと窓に水滴が弾け始めた。あぁ、降りだした……と小さなため息を漏らしたのと同時に、ピコンっと社内メールのアイコンが跳ねる。残業にならないといいなと思いながら開くと、中身はとっても軽い、さやかからのメールだった。


『雨降ってきた。傘持ってきてないよ~』


 今日は朝から天気予報で雨だって言ってたじゃん。そう思いながらも、さやかのこういう所は嫌いじゃない。甘え上手だし可愛いと思う。


『傘あるよ。一緒行く?』


『入れて入れて! ちょっとかかりそうだから休憩室で待ってて貰ってもいい?』


『いいよ』


 そんな社内メールを終えて、滞りなく仕事も終えてロッカーに向かう。エレベーターホールから窓の外を見ると、夜なのにビル明かりで灰色の空から細い線を描いて雨粒が落ちてきていた。


「翠、お疲れ」


 ぼんやりとしていた私を現実に引き戻したのは、同期の里美の声。


「雨降りだしちゃったね。傘持ってる?」


「うん。持ってる」


 答えるのと同時にちょっと表情をほころばせた里美をみて、ちょっと申し訳なくなる。


「けど、さやか入れてく約束しちゃったから……」


 流石に傘一つに3人じゃ、傘の意味が無くなりそう。私の言葉の意味を汲んで、里美も眉を寄せて頷いた。


「そっか。夏帆様、まだ終わらないかしら」


「マナは? 傘持ってそう」


「あ、そっか。今日はマナも居るもんね。ちょっとロッカーで待ってみようかな」


 マナこと愛香は、私たちの同期の一人。同期の女の子で今本社に居るのは、私たち営業部の各課に配属されている4人と、総務部の愛香だけ。今日の同期の飲み会は、当たり前だけど愛香も一緒だし、各部署に配属されている男子たちも来る。


 里美が化粧直しをしている間に、夏帆も愛香も揃って、さやかを待つ私は一旦3人と別れて休憩室に向かった。


 お昼時とはうって変わって人のいない休憩室。窓際のテーブルに座って外に視線を投げると、雨粒が落ちているのが街灯の明かりに浮かび上がる。


 冬の雨は冷たい。あの日と、同じだ。思い出してしまった事にため息をついて目を伏せると、あの日の記憶が押し寄せてくる。




◆◆◆


 真っ暗な小さな部屋の中。座り込んだ冷たいリノリウムの床は、容赦なく翠の体温を奪っていった。身体はとうに冷え切っていて、もう寒いのかどうかすら判らなかった。


 聞こえてくるのは、いつの間にか降りだした雨がしとしとと降る音だけ。


 学校のどこか。化学室の奥かな? 生物室……かな? 生物室に付きもののホルマリン漬けの標本を思い出して身震いした。理科系の教室だと思うのは、無機質な机の脚が見えるから。


 この部屋がどんな部屋なのかも見もしないで逃げ込んだ。とにかく隠れたくて。誰にも見つからないようにしたくて。駆け込んだここに内鍵があったから、鍵をかけた。ここに座り込んでずいぶん経つことは、空が教えてくれていた。夕焼け空だった空は、とっくの昔に真っ暗になってしまっていたから。


 あの後、先輩はどうしたのだろう。思い出しただけで震えそうになる身体を両腕で抱き締めた。あの人は、そもそも逃げた翠を追ったりしたのだろうか。後ろを振り向かなかったから判らないけれど、本当は追ってきてすら居なかったのかもしれない。


 襲ってくる虚しさに、ひっくとまた嗚咽が零れた。


 誰も追ってきていないことは判っていた。だけど足がすくんでしまって、もう立つことすら……出来なかった。


◆◆◆


 

カチャッと響いた休憩室のドアが開く音にハッとして顔を上げると、入ってきたのは同じ営業部の先輩 羽山さんだった。


「あれ、北川さん。誰か待ってるの?」


「あ……えっと。さ、さやか、待ってるんです。今日、同期の飲み会なので」


 逸る心臓に言葉はすぐに紡ぐ事が出来なくて、どたどしい返事をしながら胸に手を添えて息を整えた。昔の事を思い出すといつもこうなってしまう。押し寄せてくる不安に飲み込まれそうになるから、なるべく思い出さないように心がけていた。


「野村さん? さっきロッカーに居たからすぐ来ると思……って来たわ」


 小走りで走ってくるパタパタと言う足音が、羽山さんが閉めかけていたドアの向こうから響いてきて、羽山さんがドアを手で押さえる。


「羽山さん、ありがとうございます」


 ぺこりと小さく羽山さんに頭を下げて休憩室に顔をのぞかせたさやかは、私に小さく手を振った。


「翠、待たせてごめんね!」


「みんな先に行ったよ」


「野村さん、飲み過ぎちゃだめだよ?北川さん、ちゃんと見張ってて」


「わかりました」

 

 羽山さんとさやかは、同じ営業3課。だから、羽山さんはさやかがお酒に弱いのをよく知っている。年末に忘年会が続いたときに、連日二日酔いで出勤していたのは、私だけじゃなく羽山さんの記憶にも新しいはずだ。お酒に弱いなら飲まないに尽きると思うけれど、さやかはお酒を飲んでみんなとワイワイするのが好きなのだという。その気持ちは、そういう空気が苦手な私にはわからないけれど、さやか本人が楽しいならいいのかな?  とも思う。ちゃんと仕事に支障を出さないのなら。


 さやかと連れ立って会社を出て傘を開こうとすると、入り口の大きな窓ガラスに映る私とさやかが目に入る。白いコートを着た小柄だけど華やかなさやかと並ぶと、真黒なコートに長い黒髪の自分の地味さが際立つ気がして、直視したくなくて目を逸らした。


「どうせなら雪降ったらいいのになぁ。こんな寒いんだからさ」


 さやかが灰色の空を見上げながら口を尖らせるのを見ながら「そうだね」と同意の言葉を返す。本当に、雪だったら良かったのに。雪だったらあの日を思い出したりしなかったのに。


「皆で飲むのっていつ振り? 忘年会し損ねたから…夏のビアガーデン以来?」


 傍らで話しかけてくるさやかの声が、過去に引き込まれそうになるのをしっかりと繋ぎとめてくれていた。


 お店について通されたのは座敷の個室で、先に店に着いていた里美達が奥の席から手を振っていた。


「翠ー、さやかー。こっちこっち」


 さやかと並んで座って適当なドリンクを注文して、久しぶりに顔を合わせる同期達を見まわして気が付いた。他に3つ席が空いているけれど、来ていないのは2人だけのはず。私が気づいていない間に配置換えあったのかな……?


 そんなことを思いながら他愛のない会話をしていると、個室の引き戸が開いて、店員さんの向こうに見えた人物思わず顔をそむけた。


「おー、皆久しぶりー」


「菊池じゃん、久しぶり」


 顔も見たくなかったその声の主は、同期の菊池雄太。私が同期の中で一番苦手な人で、大阪支社に配属されていたはず。「なんでいるの?」と小声でさやかに囁くと、さやかも知らないようで怪訝そうに首を傾げる。答えをくれたのは、愛香だった。


「たぶんね、支社に配置換え予定なんだと思う。

営業も担当区域が変わるでしょ? 今、総務で支社に担当区域が移る所の引継ぎ中なの。

正式な内示出るの来月なんじゃないかな」


 愛香は少し気まずそうに私を見て眉を下げて続けた。


「ごめんね。菊池居るの言ってなくて。言ったら翠来ないと思って」


 愛香の言葉には「大丈夫」と首を横には振ったけれど、もしも事前に居ると聞いていたら、今日の飲み会は来ないと言っていたかもしれない。……その位苦手なのだ。あの、菊池君が。 


「菊池可哀想に。最初は普通に北川可愛いって言ってたのに、こんな嫌われて」


 くつくつと喉を鳴らして笑うのは、斜め向かいに座っていた川島君。


「北川、なんでそんなに男苦手なの?」


 どうして苦手なのかとかそんな事は、もう思い出したくもなかった。


「……これでもマシになったの」


 ため息交じりの返事を何とか返す。先生は平気だったけれど、7年前のあの雨の日以来、私は男の人が本当に苦手になってしまった。7年経って、随分マシになったのだ。


 それでも、先生の様に傍に居て安心できる人はいない。卒業してから1度も会っていないけれど、先生は私にとってずっとずっと……特別な人だ。


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